第49話 春を待つ
ラナンキュラスの花が枯れた。
生を終えていく花を惜しんで、私はあの手この手を尽くしたけれど、やっぱり枯れた。それはあっという間に訪れた終焉。あぁ終わりが来たのだ、と思った。気付けばもう3月。朽ちた花は、もうここには居ない。
「征嗣さん、どうしたんだろうなぁ」
思わず呟いてしまう程、征嗣さんは未だに心配になるような顔をする。何があったか、と聞いたところで話してはくれない。陽は傍に居てくれればいいよ、と微笑むだけ。噛みつくことは変わらなかったけれど、それも随分と減った。愛されているのではないか、と錯覚しそうなくらいに、前よりも優しいセックスをするのだ。そうして私は、別れたい、と口にするタイミングをどんどん逃していた。
これは、征嗣さんの思惑なんだろうか。彼が私をそれほどに欲するだろうか。手放したくない、と思うだろうか。何を考えても、答えにピンと来ない。モヤモヤを何一つ解決出来ず、私はただやり過ごしてしまっている。あの花は枯れた、というのに。
それでも、今月中に言おう、そう思っている。何故かと聞かれれば、単に心新たな春を迎えたいだけだ。緋菜ちゃんの頑張りに背を押され、そうしたいと思えるようになった。皆で桜を見上げる時、私も心から笑っていられるように。それに私は、もう直ぐ36歳になる。自分を変える絶好のタイミング、と思っているのだけれど。
「そう簡単には、いかな……あ」
インターホンが鳴る。あぁ征嗣さんだ。身に沁みついた習慣というのは本当に怖い。こんなにも重たい気持ちがあるのに、呆れるくらい早く立ち上がれる。深く息を吸って、その気持ちを全部吐き出して。それからいつもの明るい声で、私はそれを受けた。
「陽、俺」
「うん。開けるね」
ムスッとした顔をしてそこに映った彼は、最小限のことだけを告げる。いつだってそうだ。そこで微笑んでいたことなど、ない。少しくらい微笑んでくれたって良いのに。そう何度思っただろう。どうせ叶わないことだ。一度くらい、陽来たよ、って笑ってくれたっていいのに。
「いや、今そうされたら別れられなくなるか」
小さな声で独り言ちたら、いつものように笑顔を作る。征嗣さんがドアの前に立つまで、あと5秒。大体そのくらい。彼が来ることが嬉しかった時から、私はこの部屋に住んでいる。悲しい習慣がまた1つ、ここにあった。
「どうぞ」
「お、おお。有難う」
今日は言えるかな。あぁ言えないだろうな。今一瞬、その顔を見ただけで、私は諦めた。眉間に寄った皺だけなら、苛立っているだけだと思えるけれど。あの困惑したような目。本当は言わなければいけない。そんなこと解っているのに。きっと私は、今日も言えない。
「何かしてた?」
「ううん。お友達とお花見しようって、メッセージのやり取りしてたくらいよ」
今さっき、緋菜ちゃんと連絡を取っていた。後悔していた花見の件、である。彼女はそれを受けて、また更に決意を固めたようだった。きちんとゴールを見据えて、それまでに自分の出来ることをする。そんな闘志に燃えている。こんなにウジウジして、一歩も踏み出せずに居る私とは大違いだった。
「そうか。花見……な」
少しの間が怖くて、思わず身構えた。また嫌味を言うんでしょ?お前にそんな友達がいるのか。そう言うんでしょ?
それなのに征嗣さんは、沈黙しただけだった。ねぇ今までみたいに言ってよ。征嗣さんがそう戻ってくれないと、私困るの。別れたい、って言い出せないじゃない。あぁ別れるのなら、何も気にしなければ良いのに。今日も結局、私は。
「陽、就職課って今忙しい?」
「ん、いや。いつも通りだよ。年度末のまとめと新年度の準備。今年だからと言って、何か厄介なこともないし」
「そうか」
黙り込んだ征嗣さんに首を傾げながら、私はキッチンに立った。何をそんなに悩んでいるのだろう。もうあれからふた月。今も私には理由が分からない。京都へ行ってから、征嗣さんの様子がおかしくなった。私と過ごした時間を思い出して、センチメンタルになっただけ。彼はそう言っていたけれど、それがこんなにも続くとは思えない。
「陽、その花見はいつ頃やるの?」
「ん、そうねぇ。咲かないと何とも言えないけれど。彼女……ほら、仏具販売店で働いてるって前に話したあの子なんだけど。お休みが合わないだろうから、夜桜になるかなぁって話はしてるんだけれどね」
「おぉ、そっか」
聞いて来るくせに、話はそれ以上に膨らまない。興味があるのか、ないのか。それすら良く分からない状況で、少しだけ苛々している。あぁでも。本当にそんな友達がいたんだな、とはやっぱり言わない。まだ何かを考えていることだけは、確かだ。
「征嗣さんはお花見しないの?」
「ん、あぁ。どうだろうなぁ。新しい子たちが来る頃には枯れてるし」
「でも、娘さんとか行きたいんじゃない?」
「うぅん、そうかぁ?」
「そうよ。まぁ……子供のことは分からないけれど、ね。きっとそうじゃない?楽しいもの。皆でお出掛けするのは」
そんなこと、私が心配することじゃない。でも、こうしてやんわりと、彼に家族のことを思い出させようとする。あなたには大切にしなければいけない人達がいるんだよ。それは私じゃないの。そんな細やかなメッセージを送り続けているのだ。それでも、征嗣さんは顔色一つ変えない。言い出した私の方が、その重みに目をやって、息苦しくなっている。
母の写真を倒して、コーヒーを二つ手にする。それを一つ、何も言わないまま肩を丸めた征嗣さんへ、どうぞ、と差し出した。黙って受け取るた彼。じっと、その褐色の表面を見ている。それから少しして、どことなく平坦な、有難う、をくれた。何も気にならなかった訳じゃない。コーヒーを飲むふりをして、観察した征嗣さん。癖のある髪。厚ぼったい一重瞼。いつもと変わらないのに、安易に触れてはいけないような感じさえする。コーヒーに口を付けて、少しだけ緩む口角。そして静かに、私の方へ視線が向けられる。
「陽。おいで」
それだけを言う征嗣さんが、酷く寂し気に映った。何だか恐ろしくて、不安にさせる。私は彼にもたれ掛かって、どうしたの?とだけ問うた。それ以上は、何も聞けなかった。
「ん。何でもないよ」
「……そう?」
「そうだ」
大事なことを隠しながら、彼は私の髪を撫でる。子供をあやすように撫でていたその手が、いやらしく私の耳をなぞり始めた。いけない、と思いながらも裏腹に、ゾクゾクと微かに身が震える。そして視線が合わさると、静かに口付けが始まった。甘く……いや悲しく。侘しく、優しいキスは、直ぐに熱を帯びる。そしていつものように、私は彼に抱かれるのだ。
彼が結婚してからというもの、私達のセックスに愛なんてなかった。それが何故か、今ではここに愛があるかのように錯覚させる。離れたくない、と彼に絡みつく私の腕は、今は何よりも正直なのかも知れない。腹、胸、それからお尻。彼は少しだけ噛み跡を付ける。何だかそれが、自分の名を刻んでいるかのように見えた。じっと見つめ合って、また唇を重ねる。そして静かに交じり合いながら、征嗣さんが私に囁いた。「陽、旅行へ行かないか」と。快感に溺れ始めながら、その言葉をぼんやりと繰り返す。
「旅行?」
「そう。二人で。行こう」
何言ってるの?これから別れようとしているのに。今更そんなことを言われても……困る。
なのに、私は答えていた。行く、と。どこか嬉しくて。それがサヨナラのようで。現実にならないだろう、と思いながら。行きたい、と征嗣さんへ囁き返していた。
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