第48話 私は彼を
『お花見、行けますか?』
そうメッセージが送られて来たと、ポップアップが知らせる。触れず、確認はしないまま、それはスッと消えた。そして私は、細く長い息を吐く。送信してきたのは、成瀬くん。こうなったのも少し前の私が、原因である。
電話を切って、大分経った後に、彼から写真が送られて来た。それは、見事なデコレーションケーキ。成瀬くんが説明する間もなく、あぁこれは昌平くんが作ったんだな、と直ぐに分った。そしてそれを、昌平くんが成瀬くんと食べているという現実。これは、昌平くんのフラストレーションの表れだ、と思ったのだ。『わぁ、凄いね。昌平くん、器用だなぁ』と普通に送って、私は思い付いてしまった。緋菜ちゃんが彼に会うと決めている4月。それを前もって計画して置いたらどうだろうか、と。けれど、『昌平くんの気持ちが無理、かも』と返されてしまった。それでは、困るんだ。何とか捻って出した案が、『4月になったら、お花見しない?4人で』だった。そう、花見と言い出したのは私だった。
それが最善の案だったかと言えば、それは微妙だろう。私にとっては、憂鬱になるのは確かだ。そうだとしても、今彼らの恋を消滅させる訳にはいかなかった。両者の気持ちを知っているのだ。何もしないまま、というわけにはいかない。昌平くんが落ち込んでいることの原因は、全て緋菜ちゃんにある。彼女と疎通が図れないからだ。だから私には、あのデコレーションケーキが、彼の葛藤の表れのような気がしてならなかった。緋菜ちゃんの覚悟は理解しているから、あまり正直には言えない。その中で、私が昌平くんに伝えられること。それからそれが、緋菜ちゃんにとっても悪い話ではないこと。考え、咄嗟に思い付いてしまったのが、花見だった訳である。
「緋菜ちゃんには、悪いことじゃないわよね」
ラナンキュラスに話し掛けた。彼女は何も答えないけれど、優しく凛とした顔で、私を見ている。
4月。というよりも、桜の咲く頃。それまで、一体どれだけ時間があるのか。もしかすると、ひと月ちょっとだと言うことも有り得る。征嗣さんと別れられなかったとしても、成瀬くんに堂々として居られるくらいでは居たい。別れる、という強い意志を持って、会えれば良いのだが。
征嗣さんの様子が気になり始めて、ひと月。あんな彼を、私はきっと見たことがなかった。結婚する前の弱気な彼も、その後の無表情の彼も。こんなに心配になる程のことなど、無かったのだ。そうして彼を考えてしまうことが増え、私の脳が錯覚を始める。今の征嗣さんには私が必要なはずだ、と。わざわざ冷静になろう、とすれば、そんな痛々しいことなど鼻で笑えるのに。彼を目の前にすると、それが出来ない。彼を想う私や愛されたい私が、チラチラとこちらを覗き込んでしまう。彼が結婚をしてしまっても離れられなかった私。大きなきっかけもない今、離れられると思う?
「終わりにしないといけない……のにね」
まだ綺麗に咲く花をぼんやり見つめる。花屋さんで包んでもらった、可愛らしい花。何てことないお花だけれど、私にとっては特別な花。『征嗣さんがくれた』というだけの、特別な。
でも、これもいずれ枯れる。終わりは何にでもあるのだ。解りながらも言い訳を並べて、その時が来るのを最も恐れているのは。心配なのは、本当に征嗣さんなのか。あんな顔をしている彼は確かに心配だが、彼には幸せな家庭が在って、私が居なくても傍で支えてくれる人が居るではないか。
「本当は、私が……」
そう、私が怖いだけ。1人ぼっちになるのが、怖いだけなのだ。それが全ての答えである。
携帯を手に取って、溜息を吐いた。いや、深呼吸だ。そうして、成瀬くんへメッセージを打ち込む。『お花見、大丈夫。行けるよ』と。それから、何とか笑顔を作った。きっとこれは、先の予定が楽しみだ、と脳に錯覚をさせようとしている。征嗣さんには私が必要なんだ、と思いたい私を打ち消すように。
もし征嗣さんと別れたら、私はどうなるだろう。ここには、彼に匂いや記憶がある。部屋に帰って来ては、毎日泣くのか。職場に行ったって、会わなくとも、話は耳にしてしまう。彼との思い出ばかりのこの場所で、私は生きていけるのだろうか。ブブブ、と携帯が震える。成瀬くんからだろう。『良かった。楽しみにしてる』とキラキラした返事を目にして、思わず泣いてしまいそうになった。
「成瀬くん……助けて」
彼は今も、私を思ってくれるだろうか。好きだなんて思ってくれなくていい。友人として大切だ、と、それだけ思っていてくれれば良い。独りよがりな思いを胸に、私はグッと涙を堪える。
この花が枯れたら、征嗣さんときちんとお別れをする。別れないといけない気持ちは、ちゃんと在る。ただ、今なのか、という思いが拭えていないだけ。征嗣さんにいつも通り高慢で、それから意地悪さが戻ったら、私は踏ん切れるはずだ。そして私は、また携帯を手にすると、勢いよくメッセージを打ち込む。気が変わらないうちに。不安に押しつぶされないうちに。
『成瀬くん。このまま、お友達で居てくれる?』
傍に居て欲しいのは、私の我儘だ。これ以上、彼に迷惑は掛けられない。ただ友人として繋がっていてくれたら、辛うじて生きていける気がした。大きく息を吐いて送信をタップし、それから深く息を吸う。すると直ぐにメッセージを受信したのだ。また、成瀬くんからである。
『陽さん、大丈夫?ねぇ迷ってるんじゃない?』
ほぼ同時に送信されたそれを見て、目を丸め、直ぐに瞑った。そして、あぁぁ、と声を漏らして泣いていた。心配してくれていた、と安堵したのではない。こうして彼に迷惑を掛け続け、酷いことをしていると痛感したのである。直ぐに、成瀬くんに電話を鳴らした。最後まで見ていて欲しいと頼んでおきながら、気軽に迷った自分が許せなかった。私と征嗣さんが傷付くのは、それは自業自得。けれど、成瀬くんがそれによって傷付くのはおかしい。どうして、私はそれに目を瞑ったの?
「もしもし、陽さん?」
「ご、ごめんなさい」
電話に出てくれた成瀬くんに、私は直ぐに謝罪をした。謝るしか、私に出来ることはなかった。巻き込まれ、もうまっぴらごめんだ、と思っているかも知れない。拒まれるのなど、当たり前である。けれど、彼は何一つ怒ってはいなかった。いつもの穏やかな口調で、謝らないで、と言うのである。
「成瀬くん、私」
「うん。言わなくていいよ。言わなくて良いから。僕は、大丈夫。でも、1つだけ確認させて。陽さん、別れるのに迷ってる?」
「……ごめん。別れなきゃって思うんだけど……」
「別れたくなくなっちゃった?」
とても優しい声だった。見えるはずもない相手に、必死に首を振っていた。
「ううん」
聞こえたかどうか分からないような、微かな声しか出なかった。成瀬くんに、良い所を見て欲しい訳じゃない。私の不道徳な部分を知ってしまった人だ。今更、綺麗な部分だけ見せても仕方がない。それなのに、私は何かを縋っているようだった。
「僕に会いたくなさそうだったから、薄々は理解してる。別れたくないのなら、僕は手を引くから。それを確認したかったんだ。でも、別れたい気持ちは、あるんだね?」
「は、はい」
「そっかぁ。良かった。もう……陽さんと会えないんじゃないかって、心配だったんだからね。まったく」
呆れ口調で言う彼は、きっと苦しい顔で笑っている。そう思った。
私が苦しいのは仕方のないことだ。だからと言って、成瀬くんに同じ思いをさせてはいけない。目を瞑ってはいけないんだ。彼が優しいから、甘えてしまった。こんなこと、もう許されない。私は、征嗣さんと別れる。別れる、別れる。声に出さぬよう、そう呪文を繰り返した。
「ねぇ、陽さん」
「あ、はい」
「仕事は忙しいの?」
「え?うん。年度末だから、バタバタしてて。忙しいのは、本当なの」
本当は、そこまででもない。けれど、こう言っておかなければ、彼は会おうとするだろう。緋菜ちゃんのことを抱えている今、どうしてもそうする訳にはいかない。成瀬くんにだけは、こっそりと話してしまいたいけれど。緋菜ちゃんの決意の邪魔だけはしたくなかった。
「そっか。あまり困らせたくないから、会いたいって言わないけどさ。でも、ちょっとは連絡しても良いよね?僕だってさ……」
「あ、うん。そうよね、ごめんなさい。お友達なのに」
友人なら、くだらないことだって連絡し合って普通だろう。そこを制限するなんて、可笑しな話だな。
「そ、それなんだけど。さっきのメッセージは、どういう意味?」
「さっきのメッセージ……」
「このままお友達で居てくれる?って。あれ」
あぁ、と答えるが、気不味くて下を向く。それは、傍に居てくれる?とは打てなかったからだ。彼は私のものではない。成瀬くんが好きな人が出来ても、当然のことだ。それくらい、分かっているつもりでいる。
「あなたはこのまま友人止まりです、ってこと?」
「え?あぁ、違う。違って……その」
「じゃあ、傍にいて欲しいってこと?」
あまりにストレートに言われて、言葉が出なかった。うん、とは、私は言ってはいけないし。違う、とも言いたくない。困惑したまま、目を左右に振るだけ。でもそんなのは、彼には見える訳がない。
「分かった。とりあえずは、お友達で居ましょうってことではないのね」
「う、うん」
「じゃあそれなら、傍に居てくれる?っていう意味だと、僕は捉えることにします。良いですか」
「え、あ……はい」
何だかちょっと意地悪く、そう言った成瀬くん。沢山嫌な思いをさせているのに、そうやって笑ってくれる。私は、彼を大切にしなければいけない。例え、彼女が出来たと言われても、友人として居られるうちはそうしたいと思っている。でももう少しだけ、私に時間をください。この花が枯れてしまうまでは、どうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます