第47話 私の想いと彼らの恋を

 テーブルの上に置いてある、小さな花瓶。そこに活けられた花は、昨日征嗣さんがくれた物だ。比較的美味しく淹れられたコーヒーを片手に、私はそれを眺めていた。カップを置き、胸元から体を覗き込む。新しい傷跡に目をやって、そしてまた深い溜息を吐いた。昨夜、征嗣さんは凄く優しく私を抱いた。胸に幾つか噛みつきはしたが、それだけだ。とにかく、優しかったのだ。それがまた、私を悩ませる。

 あんな顔を見せるようになった彼。どうしても、厳しく突き放すことが出来ない。成瀬くんのことを気にされれば、昔の様に、あなたの気を損ねるようなことはしない、と言ってしまいそうだった。それ程私は、彼と別れるということを見失いつつあった。戒めのように思い出す、あのヒヨコ色の可愛いリュック。あんなに鮮明に思い出せていたそれも、記憶の中から排除しようとしてしまう。逃げている。そう言われても仕方がないくらいだった。


「どんな気持ちで、あなたを買って来たのかしらね」


 静かな部屋の中、私は目の前の花達に話し掛ける。ピンクのラナンキュラスと白いバラ。その淡い色を引き締めるような斑入りのグリーン。彼は、花言葉なんて知らないだろう。そもそも花屋と征嗣さんが、既に結び付かない。店員任せのチョイスだと考えるのが妥当だ。私のイメージなんか伝えたりしてくれたたのかな。彼が買ってくれたという特別感は、私の頬を自然に緩ませた。

 そして、私は確信したことがあった。征嗣さんに愛されたい気持ちと憎しみ。それから、彼を愛している私。バレなかったら大丈夫じゃないの?そんな浅はかな思いもまた、残念ながら微量には存在していた。彼の居ない生活が、私には全く考えられない。本当は、何があっても別れなければいけないのに。そこに踏み出せない気持ちが、日に日に大きくなっている。私の中では今だって、相反する感情が凌ぎ合っているのだ。心はもう、ぐちゃぐちゃのまま押し問答を繰り返している。


「このままじゃいけない、いけない」


 口に出して、見なければならない現実に自分を引き戻す。どうしたらいいの。答えなど、もう決まっているのに。別れるしかないんだ。でも、征嗣さんがあんな顔をする。寂しそうで、苦しそうな顔。きっと、家では見せられない、彼の感情。何も纏まらない気持ちは、私をまた答えの出ないループに落とした。誰も傷付かない方法。そんなものなど、もう無い。既に奥さんを、あの可愛らしい子を傷付けているのは私。これ以上の言い訳は、言ってはいけないのに……


「征嗣さんが優しくなければいいのに」


 愛されたい、と願ったくせに。どうにもならに私は、誰かのせいにしたい。自分の感情をどうにも出来なくて、苦しくて仕方ない。これも全て、彼が結婚する時に決断しなかった罰なのだ。本当はあの時、私は淋しくても一人になるべきだった。そんなことを今更後悔してみても、何も変わらない。投げ出していた足をキュッと引き寄せる。小さくなって、小さくなって、この世から私を消してしまいたかった。


「あ、えっと……」


 部屋のどこかからバイブレーションの鈍い音が響いた。それを辿って、私は布団を捲り上げる。手に取った画面は着信表示。それを見て、ごくッと唾を飲み込んだ。深呼吸をして、通話をタップする。それから明るい声を装って、挨拶をするのだ。今は一番、話をしたくない相手――成瀬くんへ向かって。


「あ、ごめんなさい。こんにち、は」


 裏返りそうになる声を飲み込んで、私はわざとらしく笑っていた。見えてしまう訳でもないのに、いつの間にか背筋がピンと伸びている。今、最も話をしたくなかった成瀬くんが、向こう側で同じように言葉に詰まった。


「こっこんにちは。陽さん。あ、えっと。小川さんあの……」

「あぁ大丈夫です。流石に一人なので」

「あ、ですよね……良かった」

「良かった?」

「いや、こっちの話です。ごめん」


 休日の真昼間、征嗣さんが私の元に居るはずもないのに。彼はいつも以上に、その気配に怯えているようだった。征嗣さんが居ないと分かった時の声色の変化。それはやけに、私の心を抉る。


「今日はどうしたの?」

「えっと、あのさ。そろそろ仕事どうかなって思って。ほら、今日とかもさ。時間があったら、急だけどランチとかどうかなって思ったんだけど……」

「えっと……ランチは食べちゃって。ごめんなさい」


 そう言われても、時刻は既に13時半。正確に言えば、朝食が遅かったから、お昼は食べていない。だけれど堂々とした理由が欲しい私は、そう小さな嘘を吐いた。だって、私は彼には会えない。自分の気持ちと緋菜ちゃんのこと。彼に会ってしまったら、何かがバレてしまうだろう。どっちの問題も、100%隠したままで居られるとは思えないのだ。


「そうだよねぇ。誘うなら、もっと早く電話したら良かった」

「あ、うん。ごめんね」

「いや、良いんだ。仕事はどう?忙しいの?」

「あぁ、うん。そうなの。ちょっと年度内はバタバタしてて。新年度になったらなったで、色々大変なんだけれど」

「そっかぁ。そろそろ、会いたいなぁって思ったんだけど」


 その口調は、酷く弱気だった。だけれども思いは、ストレートに届く。そう言って貰えることは、本当に嬉しいことなのに。苦しくて、後ろめたくて、おどおどして。何かから目を逸らして、ラナンキュラスの縁を指でなぞった。

 彼からのこの贈り物。それは、私にとって特別な物。せめてこれが枯れてしまうまでは、私は真っ直ぐに家に帰って、この可憐な花を目一杯愛でたい。その間は、誰にも会いたくない。


「暫く、ちょっと余裕がないんだ。ごめんなさい」

「そっか。うん。仕事なら……ね、仕方ないよね」


 か。彼は何かを察している。戦々恐々としている私は、彼の言葉の端々に、何かが潜んでいるような気がしてならない。意味もないかも知れないのに。


「ねぇ陽さん」

「ん、何?」

「あのさ……僕のこと、避けてるよね」


 少し躊躇いながら、それでいて強いその口調。あぁこれが本題だ、と思った。

 彼にそう思わせてしまったのは、致し方ないこと。全て私が悪い。仕事を理由に、あれから彼と一度も会っていない。その上、連絡も素っ気なかったのだと思う。彼が不信がるのは当然のことだ。どうしてもい言えない理由が沢山あって、そう思われてでも避けるしか手がなかった。

 私だって、成瀬くんが話を聞いてくれたら、と何度も思った。特に緋菜ちゃんのことは、彼に相談が出来れば心強いはずだ。征嗣さんのことだって、きっと別れたい気持ちがこれ程にブレなかったと思う。ただ、征嗣さんに何かあった可能性を心配していることは言えない。もしそれを、彼が知ってしまったら、何と言われるだろう。まだそんなことを気にして、と怒るのか。それとも、それも罠だ、とでも言うのだろうか。


「えっと、いや。ごめん。本当に仕事が忙しいだけなの」

「本当?休日も外に出られない程、忙しいの?」

「それは……そこまでではないけれど。ちょっと仕事が忙しいから、出掛ける気にならないと言うか。家でゆっくりしてたいなって。最近、直ぐ疲れちゃって。ダメね。若いつもりでいるのも、そろそろ限界かもなぁ」


 空笑いをして、彼の気を逸らそうとする。ワザとらしいな、と思いながらも、そうしなければいけないと思うのだ。成瀬くんの言葉の刺々しさ。それが何に向けられているのか分からないのに、私はそれがとても怖かった。


「でもさ、気晴らしに外に出た方が良いかも知れないよ?」

「あぁ、うん。そうよねぇ。もう少し気持ちを休めたら、お誘いしても良いかな。成瀬くんは忙しい?」

「あぁ、ううん。そこまででもないかな」

「じゃあ、もうちょっと待ってもらえる?今の卒業生の後押しが残ってて。ごめんね」


 適当に真っ当そうな理由を並べる。就職が決まってない子も確かに居るけれど、私が休日を棒に振る程ではない。うん、と言う成瀬くんが、電話口で吐いた溜息。それは少し温かい安堵のようだが、ビクンと体がしてしまうのは、私の心が弱っているからかも知れない。


「ねぇ……成瀬くん。何か、あった?」


 今日の成瀬くんに感じる違和感は、今まで以上だった。つい触れなくても良いことを聞いてしまう。もしも私が力になれる様なことならば、彼も大事な友人だ。話くらいは聞いてあげたい。


「えっ、あ。僕のこと?」


 少しだけ亀裂が入ったように、驚いた声を上げた。


「うん、そう。何かちょっと気になって」

「あぁ……ゴメン。そんなつもりはなかったんだけれど……そうか。確かに苛ついてる、かも知れない」

「そっか。嫌なこと、あった?」

「嫌なこと、か。まぁ何て言うんだろうな。ちょっと見たくないものを見ちゃってね。それが原因かも知れない。ごめんね」


 見たくないもの、か。それが何か私には分からないけれど、これ程に彼が苛つくのだ。余程のものなのだろう。深く聞いてあげたいところだが、彼の世界全てを知っている訳でもない。私が出来ることなど、ないに等しいのだ。それならば今、成瀬くんが笑っていられる話をしよう。それが今、私に出来ることに違いない。


「そうだ。この間ね。久しぶりに文具を見に行ったの。また新しいの出てたね。ピンクのボディのボールペン買っちゃった」


 緋菜ちゃんの勉強道具を買いに行った時、つい私も買い込んだ文具の話だ。彼女も同じようなボールペンを買ったが、流石にその話は出来ない。意識していなければ、ポロっと話してしまいそうなくらい、あの時は楽しかったと思い出す。えぇと、と間を置き、「お買い上げ有難うございます」と返事をする成瀬くん。その声色は、少しだけ、苛立ちから離れたような声だった。


「そう、それからね、付箋も買ったよ。クリスマスにいただいた物と違う柄の物」

「あ、じゃあアルパカだね。あれも可愛いから迷ったんだよねぇ」


 ようやく成瀬くんが笑った。友人として、彼は私の大切な人だ。こうして他愛もない話をして、笑っていられれば、それで良かった。彼とこうして話をしているだけで、私の心がシャンと正しい道へ戻ろうとする。一人で居たらなばきっと、征嗣さんとの別れを簡単に諦めてしまうけれど。悲しいかないつだって、私は意志が弱い。

 文房具の話は、彼に水を与えた。可愛らしい色のインクの話。それから、別メーカーの万年筆の話。こういうことは、相変わらず楽しそうに話をしてくれる。その顔は私の脳内で再現もされていて、何だか一緒にカフェでお喋りをしている気になった。気付けば綻ぶ、私の顔。征嗣さんとは持てないような時間が楽しくて、嬉しくて、可笑しくて。こういうのが、の友情であって、愛情なのかも知れない。


「陽さん。ねぇ、やっぱり、会いたいなぁ……」


 急に黙り込んだ成瀬くんが、そう呟いた。とても小さく、苦しそうな声。それは真っ直ぐにぶつかって来る。痛む胸、気持ちはとても重たい。別れる為に協力してくれている成瀬くんに、後ろめたさばかり募るのだ。今も尚、迷いがあることを、絶対に知られてはいけない。誤魔化そうと考えても、もう逃げ出したくて、今直ぐにこれを切りたくなる。これだけ征嗣さんが心に居座っていることに気付いてしまうと、私は改めて、成瀬くんが眩しく感じてしまう。簡単に彼の隣へは立てない。いつだって明るいそこは、今の私には相応しくない場所だとしか思えなかった。


「そうだね。会いたい、ね」

「本当に?陽さんもそう思ってくれてる?」

「え?うん。それは、思ってるよ。昌平くんにも、緋菜ちゃんにも会いたい。彼ら元気にしてるかしら。成瀬くん連絡取ってる?」


 そういう意味で言ってはいない、だろう。察しているが、成瀬くんに会いたい、とは嘘でも返せなかった。そう言ったら彼は、きっと今からでも会おうとするのだろう。この花の咲いているうちは、私は誰にも会いたくない。だから、緋菜ちゃん達の話題に逃げていた。ただ、昌平くんに会いたい気持ちがあるのは事実だ。どうにかして、彼に緋菜ちゃんのことを伝えられないか。そう思っている。


「あぁ……うん。昌平くんはね、時々連絡してるよ。前みたいに、頻繁に飲んだりはしてないんだけどね。そうだ、陽さん」

「ん?なぁに」

「緋菜ちゃんからは、何も連絡ない、よね?」

「う、うん。私にはきっと、一番連絡しにくいんじゃないかな」


 思わず、言葉に詰まった。絶対に知られてはいけないのに、緋菜ちゃんの頑張りを知らせたい。そんな気持ちが拭えなかったのだ。


「そっかぁ……そうだよね。一番僕が会いやすいんじゃないかって話になって、連絡を入れてみてるんだけどね。それも既読にすらならないんだ。このまま会えないのかなって、昌平くん落ち込んじゃって……」

「あぁ、そうだったんだ」


 昌平くんは、まだ緋菜ちゃんに恋をしている。ならば尚更、言ってあげたくなる。もう少しだけ待ってあげてもらえないかな、と。でも今は、それも許されない。喉元までそれが出かかっては、もどかしく飲み込むしかなかった。


「私ね。緋菜ちゃんはもしかしたら、一人で頑張ってるんじゃないかなぁって思ってるんだけれど」

「頑張ってる?」

「あぁ、うん。ほら。あの子は器用じゃないでしょう?多分、一つずつ処理しないと進めないと思うの。それに、弱いところだとか、頑張ってる姿は見せたくないタイプ。だからきっと、それがクリア出来たら、連絡くれるんじゃないかなって。私はね、そう思ってて」


 そうかなぁ、と反応した成瀬くんは、ちょっと疑っているようだった。それもそうか。彼らの中では、彼女が私を罵ったところで止まっている。でも本当に彼女は頑張っていて、私もこのひと月で何度も驚かされた。だからこの努力の時間を、悲しいものにして欲しくはないのだ。私が出来ることはしてあげたい。4月に彼らが会えた時、本当に手遅れになってしまわぬように。


「でも、結構酷いこと言われたでしょ?緋菜ちゃんを考えたら、会いにくくて、僕らなんて簡単に切っちゃうんじゃないかなって。ちょっと思ってたんだけど、違うかなぁ」

「まぁそれはあるかも知れないけど……。私はね。それでもきっと、大切な友達だって思ってくれてると思ってるよ。だから昌平くんも、そう彼女を信じてあげて欲しいなって思いました」


 余計なことを言ってはいけない。そう思うあまりに、力強く言い出したはずの言葉は先細る。でも本当に、緋菜ちゃんは頑張っている。例えこの時間を彼らが悪く思ったとしても、離れないでいて欲しい。私の細やかな願いだった。


「信じる、か。そうだよね。もう少し待ってみても良いのかも知れないね。昌平くんにも言ってみる」

「うん。有難う。そうしたら、昌平くんに伝えてくれる?私は緋菜ちゃんを信じて、もう少し……そうね、春くらいまでは、このまま様子を見たいなって思ってるって」

「分かった。伝えてみるね」


 さり気なく、春、というワードを捻じ込むのが、私の精一杯だった。

 本当は緋菜ちゃんも、今直ぐ彼に会いたいと思っているのに。何をどうしたって、決意が固い。昌平くんがルイとかいう同僚とお付き合いをしたとしても、『仕方がない』と言うだろう。それから、悔しくて泣くのだと思う。

 あぁもどかしくて仕方ない。本当は今直ぐ会わせたい。そうなるように、騙してしまいたい。でもそんなことを気軽に仕込んではいけない程に、緋菜ちゃんは本気なのだ。だからどうか、4月に会える日が来るまで、せめて友人という感情を持っていて欲しい。そしてあわよくば、昌平くんに恋愛感情が残っていて欲しい。私はそう願っていた。

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