第46話 私のことを
「おぉ、急に悪いな」
「あ、うん。大丈夫。上がって」
急にやって来た征嗣さんを、私は笑顔で受け入れる。今日の緋菜ちゃんを思い出しながら。のんびりとインスタントコーヒーを飲んでいたところだった。チャイムが鳴って焦りはしたが、彼が来るのはいつだって突然。それが叶うように家で待つようになってしまった私も、大きな原因だろうが。
「あ、陽。これ。ほら」
「ん、何?」
征嗣さんが差し出した小さなハリのある白い紙袋。覗き込んで直ぐに、わぁ、と思わず声が出た。明らかに上擦った声だ。どうしたの?なんて怪しみながら聞いたけれど、嬉々とした顔を見せている気はしている。それ程それは、私を喜ばせた。
「いや、学生に言われたんだよ。今どきは、バレンタインって女の子があげる物って決まりはないんですよぉってさ」
「そう、だけど……それなら奥さんに買わないと」
分かり切ったことだ。彼にとって大切なのは、私じゃない。妻であり、家族である。それなのに、心を弾ませてしまった私。一人勝手に、シュンと下向きの声を出した。
「そんな顔するな。家族は買ったさ。ほら、クッキー。でも陽は、そういう菓子よりも、こういう方が好きだろう?チョコレートよりもさ」
「……うん。有難う」
「良かった」
何だか優しい征嗣さんは、私の頭をくしゃくしゃに撫で、ニィッと笑った。
私は袋の中に手を入れて、そっと可愛らしい花束を取り出し、キュッと抱き締めた。彼が私に選んでくれたものなど、ないに等しい。そんな征嗣さんが、選んでくれた物。私には特別な物だった。別れようと決めたのに、どうして優しくするの。当然その思いはある。けれど純粋に、私は嬉しかった。
「少し、ゆっくりして行ける?私も一応、買ってはあるの。チョコレートだけれど……持ち帰れないでしょ。一緒に食べようよ」
私が買ってあるのは、本当に小さなチョコレート包み。数粒しか入っていない、彼がここで食べ切れる程度の量の小さな物。持ち帰れないのは理解しているし、持って帰って欲しくない気もしている。私の想いをどこかで捨てられるのが怖いのだ。だからこうして、いつもいつも小さな物を買い込んで待っている。あのインターホンに、彼が映るのを。
「あぁ、そうか。うん、有難う。じゃあ、一緒にコーヒー淹れるか」
「本当?」
「あぁ。お湯沸かして」
たったそれだけのことで、私は子供のように喜んでいた。いけない。ダメだ。
そう咎める気はあるのに、私は、私の心は奥底から本気で喜んでいる。あぁこの人が結婚をしなければ。私たちはこうして細やかな時間を大切にして来られたのに。こんなことを考えたって、もう何も戻らない。それだって分かってるのに、こんなことがあると直ぐに顔を出してしまう。だから手に取った薬缶に、勢いよく水を注ぎ入れた。そんな思いを掻き消すように。別れる決心が、真っ新に消えてしまいそうになるから。
「豆は何がある?」
「今飲んでるのはね、コーヒー屋さんのブレンドなの。ほら、ちょっと前にティラミス買ったじゃない。あそこの。今のはね、エチオピアの豆がメインだって言ってたよ」
「エチオピアか」
手際良く準備をする征嗣さん。湯が湧いたらカップを温めて、それから少し豆を蒸らし始める。彼がいつもやるやり方だ。
コーヒーというものは、これで慣れ親しんでしまった私。今も彼の淹れるそれが、一番好きだったりする。これも、彼と別れるなら飲めなくなるのだな。あぁもしかしたら、私は缶コーヒーですら、飲めなくなってしまうかも知れない。それ程に、私の中でコーヒーという飲み物は、容易に彼を想像させた。
征嗣さんがコーヒーを淹れるのを、脇でそっと見ている。穏やかな顔でコーヒー豆を見つめる彼。この顔は、関係が始まった頃と何も変わらない。
「いい香りね」
「いいかい。焦って湯を流し込んだら良くないんだよ。豆の様子を見ながら、ゆっくり湯を注す。そうしたら、美味しくなるはずだから」
「うん。そうだね。分かった」
そんなこと、言われなくたって分かってる。今でもこうして、征嗣さんは私を諭すように話す。いつまでも先生と生徒の関係が壊れないのだ。溢れる程セックスしているというのに。そう考えると背徳感よりも、何だか本当に可笑しさが勝る。
征嗣さんが淹れてくれたコーヒーは、甘くて香ばしい。同じように淹れているはずなのに、私がするそれとは何かがちょっと違う。香りは同じであるはずなのに。座った征嗣さんの前に、小さなチョコレートの包みを差し出す。四粒ほど入れられた、本当に小さな小さな箱である。大きければ良い訳でもないが、それが何だか隠れていなければいけない私を表しているかのようで、ちょっと可笑しい。それ程、細やかな贈り物だった。
「これはナッツかな」
「うん。だと思う」
コーヒーを一口啜ってから、征嗣さんは直ぐにチョコレートに手を伸ばす。4粒しかない。これがなくなったら、彼は直ぐ帰ってしまうのだろうか。それとも。
「美味しいよ。有難う」
「うん。良かった」
何だか素直にそう言われると、かえって私は不安になる。カップに口を付けて、上目遣いに彼をじっと見た。顔色一つ変えず、チョコレートを頬張る彼を。
「なぁ陽。この間、伊豆のこと調べてただろ?また行きたいのか」
「あぁ、それはね。そろそろお花のシーズンだし。でも、あそこは母の思い出が大きいから、まだ……行けない、かな」
「そうか……」
「あぁ……うん?」
征嗣さんはそんなことを聞いて、また少し考え込む。そして私はカップで顔を誤魔化しながら、チラチラと彼を見た。征嗣さんは、何を発する訳でもない。ただコーヒーを口に含んで、少し上を見上げる。何を考えているんだろうなぁと思うが、邪魔をしたらいけないような、そんな雰囲気を纏っていた。
「このブレンド、美味いな」
「うん、そうでしょう?偶然に出会ったけれど、気に入っちゃって。最近時々寄ってるの。学校からちょっと歩いたところだよ」
「へぇ、ど……いや、良い所見つけたな」
「ん?うん」
何?言い掛けて、彼は直ぐに止めた。そういうのを一つずつ追ったら、キリがないというのに。気になって仕方ない。別れないといけない。それなのに私は、全くと言って良い程、彼のことを嫌いになんてなれそうになかった。
征嗣さんは今、私のことをどう思っているのだろう。なぁなぁの関係のまま、私達は共に長い時間を歩んでしまった。愛されているだなんて思ってはいない。だけれども、全く何も感じていないなんて思いたくはなかった。憎しみでもいい。私に対して、何か感情を持っていて欲しい。そうやって征嗣さんの心に、私の場所があって欲しい。馬鹿みたいな願いが、今も私の中に存在している。
「成瀬くんとは会っているのかい」
「え?ううん、全然。先月、ほら。お食事に行ったじゃない?それきりよ」
「何だ、そうなのか。俺にこっそり会ってるのかと思ったよ。でもその顔は、嘘吐いてなさそうだ」
ホッとしているような、寂しそうな、そんな微妙な表情を作って見せた。征嗣さんが、成瀬くんを気に掛けている。彼の作戦が成功しているということか。あぁでも何だろう。ちょっとだけ、本当にちょっとだけ寂しいのは。
太陽の下を堂々と手を繋いで歩いた時、私は確かに成瀬くんと恋が出来たら、と思った。こうして胸を張って生きていけたら、どんなに幸せだろう、と。けれどそんな淡い思いは、こうして征嗣さんに会うだけで簡単に無くなる。だって、きっと。私は今も、征嗣さんに愛されたいと思っている。愛されている、と信じていた時、彼は結婚をした。私は裏切られ、捨てられたのに、それでもずっとそれが欲しかった。手に入らない幸福。手に入らない愛。私は届かない所へ、手を伸ばし続けている。成瀬くんの優しさに甘えて。それを利用して。最低なことをしながらも。
「……征嗣さん」
「ん?」
私は静かに彼の口を塞いだ。軽いキスなど直ぐに、甘いチョコレートの味がし始める。別れなくちゃいけない。愛されたい。どうして結婚したの。別れなくちゃ……別れなくちゃ。絡み合う感情を掻き消すように、私は彼を欲した。征嗣さんと視線を絡めて、今だけは存在するはずの愛を見つけようとするのだ。頭の中では理解している、この不道徳さ。けれど、それを受け入れられない心。私は今にも、壊れてしまいそうだった。
征嗣さんの手が、服の中にスッと入り込む。そしてどこか、安堵するのだ。今、この瞬間は愛されている、と。
成瀬くん、ごめん。私は緋菜ちゃんのように、固い意志が持てそうにない。強く決めた別れが、征嗣さんの表情一つで直ぐに緩む。そして私自身も、彼と離れるのが怖くなってしまう。別れないといけないのに。あの可愛らしいリュックを思い出して、ギュッと目を閉じる。薄っすらと溜まる涙に彼が気付かないように、私は征嗣さんに強く抱き付いた。
ねぇ、征嗣さん。
私のことを今は……
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