第45話 彼女の変化と私の戸惑い
「バレンタインか……」
コーヒーを片手にして私は、ソファに腰掛けながらそう呟いていた。ピンク色のハートの風船が、カフェのガラス窓の外で風に揺れている。去年は征嗣さんが前日に来ると言うから、小さなケーキを焼いたっけ。今年は、今のところ何の連絡もない。絶対に来る訳ではないのに、念の為に、とチョコレートを買い込んである自分が居たりする。今日は、2月14日。金曜日に休みを合わせて、緋菜ちゃんと待ち合わせをしているところである。
緋菜ちゃんと膝を突き合わせたのは、ひと月前のこと。彼女は思わぬきっかけから、成長しようと手を伸ばし始めたところだった。今日までの間、彼女色んなことを吸収した。新しい世界を覗いては、夢見て、瞬時に項垂れ諦める。繰り返してはいたが、何かに少しずつ近付いていくような感覚があった。それは近くで見ていて、とても幸せなことだった。彼女をサポートする幸せ。それはきっと、緋菜ちゃんが私を必要としてくれるから。自分の存在意義を見つけながら、私はこの時間を過ごしている。今日みたいに休みを合わせたり、仕事の後に時間を作ったり。その間は互いに、そのことだけを考えた。彼女も私も、それ以外に惑わされてしまうから。
だって私は、いつだって隙間から本心が顔を覗かせてしまう。今も揺らいでいるのだ。仕事やこうしたプライベートを忙しくすることで、征嗣さんへの不安は消えるだろうと思っていが、それは全くの誤算。今だって、こうして彼女を待っている間に、そんな気持ちを失くさねばならないのに。征嗣さんとの別離を決めた時に、戻らねばならないのに。今日も私は、それが出来ずにいる。
「連絡は、ないか」
確認した携帯には、特に連絡もない。私は今、成瀬くんからではなく、征嗣さんからの連絡を待っている。好きだからではない。ただ心配なだけだ。別れたい気持ちは変わっていない。ちゃんと私の中に在る。可愛らしいリュックを背負ったあの子の笑顔を、戒めのように思い出しては、今日も何度目かの決意をしていた。
「陽さん、ごめん。待った?」
「ううん。今、一口飲んだところよ」
「ホント。良かった」
私達は、遺恨を残すことなく、今まで通りに戻れたと思う。仲直りをした日こそ、ぎくしゃくしたけれど。それ以降は、それまで以上に仲良くなったと思っている。彼らが驚くくらいに。でも、緋菜ちゃんはまだ、ゴーサインを出さない。春に会うことだって、未だに良い顔は見せない。まだまだだと、自信が持てないのだと思っている。
「バレンタインだったね。今日」
「ね。まぁ私は特に予定もないけど。緋菜ちゃんは良いの?」
「うぅん、本当は会いたいけど……でも、ちゃんとした私を見て欲しいから。いいの。そう決めたんだもん、頑張るよ」
「そっか。うん。頑張ろうね」
躊躇いなく素直な気持ちを言えるようになった緋菜ちゃん。私はこれが、一番大きな収穫ではないかと思っている。意見もしっかり聞くし、それをきちんと飲み込む。難しいことだけれど、徐々に徐々に、出来るようになったのだ。
そして彼女がそうなることで顕著になったのは、昌平くんのことが本当に好きだということ。その軸だけは、決してブレてない。これまでの自分の至らなさに気付き、変わりたい。それを彼に見て欲しい。緋菜ちゃんの根底にあるのは、そんな純粋な気持ちなのである。
「ねぇ。陽さんは、成瀬くんにあげなくていいの?大丈夫?」
「いや、いいでしょ。彼は彼で、誰かからいただいてますよ。私があげなくたって大丈夫。皆で会ったなら、まぁあげるだろうけれど」
「何か、ごめんね」
「どうして。別に私は、成瀬くんのことが好きな訳じゃないんだから。気にしなくていいのに」
「そ、っか。へへへ」
緋菜ちゃんは、私と成瀬くんが会うことは嫌ではないらしい。ただ、自分とのことを話さないで欲しい、というだけで。結局、進んで彼と距離を取っているのは、他ならぬ私なのである。
あれから、成瀬くんとは会ってはいない。ランチはどうか、などと連絡をくれたが、首を縦に振ることが出来なかった。当然、緋菜ちゃんのこともある。彼と会えば、きっと話題に上るし。私はそれを上手く誤魔化しきることは出来ない。そう言い訳をしているのだ、自分自身に。勿論、成瀬くんには申し訳ないと思っている。征嗣さんと別れる為に、あれこれ支えてくれているのに。私は、あんな顔をする征嗣さんを突き放すことが、今は出来ない。
「そうだ。ねぇねぇ、今度ヨガとか行ってみようよ」
「ヨガ?えぇ私、体固いのよねぇ」
「大丈夫だって。勢いで何とかなるよ」
「うぅん……せめてもうちょっと暖かくなってからがいいかな。ほら、気分的に」
頬が引き攣らないように気を付けて、誤魔化した。薄着になる季節が来ることが怖い私が、ヨガになど行ける訳がないのだ。痛みが引いた後も、目に見える跡は忌ま忌ましく体に残っている。無意識に擦る服の下は、黄色くなり始めた痣が無数に存在していた。
「そっかぁ。確かに。あ、じゃあ春になったら行ってみようね」
「そ、そうだね」
春になったら行けるのか。春など、もうそこに来ているようなものではないか。少しだけ悔しさが顔を出す。私だって、友人とそういうことをしてみたいのに。知られてはいけない、知られたくない現実が、私を掴んで離さなかった。
暖かくなる頃には、何かが変わるだろうか。堂々と太陽の下で、生きて行けるだろうか。もし別れられたとしても、自分の罪が消えるとは思っていない。「あぁ俺、結婚するわ」と軽く言ったあの人。それを突き放せず、何年も時を重ねてしまった。言い訳など、もう通用しないのだ。その年月、私は理解した上で罪を重ねている。気付けばもう、今年で36歳。あの頃共に彼に教わっていた友人達は、立派な母親になっているだろう。そういう年なのに。
「じゃ、読書でもしましょうか」
「そうだね。もう少しで読み終わりそうなんだ」
何となく微笑み合うと、私たちは静かに本を開いた。ここからは少しだけ、それぞれの空想の時間である。
彼女が変わりたいと言った時、先ずは達成感の得られる物を探した。ウェブだけの簡単な検定。それから、料理もした。そして私が彼女に手渡したのは、一冊の本。サン=テグジュペリの星の王子様、である。サラッと読んでしまえば、何てことのない本だ。余り読書をしない彼女は、それをとにかく丁寧に読んだ。一文を読み、世界を想像する。時々その一言に、自分を照らし合わせながら。
そして、二度それを読破した時、緋菜ちゃんは自ら図書館というものに足を運んだ。そこへ行けば、と思ったようだが、そこは本の海のような場所である。戸惑った彼女は司書に声を掛け、読みやすい本を教えて貰った、と喜んでいた。それから私達は、こうして初めに少しだけ、本を読むようになったのである。
今彼女が呼んでいる本は、色彩について書かれた物。日本の伝統色、と表紙に書いてある。彼女の名は、緋色の緋。朱色のような綺麗な色だ。そういう所から流れ着いたのだろうか。何でも興味を持って、新しいことを知るのは良いことである。そして私が読んでいるのは、学生の頃学んでいたことの最新の研究の物だ。本当はあの頃なんて、思い出さない方が良いのに。征嗣さんが京都へ行ってから、私もまたあそこに居た自分を思い出していた。まだ若く、何も知らなかった私を。
「……さん、陽さん。大丈夫?今日ページ進まないね。難しいの、それ?」
「あっ、あっぁ。ごめん、ごめん。懐かしくて買ってみたんだけれど、やっぱり直ぐには戻らないわね。いちいち単語に引っ掛かっちゃう」
無理矢理笑みを作って、コーヒーに手を伸ばす。今日のお勧めは、エチオピアのモカ。それなのにわざわざ、私はグアテマラを頼んだ。そういう気分だったのだ、と思いたいが、実際はどうだったろう。
もう十年以上、征嗣さんと一緒に居る。だからこういう風に、彼が教えてくれた物が沢山あるのだ。当然、その全てを憎む必要はない。でも本当は、そういう物からも離れていた方が良いのだろう。私の中の征嗣さんが、小さく小さくなるまでは。彼は今も、あの時と同じような顔をする。それを見てしまうと、戸惑い消えないのだ。心配が、日に日に大きくなる。そんな私がまだここに居て、情けなくて仕方ない。スパッと関係を切ってしまえば、一瞬で終わってしまうこと。その為に、成瀬くんにも手を貸して貰っていると言うのに。
「今日は進まなそうだね」
「えっ、あぁ。ごめん」
「そんなに考え込むなんて、珍しいね。仕事のこと?大丈夫?」
「大丈夫よ。年度末が近付いて来るからね。つい休みの日も、あれこれ計算しちゃって。ホント休まらないわ」
フフッと笑い合うと、緋菜ちゃんが少しホッとしたように見えた。相談も出来ないことを抱えて、誰かに会うのは良くない。つい聞いて欲しくなってしまう。また、ごめん、と笑って、今日はパタンと本を閉じる。緋菜ちゃんも同じように本を置き、フゥッと息を吐いた。
「ねぇ、陽さん」
「ん、どうしたぁ?」
「私さ、決めたよ。やってみたいこと、見つかった」
重苦しい顔をしていただろう私。それを真っ直ぐに見つめながら、彼女は言った。キラキラと希望を盛った瞳で。不安と戸惑いに溢れた、迷った瞳しかしていない私に。眩しくて仕方ない。でも、ようやくそんな顔で宣言することが出来たのか、と襟を正した。
「陽さん。私、ブライダル目指したい、です」
「はっ、はい。ヤダ……緊張しちゃった」
「もぉ、何で陽さんが緊張するのよ。変なの」
思いの外しっかりとした宣言。てっきり観光関係のものだろうと思っていたから、驚いてしまった。でも緋菜ちゃんは、真剣だった。そして、何か引っ掛かるものがあるように見える。
「でもさ……仏壇屋と結婚式って真逆でしょ。大丈夫かな。嫌がられるかな」
「うぅん、どうだろう。ダメってことは絶対に無いと思うの。何かそれを活かせるような言い回しが出来れば、転職活動に有利になると思うんだ。インパクトも残るだろうし。それは考えて行こう」
採用担当の人へのインパクトは、あると思う。普通の企業から転職する人とは、大分違う。ただ、私もその業界に凄く詳しい訳では無いから、大雑把な意見ではあるが。
「うん……」
「大丈夫、まずはやってみよう。資格とかあったりするのかな」
「あ、うん。それは調べて来たよ。これなんだけど」
緋菜ちゃんが差し出したメモには、びっしりと情報が書かれている。資格を取得する為のルート、費用、それから難易度。意外なくらいに、細かなメモだった。
「緋菜ちゃん、沢山調べたんだね。仕事の合間にやったの?大変だったでしょ」
「まぁね。でも自分のことだから。休憩とか使って、色々やったの」
「そっかぁ。凄いねぇ。じゃあ早速手を付けないと。尻込みしている場合じゃないものね」
「そ、そうだね」
緋菜ちゃんを鼓舞する陰で、自分に発破をかける。純粋に頑張りたい彼女と一緒くたにしてはいけないけれど。尻込みしていてはいけないんだ。
「学校に通う?それとも通信?」
「うぅん、それは結構悩んだんだけど。収入の面もあるし、通信で取れたらと思ってて。だからちょっと不安なんだけどね……さぼっちゃいそうで」
「何言ってるの。今の緋菜ちゃんなら大丈夫よ」
「そうかなぁ」
「大丈夫。私も確認に行くし。仕事帰りにちょっとだけ寄ることくらい出来るもの。監督者が居れば大丈夫でしょ?」
ちょっとだけ、ぱぁっと表情を明るくして「お願いします」と頭を下げる。素直な感情を表に出せるって、とても健康的だ。肌の張りも、色艶も、何だか前より良くなっている。今までだって綺麗だったけれど、何と言うか、内面から美しさが出て来ているような気がしていた。
そうと決まれば、作って来たメモを覗き込み、転職をするに有利な物を探し出す。通信で、となると色々限られてしまうが、最低限は勉強が出来そうだった。あとは緋菜ちゃんのやる気が付いて行けるか、かな。私はブレブレだから、人のことは絶対に言えないけれど。
「先ずはこの講座申し込もう。あとは、それから……」
順序良く出来るように、スケジュールを組み立てる。緋菜ちゃんは真面目にそれをメモしながら、何度も頷いた。1人になったら、絶対に迷うことを私は知っている。成瀬くんと決意したことも、直ぐに消えてしまうのだから。緋菜ちゃんのことは、一緒に居る間にレールを敷いておきたかったのかも知れない。
「緋菜ちゃん。忙しくなるよ」
「うん。こんなの久しぶりだから、不安だけどね」
「そうね。でもきっと楽しいわよ。自分でやってみたいと思ったんだから。働きながらあれこれすると言うことは、きっと焦ってしまうと思うの。上手くいかないことも多い。でも、時間がかかっても良いんだよ。焦らずに、自分が理解出来るまで、時間を掛けよう。ね?」
不安そうに眉を下げた緋菜ちゃん。背を押すのではない。私は出来るだけ、彼女に寄り添っていようと思った。大丈夫、大丈夫。緋菜ちゃんは、可愛らしく微笑んだ。すっかり冷めたコーヒーを飲みながら、彼女は未来を夢見ている。
「ねぇ、緋菜ちゃん。もう一回聞きたいんだけれど、いい?」
「何?ブライダルで良いのかってこと?」
「ううん。昌平くんのことよ」
「あぁ……うん」
今さっき、少しホッとしていたのに。昌平くんの話になると、彼女は直ぐに泣きそうになる。本当は、会いたくて仕方ないのだ。会っても良いんじゃない?と言いたいけれど、彼女の決意は固い。
「緋菜ちゃんは、会いたいんだよね?」
「うん。本当は直ぐに会いたい」
答えは直ぐに返って来る。会えないからこそ、想いは募るのかも知れない。彼のことを想って、想像して、苦しくなるのだろう。今直ぐにでも会いに行けるはずなのに、まだだ、と自分を律する。彼女は、私なんかよりもずっと、立派な人だ。
「そうだよね。でも、自分の先をちゃんと見据えてからって言ったよね」
「うん。そうしようと思ってる」
「今、大雑把に計画を立てたけれど、どう?4月には、昌平くんに会えそう?4月って言ったのは、年度の切り替えで良いかなって言う単純な話なの。緋菜ちゃんの気持ちとはまた違う。でも、ズルズル先延ばしにしちゃうのは、良くない」
「そうだよね。うん。分かる」
「今決めなくても良いんだけれどね。でも、気持ちは固めて行った方が良いかなって」
そうだ、気持ちは固めなくちゃいけない。偉そうに、他人に言える人ではないんだ、私は。緋菜ちゃんに話し掛けること全てが、自分に問い掛けているようだった。私は征嗣さんと別れる期限も決めずに、右往左往し続けている。それに成瀬くんを巻き込んでいるというのに。
「4月……4月にする。先過ぎて、忘れられちゃうのも嫌だし。でも直ぐって言うのは、まだ堂々と胸を張れないから」
「うん。そっか。そうだね」
「うん。4月。細かいことは、勉強を始めてみてからにしようと思います」
「はい、分かりました。焦らないで頑張ろうね」
彼女の期限が決まった。コッソリと私も、それまでに、と思っていたりする。2人で笑って、冷めたコーヒー飲んで。そうしているだけで、もう直ぐに春が来てしまいそうなのに。私は、征嗣さんを突き放せるだろうか。
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