第44話 彼女と私の秘密
良かったぁ、と緋菜ちゃんが笑った。
肩を強張らせて、カチコチの表情で、彼女は私に頭を下げた。それはきっとこの子には、とてもハードルの高いことだったように思う。いつものようにケラケラと笑う可愛らしい顔を見たら、私もようやくホッとしていた。
「良かったぁ……」
「何、何が良かったの?」
「ん?緋菜ちゃんが、ちゃんと笑ってくれて。私も結構ドキドキしてたから」
私も素直にそう言った。そして、ようやくパスタが運ばれて来る。緊張も解れた私達は、直ぐにそれに手を伸ばすが、何だか緋菜ちゃんはまだ何かが引っ掛かっているようだった。
「食べながらで良いんだけど、聞いてくれる?」
何だかおずおずとそう聞いて来る彼女。「うん、勿論」とは答えたが、何か他に事件でもあったか。今のところ、私には思い付いていない。
「どうしたの?」
「あのね……職場に若い子が入って来たんだ。正確には、入社は4月なんだけどね」
そう切り出した緋菜ちゃんは、こうして謝るに至った経緯をぽつぽつと話し始める。春に入社する高卒の女の子が、アルバイトとして来ていること。その子の教育担当になったこと。その子の若さに苛々してしまうこと。私だって、と思ってしまったこと。その女の子が来たことでの葛藤を、緋菜ちゃんは包み隠さずに話した。私が危惧していたことを、図らずもここで経験してしまったようだった。そうして、自問自答を繰り返した緋菜ちゃん。同じようにしているはずなのに、認められない悔しさ。苛立ちは募り、自棄を起こし始めていた時、彼女は偶然立ち聞きしてしまったと言うのだ。彼女の態度に頭を抱えた店長に、先輩が言った言葉。緋菜ちゃんは今成長期なのよ、と。成長しようとして藻掻いている。その人はそう言い切ったのだそう。
大したことのない話だったのかも知れない。ただそれは、緋菜ちゃんにとって衝撃的だったと言うのだ。自分が成長をしようとしているなんて考えたことがない。上手くいかないのも全部、周りのせい。でも、薄々は気が付いていた自分の責任。自分が変われたら、何か違う結果になるかも知れない。それに気付き始めた緋菜ちゃんは、藁をも掴む思いで手を伸ばしたのだと思った。
「うんうん。そっかぁ。そんなことがあったんだね。でも、その立ち聞きしちゃって良かったのかもね」
「うん。私、成長期なんだぁって思ったら、何だか色々楽になった気がして。落ち着いて考えたら、私は先ず陽さんに謝らないといけないって思って……それで連絡を入れたの」
「うん。有難う。嬉しかったよ」
そんなことを言ってくれる日が、こんなにも直ぐに来るなんて思いもしなかった。あの時別れた彼氏も、きっとそう思うと思う。まぁ、伝えようもないけれど。
「それに、緋菜ちゃん。ちゃんと見てくれる先輩が居て、良かったね」
「うん。でも聞いちゃったとは言えないけどね」
「あ、本当だ」
ケラケラッと笑い合えば、月曜日の喧嘩など、すっかり忘れてしまった。本当は、その先輩に感謝を伝えられたら良いと思うが、それはもう態度で示していくしかない。今の彼女の顔を見ていたら、それもきっと出来る気がした。
「あ、そうだ……陽さん、お願いがあって」
「お願い?何だろう」
今度は少し思い詰めた、いや、恥ずかしそうな顔で私にそう言う。昌平くんのことかな。そう言えば2人は、あの後どうなったんだろう。
「あぁ、うん。その、何て言うか。資格、っていうのを取ってみたいなって思って……」
「資格?緋菜ちゃん……本当に変わろうって思ったんだね」
「へ?」
「だって、目に見える物を手にしようとしてる。色々考えたんだね。偉かったね」
素直に褒めた。今の彼女には、こうすることが一番良いと思ったのだ。変に遠回りなどせずに、ストレートに良い悪いを伝える。それに苛立とうとも、今の緋菜ちゃんなら、受け止められる。そんな気がした。
「あんまり勉強好きじゃないからさ。自信はないんだけど……でも、何か取れたらなって思って」
「うんうん。そっか。緋菜ちゃん、運転免許持ってる?」
「ううん。私、資格の欄に書ける物、何も持ってないの。だから、もし転職って考えたとしても、難しいかなって」
「転職、かぁ」
そこまで考えて来るとは、ちょっと想像出来ていなかった。彼女は本当に、今の自分を変えたいと思っている。それは、私も同じなのに。転職、かぁ。征嗣さんの居ないところに行けたら、私の人生も大きく変わるだろうか。
「一番興味があるのはどんなもの?」
「観光……なんだ」
「へぇ。そう言うのに興味があるんだね」
高卒で何も知らないまま、いや何も考えずに、今の仕事に就いた彼女。働いているところを見たことはないが、今の仕事に不満は持っていない物だと思っていた。社会に出て、色々考えることもあるのだろう。
「おかしい……?」
「何で?おかしいことじゃないよ。私、緋菜ちゃんは今の仕事が好きなのかなって思ってたの。だから、ちょっと意外だなって」
「意外かぁ。でも確かにね、今の仕事は好きなの。緩いって言うか、ゆっくりしてるから。期日までに企画書を書くとか、やったことないから分からないけど。時間に追われるのが得意じゃなくて」
そう言って苦笑する彼女は、角が取れたような丸みがあった。他人に向けた敵意が、少し減ったような。そんな感じに見えた。
「資格って、沢山あるよね。私も仕事で触れるけれど、細かいものまで見たら、本当に沢山ある。それが実際に通用するのかどうかっていうのも、難しいしねぇ」
観光、と一言に言っても確か資格は沢山あったと思う。触れてはいるけれど、流石に全てを把握している訳では無い。
「じゃあ、一緒に探してみよう。でも初めにね、一つ簡単な物を取ってみない?時間のかからない物」
「え?う、うん」
「多分、試験だとか手間や時間がかかると、めげてしまうことってあるから。初めは、簡単に手に入る物が良いと思うんだ」
「なるほど。あ、それなら……ちょっと待って」
緋菜ちゃんはバッグに手を突っ込んで、携帯を探す。さっきから、全然違うものばかり出て来ているけれど。暫くそうして、ようやく出た携帯。何かを見せてくれようとしたが、それを見て動きが止まる。どうした?と聞いても目を泳がせただけ。
「陽さん、あのさ。今日、私に会うことって誰かに話した?」
「ん、えぇと。特に誰にも言わなかったけれど。何となく緋菜ちゃんは、先ず二人で会いたいのかなぁって思って」
「良かった。お願い。そのまま黙っておいて貰えないかな」
お願い、と彼女は私を拝み倒す。成瀬くんはさて置いておいて、昌平くんと気不味い何かがあるのだろうか。実際にあの後どうなったのかを、私は知らない。
「分かった。でも緋菜ちゃん、そうしたら私もお願いがあるの」
「うん。何だろう」
「昌平くんたちと疎遠にならないで欲しいなって、思ってて。勿論、今直ぐに皆で飲みに行きましょうって話ではないけれどね。私と喧嘩したことで、彼らと気不味くなってしまうのは、本当に申し訳ないって思ってたから」
「あぁ……うん」
そこに躊躇いがあった。本当に会いたくない訳じゃないとは思うけど、今はまだ、といったところだろうか。悲しそうな、苦しそうな顔で、緋菜ちゃんは頷いた。
「緋菜ちゃんは、昌平くんへの気持ちは変わらない?」
「うぅんと……笑ったりしない?」
「どうして、笑ったりするのよ。真面目に聞くよ」
うん、と頷くが、酷く緊張しているのが分かる。自分の素直な気持ちを誰かに伝える、ということが、緋菜ちゃんはまだ得意ではない。それでも、そうやって伝えてくれようとしている。慌てずに、急かさずに、私は待つだけだ。
「あのね。昌平にも、陽さんと同じように叱られたの。だから面白くなくて、連絡が着ても見なかったし、返せなかった。今もそう。彼らからの連絡には、何の反応もしてないんだ」
つまりは無視をし続けている、ということか。それを続けてしまったら、益々会いにくくならないだろうか。
「そっか。それで、いいの?」
「ううん。それは嫌。私、昌平のこと好きなんだと思う。今も。でも、今のままでは向き合えない気がして。何も変わっていない私を、彼が受け入れてくれると思えない」
それは真剣な瞳だった。本当にきちんと考えた結果だということ。今のまま、まだ変わりきっていない自分で、好きな人に会いたくはない。それが、彼女の強い思いなのか。
「変わったところを示したいってことね?」
「う、うん。でも、直ぐには何も。証明出来るものが何もない」
「うぅん、そう?さっきの話、とってもいい機会だと思うよ」
「さっきの話?」
「そう、資格取るんでしょ。取得してからって考えると、数ヵ月はかかるかも知れない。でも、例えばスクールに通ってみるとか、そういう変化を起こしてみる。それだけでも、嘘じゃないじゃない」
それを示すと、緋菜ちゃんはポカンと口を開いた。そこにポテトを放り込んで、和らげる。美味しい、と呟いて、とりあえず咀嚼する彼女に、私は一つ確認をする。変わったところを見せたいんでしょ?と。
「資格のこと、教えてくれたのは昌平なの」
「そうだったんだ」
「うん。私は高卒だし、転職なんて考えたこともなかったの。でも昌平は、考えたことのない世界を見せてくれた。だから……何かを手にしてから会いたい。もしかしたら、その間にルイと仲良くなるのかも知れない。でも、それでも……いい」
緋菜ちゃんは、新しい世界に踏み出そうとしている。不安だらけだと思う。私に出来ることは、それに寄り添い、それを少しでも減らしてあげること。私は、お友達だから。
「よし。そこまでの覚悟をしたのなら。ちゃんと考えよう。先延ばしにしないで。今直ぐ。一緒にね」
「うん。有難う。あ、でも……成瀬くんに会ったとしても、私のことは何も言わないで欲しいの。昌平に筒抜けになる可能性は捨てきれないから。あのまま連絡ないんだってことにして欲しい。お願いします」
「……うん。分かった。彼らには何も言わないわね」
それは少し不安がある。成瀬くんに会ってしまったら、バレてしまいそうな気がするのだ。うぅん、そうなれば。やっぱり出来るだけ会うのを止めよう。そうやって理由を見つけてホッとしている。私は今も、征嗣さんが心配で仕方ない。
「緋菜ちゃん。これから沢山調べてみるけれど、1つ期限を決めよう。ズルズルするのは良くないから。そうだなぁ。春。4月には昌平くんに会う。そう決めない?」
「4月。大丈夫かな……」
「大丈夫よ。スクールに通うとしても、4月からだし。年度も変わるでしょ。ほら、新人さんも入って来る。ちょうどいい機会だと思うんだ」
ダラダラやっていても仕方ない。機嫌があることで、ピリッとするものがあるだろう。集中し続けるには長過ぎない方が良い。緋菜ちゃんは、その言葉にまた緊張した。けれどそれは、自分に言っているようだった。期限を決めなければ、ズルズルするだけ。あれこれ理由を付けて、征嗣さんと別れられなくなるのは目に見えている。
「分かった。暫くは、色々相談しても良い?」
「勿論」
こうして微笑むのは、自分を鼓舞しているようだった。緋菜ちゃんを支えるのが、一番だ。そのついでに、自分にも言い聞かせていかねばならないだけ。自分のことなど、ついで、である。征嗣さんのことを考えてしまったら、私はきっと堂々巡りを繰り返すだろう。これまでのように。少しずつ、少しずつ、彼を小さくして、春には心から笑えるように。
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