第43話 大丈夫、大丈夫
「あぁ……やっぱりちょっと痛いな」
鏡に映る私は、相変わらず傷だらけだった。黄色くなった物もあるが、昨夜の傷は未だ赤黒い。これからどんどん薄着になるというのに、長袖で過ごすしかなさそうだ。そう思えば直ぐに、溜息が零れた。
夕べ、征嗣さんはいつものように、私を抱いた。正月のあの時のような、胸が痛くなるようなセックスだった。傷跡を舐めるように甘噛みし、いつもよりも、ゆっくりとした愛撫。それを思い出す程、私の中の不安は大きくなっていた。
「征嗣さん大丈夫かなぁ……」
呟いた私は、昨日の征嗣さんのように苦しそうだった。京都で何があったのか。延々と私は、征嗣さんを心配している。あんなに苦しそうな顔をしてまでも、私を噛んだのに。会いたかった、と彼が言った時、今までのように喜べなかったのに。私の心は、いつの間にか浸食されている。成瀬くんとのデートで浮かれていた気持ちは、簡単に消えてた。今はもう、頭の中は、征嗣さんのことで一杯だった。
京都。それは、まだ若かった私たちが出会った場所。学生の私と指導教員の彼。ぼんやりと始まった関係は、当然周りに秘められていた。並んで歩けたのなんて数える程。それでも幸せだったのは、あの時彼は他の誰かのものではなかったから。私だけを見てくれていた、と思う。そんな幸せを私は封印してしまった。京都へ行くことは、体が拒否している。征嗣さんがどうしていたかは知らないけれど、彼はそこへ行った。こうして私を傷付けるようになった今、一体何を思っただろう。
「いけない。切り替えなくちゃ」
パシンと頬を叩き、下着姿のままボゥッとしている自分を鼓舞する。緋菜ちゃんと会う前に、着替えようと脱いだだけ。自分の体を見たら、つい征嗣さんを思い出して浸ってしまった。時間に余裕はあるけれど、気持ちを切り替える時間は必要そうだ。
緋菜ちゃんが連絡をくれたのは、昨日の昼のこと。成瀬くんと食事をしていた時だった。そのまま用件を聞くことは出来たけれど、ちゃんと会って謝らなければいけないと思った。だから、昨夜、予定を立てたのだ。今日、彼女の仕事上がりの19時。月曜日に喧嘩になったあの店で。あれこれ考えれば、同じ店で会うのは気不味い。でも、あの店で私達は喧嘩をしてしまったから。友人をやり直すなら、同じ場所からにしたかった。それに、パスタも美味しかったし。
「一先ずは、服を着よう」
わざと声を出して、何とか体を動かした。折角緋菜ちゃんが、自分から連絡をくれたのだ。そんな大事な日なんだから、余計なことを考えていてはいけない。
手に取ったのは、ハイネックのトップスとロングのジャンパースカート。それから黒いタイツを履いてしまえば、外からは何も見えない。征嗣さんは、仕事に支障の出る部分には跡を付けないのだ。それくらいの理性を持ってやっているのだから、余計に悲しい。服を着て、髪を三つ編みで一つに緩く纏めた。鏡に映る私は、もう傷だらけじゃない。大丈夫、大丈夫。
「お化粧もしないとな」
傷が隠れてしまえば、明らかに安堵していた。征嗣さんの苦しい顔を、少しだけ忘れられる。そんな気がしたのかも知れない。大丈夫、大丈夫。わざとそう念じていないと、何かに引きずり込まれてしまいそうな気がしている。
緋菜ちゃんは、仲直りをしようとしているのだろうか。私はそう信じて、いつも通りにメッセージを返した。喧嘩をしたことなど、まるで無かったかのように。その方があの子が、私に会いやすいだろうから。それに、そもそも彼女が怪しんだ――私に彼氏がいるのではないかということは、強ち外れではない。私には確かに、征嗣さんが居る。彼氏ではないだけで、彼の存在は同じようなものだろう。つまり、彼女に強く言える訳がないのだ。
「嫌な奴だな……」
事実を隠そうとする私は、鏡の中で直ぐに泣きそうな顔をする。どんなに苦しくとも、それをあの子に伝えることはない。それは、絶対だ。知られたくないし、知って欲しくない。彼女は、疚しいことを引き摺って生きていた私に出来た、大切な友人。どうか彼女の中の私は、清いままでいたい。汚れてしまった私の細やかな願いである。
「18時か。ゆっくり行こうかな」
全ての用意を終えて、私は直ぐにバッグを手にした。緋菜ちゃんは、今日は仕事。19時前には、と言っていた。きっと、まだ早い。
それでも、このモヤモヤした感情を一度クリアにしなければいけない。そうでなければ、彼氏なんていないのに、と心から言える気がしないのだ。迷うことなく、玄関の戸を開ける。このまま家に居たら、きっと私は征嗣さんのことばかり考えてしまう。あんなに成瀬くんと楽しく過ごした時間が、何一つ思い出せない程に。鍵を閉めて、前を向いた。気持ちを切り替えながら、ゆっくり行こう。動物園通りを通って、それから公園の中を歩いて。冬の色を見ながら歩こう。大丈夫、大丈夫。
「大丈夫かな……」
結局直ぐに、不安になってしまう。あぁダメだ。別れる、と固く決めたはずなのに。
征嗣さんのことがこんなにも心配になってしまう。彼は私が居なくても、幸せに笑っているというのに。きっと、私が居なくたっていいはずなのに。馬鹿だなぁ。それなのに、私は彼のことを心配し続けている。あぁもしかして私の心は、本当は別れたくないと思っているのだろうか。
普通の日曜の夜の街。友人と楽しそうに歩く人もあれば、1人サクサクと追い抜いていく人。すれ違う人もまた、それぞれに帰る場所があって、きっと大事な人も居る。幸せかどうかは置いておいて、気に掛けてくれる人がきっと居る。私に、成瀬くん達が居るように。
「いらっしゃいませ」
「すみません、待ち合わせで。後から来ると思うんですけど」
「かしこまりました。では、こちらの席で如何でしょうか」
呆気なく店に着くと、爽やかに微笑んだ店員に通され、私はテーブル席に着く。喧嘩をしてから一週間も経っていないし、来たくなかった気持ちもある。今の店員だって、あの時居たかも知れない。そう考えると恥ずかしくなって、メニューを覗き込んで視野を狭めていた。
それでもこの店で良い。数少ない友人と、躓いてしまった場所だ。仲直りが出来る訳じゃないかも知れない。それでも、彼女から手を伸ばしてくれたことが、私は素直に嬉しかったのだ。今日また喧嘩になったとしても、冷静に、一つずつ話をしようと思っている。これから繰り広げられる時間に緊張しながら、出されたお冷に口を付けた。そしてまた、私から自然と溜息が零れて行った。
冬の匂いを嗅ぎながら、歩いて来たけれど。私は、征嗣さんのあの顔を忘れられなかった。あんな顔をしたのに、私に苛立ちをぶつけない。その矛盾のようなものが、強く私の印象に残ったのだと思う。もう十年以上、私たちはそうして生きて来た。今更違うことをされると、心配になるだけだ。家族と居て、それが満たされるような話だったら良い。今の私の役目など、所詮その程度だろうから。
「いらっしゃいませ。はい、あちらのお席でお待ちですよ」
「……ございます」
ぼぉっとメニューを眺めて、どれ位居たろうか。入口の方からそんな会話が聞こえ、ハッとして顔を上げる。店員の通る声と小さな返答。それから、カツカツと近付いてくる足音。どんどん近付いてくるそれに、私はまたピリッとした緊張を纏い、思わず顔を伏せた。でも、今日はきちんと話をしたい。静かに深呼吸をして、穏やかな表情で顔を上げる。
「あ、こっち、こっち。緋菜ちゃん、お疲れ様」
「あ、あの……陽さん。あの」
「ヤダ、座ってよ。お腹空いたでしょう?今日は何食べようか」
私よりも強張った顔の緋菜ちゃんが、そこに突っ立っていた。眉間に皺が寄っている訳でもない。ただモジモジとした彼女が、そこに居る。あぁ仲直りをしに来てくれたんだ。素直にそう感じた。そうなれば自分の中の緊張が、一気に解れる。気持ちにも少しずつ余裕が生まていった。
「こっ、こんばんは」
「こんばんは。ねぇ、何にする?私はね、今日はボロネーゼにしようかと思うの。あと、お酒はどうしようか」
「あぁ……えっと」
「うん。お話は選んでからにしよう」
出来るだけ笑顔を作った。私だって不安だ。きっと仲直りをしようとしてくれる。そう思い込んでいても、実際は口を開いて見ないと分からない。
「じゃ、じゃあ……ベーコンと茄子のトマトソース」
「うん。ビール、一杯だけ飲まない?」
ぎこちなく彼女が頷く。私はそれを確認して、大きく手を上げて店員を呼んだ。決めていたメニューと、キャロットラペ。それから何となく、トスカーナ風ポテトを追加した。堅苦しくしたくない。気軽な食事でありたかった。ビールとラペは直ぐ来るだろう。ただ問題は、それまでの間だ。緋菜ちゃんは下を向いてしまって、沈黙が続いている。
「仕事は忙しい?」
当たり障りのない話を、と思っても、このくらいが限度。笑顔を保っている頬が、攣ってしまいそうだった。ビールよ、早く来い。多分、彼女も願っているだろう。こちらに向かって来る店員が視界に入ると、安堵する私も同じだった。静かな声で「お待たせしました」と言った店員は、微かに笑みを作りながら、それをゆっくりと置く。彼が去って直ぐに、目の前に置かれたグラスを持ち上げた緋菜ちゃん。目を合わせないまま彼女は「お疲れ様です。乾杯」と言うと、勢いよく口を付けた。
「お疲れ様です」
私もそれだけを言い、口を付けた。話を滑らかにするのに酒の手を借りるのは、大人の常套手段である。
「ぷはぁ……よし。陽さん」
「はっ、はい」
強く目を瞑りながら飲んでいた彼女が、キッと私を見る。ちびちびと口を付けていた私は、急いで背筋を伸ばした。
「ご……ごめんなさい。私、本当に何も分かってなかった。この間喧嘩になったことも、どうして皆私を信じてくれないんだろうって、悔しくて……私、酷いこと言ったよね。ごめんなさい」
「緋菜ちゃん……」
「許してくれないと思ってる。当たり前だよね。でも、私。私ね、気が付いたの。陽さんは、ちゃんと私を叱ってくれた。怒りに任せた言葉じゃなくて、ちゃんと叱ってくれた。だから私……有難う」
早口でそう言い終えた彼女は、思い切り頭を下げた。それを呆然と見ている。そして私は、思いがけず涙を流した。謝ってくれたこと、感謝をされたことが嬉しいのではない。緋菜ちゃんが、大切なことに気付いてくれたことが嬉しかったのだ。
「緋菜ちゃん。私の方こそ、ごめんなさい。あの時、怒らなかったかと言われれば嘘になるわ。それに私が先に、亡くなった母の形見だって言えば良かったのに。言葉が足りなかったから」
「ううん。それは。私の考えが、色々足らなかったのは事実だよ。だから……その。また仲良くして貰えませんか」
モジモジしながら下を向いて、緋菜ちゃんはそう言った。それが本当に可愛らしくて、抱き締めてあげたくなってしまう。それだけ、私もおばさんになったのだろう。
「こちらこそ。宜しくお願いします」
「陽さん」
「ふふ。さ、飲もう」
「うん」
望んでいた通り、仲直りが出来た。嬉しくて心があったかい。だから……征嗣さんのことも、きっと大丈夫だ。関係などないのに、そう結び付けて願っていた。大丈夫、大丈夫。次に会う征嗣さんはきっと、いつもと同じ。
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