第42話 私の大切な人
「ただいま」
誰もいない部屋に、律儀に挨拶をする。寂しい癖だな、といつも思うのに、何故か今日は感じない。気付けば頬が緩んでいる。あぁきっと、これのせいだ。右手に残っているような、成瀬くんの温もりと感覚。それから、緋菜ちゃん。月曜日のどんよりした気持ちとは違う、清々しい私が居た。
「コーヒー淹れようかな。……ふふっ」
鼻歌でも歌ってしまいそうな自分に、つい笑いが漏れた。薬缶を火に掛けて、いつものように準備を始めるけれど、何だか気持ちが上擦っている。いつもよりも、ちょっとだけ明るい曲を鳴らした。カップを選んで、豆の準備。湯が湧けば、直ぐにコーヒーを落とし始める。浮かれている自分を少しずつ落ち着けながら。ゆっくり、ゆっくり、膨らみ始める香りを鼻一杯に吸い込んだ。
今日は楽しかったなぁ。そんなことを思いながら、パソコンの前に座る。カップの縁に口を付けて、少しずつコーヒーを啜った。こうして色んな色に触れてしまった自分を、褐色に引き戻す。いつまでも浮かれていてはいけない。征嗣さんと居る時に、その淡い色を出してはいけないから。成瀬くんと別れたら直ぐに、この黒みがかったコーヒーの色の中に、私を浸しておかないといけないのだ。彼に、迷惑だけは掛けたくない。その思いだけは、ちゃんと心のど真ん中に鎮座していた。
「あ、このワンピース可愛いな」
コーヒーを片手に、見始めたページ。ファッションやグルメ、カルチャーなどの情報が纏められている、お気に入りのサイトである。画面には、春の新作のワンピースが映し出された。淡いグリーンがいかにも春っぽい。こんな服を買ったら、どこかに出掛けたい気持ちになる。そうだなぁ。花が沢山咲いているような、燦燦と陽の射し込む場所に。そう思いながら目をやるのは、花畑で微笑む母の写真。いつものように優しく微笑んでいる。あれは伊豆だったな。母はあぁいう所が好きな人だった。あの時も、沢山花を見て回ったっけ。
「えぇと……伊豆。あぁそうだ、ここだ」
思い出しながら検索を掛けた。河津桜、それから菜の花。綺麗な桜が咲いているのに、母は目の前の小さな花ばかり愛でた。見上げてばかりいたら、こんな綺麗な花を見逃してしまうでしょう。そう言って笑っていたんだ。
そんな綺麗な過去を思い出していると、不意にインターホンが鳴る。寛ぎ始めた心は、一瞬でピリッとしていた。理由は簡単だ。こんな時間に私を尋ねて来る人など、あの人しかいない。慌てて立ち上がり、モニターを確認して息を飲む。
「は、はい」
「あぁ」
「うん。開けるね」
短いやり取り。面と向かって話していないのに、おかしな所はなかったか気になり始めた。彼が上がって来る前に、何度も深呼吸を繰り返す。そうして玄関の扉を開ける頃には、もういつもと同じ仮面を付けている。
「どうしたの?」
「あぁ、いや。今帰って来たから。陽に会いたくなって」
「征嗣さん、やだ。珍しいねぇ、そんなこと言うの。上がって。コーヒー淹れるね」
ドキドキとしていた。あまりに優しい顔で、そんなことを言うから。最近の気難しい顔とは違う征嗣さん。それは、私が好きになった頃の彼と同じ顔だった。
「陽。土産」
「え?私に買って来てくれたの?八つ橋……京都だったんだっけ」
「うん。懐かしいだろ」
「そうだね。暫く行ってないなぁ。有難う。お茶うけにしようか。お酒飲むほど、長くはいられないでしょう?」
「……あぁ」
征嗣さんが、すまなそうな顔をして見せた。いつもと違う彼に、ドキン、と胸が響く。何があったの?何か隠してるの?私は瞬時に、色んなことを考え心配していた。
「陽。コーヒーはいいよ」
「え?」
薬缶に水を入れていた私を、彼が後ろから抱き締める。少しこうしていたい、と征嗣さんは耳元で囁くのだ。鼓動が早くなる。心の中には、心配、不安、色々ある。でも、私は見つけてしまっていた。彼のことがまだ好きだ、と。
ただ……思った以上に、この状況を喜べていない。彼に誘われるまま、私はテーブルの前に戻る。このまま、と覚悟をしたが、彼の手はそう動かなかった。ただ優しく私の髪を撫で、抱き締めるばかりなのだ。
「征嗣さん、どうしたの?」
「ん……あぁ。何でもないよ」
「本当?京都に行って、何かあった?大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。ただ、陽と過ごした場所を思い出しちゃってね。センチメンタルなだけだ」
そんなことを言った征嗣さんは、悲しそうに笑う。私たちが出会った京都。ここよりも幸せな思い出が沢山ある場所である。
「あの時は……幸せだったものね」
「陽、ごめん」
「あぁ、うん。そういうつもりじゃないんだけど。でも、幸せだったなぁって。私もきっと、久しぶりに行ったら泣いちゃうかもしれないなぁ」
力なく微笑み掛けた。あの場所は、私たちの幸せの時間が沢山存在している。私だって、もしも行くなら、それを思い出さない自信などない。それが例え仕事だったとしても、だ。
「何か調べ物してたの?」
「いや、そういう訳じゃないんだけれどね。母と行った伊豆を思い出しちゃって。ほら、最後の旅行の」
「あぁ、あの時の」
「うん。母も楽しそうだったから。きっと良かったかなってさ」
「頑張ったもんなぁ。あの時、陽」
昔の私を思い出して、征嗣さんが笑った。
「何か調べ物してたの?」
「いや、そういう訳じゃないんだけれどね。母と行った伊豆を思い出しちゃって。ほら、最後の旅行の」
「あぁ、あの時の」
「うん。母も楽しそうだったから。きっと良かったかなってさ」
「頑張ったもんなぁ。あの時、陽」
昔の私を思い出して、征嗣さんが笑った。
体調が万全でなかった母の為に、私は沢山調べ、プランを立てた。バイトで貯めたお金の遣り繰りをしながら、必死に計画したのである。それに手を差し伸べたのが彼、征嗣さんだ。後で返してくれればいい、と少し不足した金を貸してくれたのだ。そうして何とか行った旅行から、一年も経たずに母は逝った。あの時行けなかったら、私はずっと後悔していたと思う。
「征嗣さんがお金貸してくれたから、行けたんだよ」
「まぁそうだけど。お前、意地で直ぐに返したよな」
「だって、あまり好きじゃなかったから。お金の貸し借りって」
陽らしいよ、と笑う彼は、まだ少し元気がなかった。
「ねぇ、征嗣さん。本当に大丈夫?」
「大丈夫だって。何でもないさ」
「そう?だって……」
心配を始めた私の口が塞がれる。また始まる、とグッと構えたけれど、今日のキスは優しい。噛みつくようなそれではなく、ただ優しく愛されているようなものだった。
「陽……」
私の視界一杯に映る彼。何だか泣いてしまいそうにも見えた。今でも私には、彼を想う気持ちが存在している。成瀬くんと楽しく過ごせたとしても、この感情が消えることは無い。それくらいに、私は、彼を。こういう顔を見てしまうと、簡単に表れてしまう気持ち。別れると決意をしても、仕方のないことなのだ。心は簡単に方向転換が出来ないのだから。
あぁ、母の写真倒しておけば良かった。花に囲まれて微笑む母。今でも私の、一番大切な人。彼や成瀬くんとも違う、私の一番大切な人。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます