安息地

尾八原ジュージ

安息地

 鉄筋コンクリート造りの二階建てアパート、その101号室は異様に家賃が安かった。事故物件な上に人が居つかないそうで、家主のおばさんはそこで起きたことについて、もはや一切隠す気がないらしかった。

「そこの角で倒れて亡くなってたのよ」

 おばさんは何もない空き部屋の一角を指さした。

「元々幽霊が出るっていうんで、長く住む人がいなくってね。ひさしぶりに半年以上もった人がいたなと思ったらこれよ。異臭がするっていうんでここに来てさ、インターホン鳴らしてもうんともすんとも言わないから、警察呼んで合い鍵で部屋に入ったの。そしたらもうね。夏場だったもんだからひどくて」

 おばさんは大きなため息をついた。「それがさぁ、餓死だったのよ」

「餓死?」

 私は思わず聞き返した。

「そうよ。部屋にはちゃんと食べるものも置いてあったのに。あんたと同じくらいの真面目そうな若い娘さんだったのに、かわいそうにねぇ」

 一通り話を聞いた後、私はその部屋に住むことに決めた。おばさんは驚いていたけれど、駅まで徒歩十分、深夜まで営業しているスーパーが近くておまけに家賃が激安とくれば、私にとってこんな好物件はなかった。

 要は気にしなければいいのだ。この部屋で起こった死亡事故のことも、部屋に入った時からその角にずっと立っているぼんやりした人影のことも、気にさえしなければいいと思った。


 思った通り、その部屋はなかなか快適だった。建物自体は古いけれどしっかりしているし、設備もリノベーションされており申し分ない。通勤時間もかなり短縮された。

 ぼんやりした人影は、例の死体があったという部屋の隅に四六時中立っていた。ただ立っているだけだ。私に何か語りかけてくることもなければ、何か害を及ぼそうとする気配も感じられなかった。

 部屋に慣れてきた私は、謎の先住者をじっくりと観察した。日向にできた影がそのまま凝ったような灰色をしていた。身長と体格から、おそらく男性だろうと思われた。

 謎の灰色の男か。ミヒャエル・エンデの『モモ』を思い出して、私は思わずふふっと笑った。もしもモモが実在するとしたら、今の私の生活はきっと、時間をとられた人々と同じように彼女の目には映るだろう。

 朝八時半に出勤して、一日慌ただしく追い立てられるように働き、夜の九時を過ぎてから退勤する。業績悪化で社員数が削られ始めてから、そんな日が続いていた。職場の雰囲気も悪くなり、朝起きると出勤の憂鬱さに、目の前が灰色に曇っていくような気さえした。会社用のパンプスを見ただけで胃がキリキリと痛んだ。

「いいよねぇ、あんた。ずっと家にいられて」

 私は人影に話しかけた。もちろん、なんの返事もなかった。


 入居してから半年が経った。

 相変わらず人影は部屋の隅に立っていた。何がそんなに楽しくてそこにいるのだろう。私にはそいつが若干腹立たしく、羨ましくさえあった。一日中部屋の隅にただじっと立っている。それはひどく贅沢なことのような気がしたのだ。

 ある日曜日の夕方だった。終わっていく週末と、明日の出勤のことを考えると胸がチクチクと痛んだ。そのとき、ふいに私は「自分も部屋の隅に立ってみよう」と思ったのだ。

「ちょっと失礼」

 人影に声をかけて、彼に重なるように角に立った。

 その瞬間、暖かく柔らかい空気のようなものが私の全身を包み込んだ。大好きな人の胸に抱かれているような安心感と多幸感が、憂鬱を押しのけて心を満たしていく。両腕を体の脇に下げ、棒立ちになったまま、私はいつの間にか涙を流していた。私がこの部屋と巡り合ったのはこのためだったのだ、という確信があった。この奇跡に私は感謝した。このままここでずっとこうしていたい――

 目覚まし時計のアラームが部屋中に鳴り響いた。

 突然現実に引き戻された私は、慌てて耳障りなベル音を止めた。同時に強烈な倦怠感が全身を襲った。空腹で吐き気がした。

 窓の外が明るい。いつの間にか日付が変わって、月曜日の朝になっていたのだ。夕食も食べず、一睡もすることなく、私はあの隅にただ立ち尽くしていたのだ。

(以前この部屋で亡くなった人は、そうだ)

 餓死。

 私は急にぞっとして、部屋の隅を見た。

 灰色の人影はそこに立っていた。普段と何も変わらず、善意も悪意も持っていないような、影が凝ったような姿。

 しかし今、それは私の目に死神のように映った。


 突然の契約解除の申し出に、家主のおばさんは何の文句も言わなかった。私はすぐにアパートを引き払い、別の場所に引っ越した。

 通勤時間は伸びたし、軽量鉄骨のアパートに変わったせいで隣の生活音が聞こえるようになった。でも、部屋の隅には誰も立っていなかった。

 勤務先はあれから少ししていよいよ経営が危なくなり、ある日社長が社長室で首を吊って、あっという間になくなってしまった。必死の思いで転職した先は全然別の業種だったけれど、思ったよりも居心地がよくて、九時から五時まで働けば大抵仕事が終わった。

 運よく生活が好転したけれど、それでも私は時々あの部屋のことを思い出す。あそこに佇んでいた影のことを、そこに重なって立ったときのとてつもない幸福感を思い出してしまう。

 もしもあの頃のような憂鬱な生活が戻ってきたら、私はまたあの部屋に住もうとするのではないか。あの人影に抱かれるようにして、幸せな気持ちのまま死のうとするんじゃないだろうか――

 それを「怖ろしい」と思ううちはまだ、私は幸せなのだと思う。

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安息地 尾八原ジュージ @zi-yon

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