ふたり暮らし

カレーだいすき!

ふたり暮らし(単話)

 小さく高い音が合図となり、私は布団からそっと出るとキッチンへ向かった。

 リビングというには狭いスペースに隣接したキッチンまで数メートル。3つあるコンロの1つに、赤い塗装が不気味に剥げた笛吹ケトルが火にかけられており、勢いよく湯気を吐き出しながら音をたてていた。断末魔のような音は、私の意識を半分だけ覚醒させるのに、充分だった。

 火を止めると音は次第に小さくなり、パチパチと内側で水を蒸発させる音がいくつも聞こえてきた。

 熱くなった取手を布巾越しに掴みながら、傍らに置かれた茶色のカップに熱湯を注ぎこむ。薄くなりかけていた湯気は再び勢いを盛り返し、かけていたメガネを曇らせた。

 インスタントの粉コーヒーを匙2杯分放り込んでかき回した後リビングに戻り、テーブルに置いてあるリモコンでテレビをつける。

 映し出されたニュースで、今が正午前だと判った。

椅子に腰かけ、湯気が熱そうにたつ薄いコーヒーをすすった。

 昨晩飲み過ぎたせいか、頭痛と倦怠感が私を襲い、それらはコーヒーの味も捻じ曲げるだけに飽き足らず、だらしない角度のついたままの首を、そこから上げることを拒否していた。

 平日と特に変わらないニュース番組が天気予報を流し出した頃、私の後方にある半開きのドアの向こうから布団をめくる音がかすかに聞こえた。

 『あれ』もようやく目覚めたようだ。

 しかし今、頭を振りたくなかった私は、猫背のままテレビから視線を外さずにいた。

 起き上がったらしいそいつは、偉そうな足音をたて、ドアを乱暴に開いた。


「おい」


 透き通るような、しかし低い声の主は私に声をかけた。


「ん」


 私は声の主の方を向かずに返した。


「ん、じゃねぇよ。なんだこれはよぉ」


「なんだとは何だ」


 ニュースが終わり、正午の番組が始まったところで、私はリモコンを手に取り、何度か切替えた。

 日曜昼の番組はどれも知らないものばかりで、大して興味を惹くものがみつからず、私は公共放送のボタンを押し、先程別のチャンネルで流れていたような内容のニュースを眺めることにした。


「聞いてるのはこっちだ。なんでこんなに頭が痛い。それに吐き気もする」


「お前が散々飲み過ぎた結果だ」


「バカ言うな、未成年の俺が飲む訳ねえだろ」


 私はそこでようやく、振り返った。

 背後には女が一糸まとわぬ姿で仁王立ちしていた。

 私よりも体躯は小さく、白い肌には傷一つない。手足はか細い癖に形の良い乳房はそこだけ自己主張するようにたわわである。

 先程まで寝ていたため、黒くつややかな髪は寝癖が跳ね、苦痛に歪む顔にある切れ長の目は鋭くこちらを睨んでいる。

 女は不機嫌そうな足音をたて私の横まで来ると、勢いよくテーブルを叩いた。


「お前、夕べ『ママ』に何杯飲ませたんだ」


「飲ませたなんて人聞きの悪い。そうだな、飲ませたのは、最初の1杯だ。あとはするする。いつも通りに『君』が飲んだ」


「だから俺は飲んでないって言ってるだろ……イタタ」


 女は顔を苦痛で歪め、頭を片手で押さえた。


「なら言い換えてやる。『君のママ』が勝手にあれこれ飲んだのだ。それに私は止めたが、ママはその制止を振り切って、ついに1杯3千円のウイスキーを飲み始めたよ。ちょうど1杯飲みきるところで閉店になったので、ママを私が担いで帰ってきたのだ。途中、ママのゲロを背中に浴びながらね。感謝こそされ、罵られるいわれなど、私にはこれっぽっちもないがね」


 私は、コーヒーを一口含み、女に一瞥をくれてやりながら言った。


「お前がちゃんと止めてりゃ俺は――」


 そこまで言うと女は口を押え、今しがた出てきたドアと反対方向にあるバスルームに駆け込んだ。その直後に便座を開く音に膝をつく音、女の嗚咽に加え吐瀉物が女の身体から流れ出る音がクリアに届いた。

 暫くえづいた後、女はリビングへ戻ってきた。その足取りに先程の勢いはない。


「くそっ……ひどい目に遭った」


「そんな目に遭いたくないなら、お前からもママに言っておくんだな。どんなに楽しくなっても深酒はやめろと。美容にもよくないしな」


「他人事だと思いやがって」


 そういうと女は、私の脛をめがけて蹴りを放った。

 鈍い音と同時に襲った痛みに、私は思わず声を上げた。


「他人事? 冗談じゃない。むしろ他人事はお前の方だ、人の事をそんな風に言うのは感心しない。あと、苛立っているからと、すぐにこうやって暴力をふるうのは良くないと教えただろ」


 私は痛む脛をさすりながら、女に言った。

 女は私に顔を近づけ自身の胸に指を指して言った。


「いいか。『これ』はママのだけど、俺のでもある。それに俺の保護者はママだけだ。お前じゃあない。ママに、この体に傷ひとつでもつけてみろ。お前をなぶり殺しにしてやる」


 女の口から発せられる暴力的な言葉と共に、吐瀉物のすえた臭いが私の鼻を突いた。私はその臭いにつられ、胸の奥に先程までなかった不快感を覚えた。私は臭いから逃げたくなり、右手で女の顔を押した。


「わかったから、悪かったよ。それよりどうだ、お前も飲むか?」


 私はカップを手に取り、女に見せた。


「いらね。ポカリ飲む」


 女は不快な顔をしながら冷蔵庫に向かうと、1リットルのペットボトルを取り出しコップに注ぎ分けることなくボトルに口をつけて飲みだした。しかしその数秒後、ペットボトルをシンクに置き、猛ダッシュでバスルームへ入っていった。


 私は最近、今まさにバスルームでゲーゲーやっている女と暮らし始めた。

 数週間前の雨の降った夜。私が暮らすマンションの門の前で黒を基調とした、ごてごてのレースのついた服をずぶ濡れにして眠っていた彼女を、私が拾った。

 そのまま女は居座るようになった。

 実際ここ何年も私は独り身であり、尚且つ仕事もどこかへ通勤するものでもなかった。会話に飢えていたというのも、彼女を居座らせている理由だった。

 例えばこれで私が人間関係に疲れていようものなら、たちまち女を放り出していたに違いない。

 女は名前を『ヒナカ』といった。

 本名か偽名かは定かではない。しかし、身分証らしいものも見当たらなかったので、彼女の言う事を信じる他はなかった。

 年は私より5つ下、だそうだ。これも自己申告であり、本当の事は分からない。

 好きなものは長崎ハットのちゃんぽん麺と、甘いもの全般。あと本人は自覚が無い様だが酒癖の悪い呑んべえである。

 ヒナカは、ちょっと特殊だった。

 先の会話でもあったが、ヒナカは非常に女らしさのかけらもない発言を稀にする。

 普段からああいった物言いや仕草をするわけではない。

 彼女の中には何人かが『棲んでいる』そうだ。

 世間で、解離性同一性障害や多重人格と呼ばれている奴だ。

 昔からそういうものの真似をしている人間を何人か見てきたし、ヒナカもそれらと同じだと思っていた。


 しかし彼女は本物だった。


 普段大人しい人間が急に暴れるだけなら、そこまで珍しくはない。

 だからヒナカが先のような態度で接してきた時、私は何度か彼女をたしなめた。しかし、観察してみるとどうも違う。味付けの好みや、服のセンス、好きな色、好みの本も違う。しかしここまではある程度まで演技ができる。

 違うのは器用さというより、特技とでもいうのだろうか。


 バスルームで消耗してきた彼女は、おぼつかない足取りでリビングに戻ってきた。しかし私の方には目もくれず、テレビ付近に置かれた電子キーボードの椅子に座って深呼吸をすると、一気に弾き始めた。

 非常にゆっくりとしたテンポの中にマイナーコードを多用した、何ともひねくれて重々しい旋律は、テレビから流れているのど自慢番組の音声を半分以上かき消した。

 今演奏しているのは、ヒナカではない。

 ヒナカの中にいる人格で、自称長男。名前を『マコト』というらしい。

 彼は私を妙に敵視しているので会話といっても先程のようなもの位である。

 その中から拾い上げた結果、マコトは13歳の男子で辛い物と脂身の多い肉が好き。自分はヒナカに産んでもらったと言い、ヒナカの身体と自分のいる別の場所を行き来しているというところまでは判明した。

 これだけ聞くと、ヒナカが遅れてきた中学二年生特有の精神的な病気を患っているとしか思えなかった。

 マコトが私の前に姿を現して数日後。『彼』がピアノを弾きたいと私にせがんできたので、大分昔に知人の引っ越しで押し付けられた電子キーボードを押し入れから引きずり出して与えたところ、驚くほど綺麗に弾き始めた。

 彼は感情的になると、ああしてキーボードの前に座り、気のすむまで黙々と演奏をする。

 この前『どこかで習っていたのか』と聞いたが、彼はそれに答えることなく、すっと席から立ち上がると部屋に篭って眠ってしまい、ヒナカと入れ替わってしまった。

 今こうして弾いているのは、二日酔いの陰鬱な気持ちなのか、それとも酒を飲むヒナカを止められなかった私への憤りなのか、定かではない。

 マコトは肩甲骨と背骨のうっすらと浮き出た白い背と寝癖にまみれた黒髪をこちらに向け、時に体を揺らし、時に背筋を伸ばしながら弾き続けている。重々しい旋律は、本日最高齢出場のおばあちゃんが画面の中で歌っている『北国の春』を中途半端にかき消しながら続いていた。

 いつまでも続くと思われた重々しい演奏は途端に止み、彼は俯いたままじっとしていた。

 更に数秒程経つと、背中は首を上げ、少し考え込むようなしぐさの後、再び演奏を始めた。

 ただし、今度はつたない『猫ふんじゃった』。それを間違えては止まりを繰り返しながらの演奏だった。

 間違えて手を止める度に背中は首を傾げ、間違える一歩前からやり直している。


「おい」


 私が声をかけると、背中はゆらりと姿勢を正しこちらを振り返った。

 切れ長の目は柔らかさを持ち、キュッと閉まっていた口元は、だらしなく開いて微笑んでいる。しかしその笑みが急にへの字に歪み、目元は涙ぐんだ。


「うー……飲み過ぎたー……」


 その声は低くなく、先程のような荒っぽさは微塵も感じなかった。


「おはよう」


 私は『ヒナカ』に言った。

 彼女は私の声に、頭を抱えながら頷き、立ち上がった。


「アタシまだ酔っぱらってんのかな。頭痛いし、口の中が酸っぱいし……なんか気づいたらピアノ弾いてるし」


「マコトが弾いてたよ。そして、君の代わりに、ゲーゲーやってくれたのも彼だ」


 僕は温度の下がったコーヒーを一気にあおった。


「報告ありがと。アタシのコーヒーは?」


「ないよ」


「ないの?」


「マコトはいらねぇって冷蔵庫の前であれを飲んでいた」


 私は調理台に立てられた1リットルのペットボトルを指差した。


「口の中に残ってる甘いのってポカリの味だったのね……ああもうまたラッパ飲みしてる」


 ラッパ飲み。そんな古臭い言葉を使うのは、彼女しかいない。


「じゃあこれでいい。どうせあの子の事だから、ゲロまみれの口を付けちゃったんでしょう?」


 ヒナカはそういうとペットボトルを持ち上げ、残った液体の3割ほど飲んで、ふたを閉め、冷蔵庫に戻した。


「そういや愚痴を言っていた。『あんまりママに飲ませるな』だと」


「あの子が? 偉くなったものね。誰に似たのかしら」


 ヒナカは冷蔵庫を閉めながら言った。

 誰に似たか。そんな事私には分からない。

 今まで生きてきた中で、実際に1人の中に何人も棲んでいる人間は知人にいなかったし、彼女が本当に何者で、いつ違う人格と共生し始めたのかもわからない。

 誰に似たかなどという問いは、私には難しすぎた。


「頭痛い。気持悪い……寝る」


彼女はフラフラと風にゆれる柳の様にゆれながら私の横を通り過ぎ、再び寝室へと戻っていった。


「おい、今日昼過ぎから出かけたいって言ってなかったか?」


 私はふと思い出し、ドアの向こうへ投げかけた。


「明日にするー」


 小さな声で返ってきたとき、テレビからは合格の金と歓声が聞こえ、画面の中では恰幅のいい女性が、ゲスト審査員の歌手と抱き合って飛び跳ねていた。


    *


 ヒナカと他の人格がいつ変わるのか、暮らし始めてから観察を続けている。

 しかし、未だにわからない。それは時間帯でも天気でもその場の雰囲気でもなく、突如として入れ替わる。

 こちらが何をしていても、ヒナカに話をしていても『入れ替え』は突如訪れ、話が全くかみ合わなくなる。

 わかっているのは『入れ替え』が起こるその数秒間、彼女の身体は眠る様に意識を失うという事だけである。

 困ったことに、彼、彼女らは互いが『いる』という認識はあっても、細かな記憶の共有はしていない。しかも思考もまったく違うため、小さな用を頼んでも人格が変わればまったく覚えていない。

 最初こそふざけているのかと、何度か叱咤した。

 しかしもうこれは私が折れた。こちらが気を付けて話し、またはメモを書置きさえすればいいのだ。大した手間ではない。

 それに普段私は大抵家の中だ。そうそう伝言することなどありはしなかった。

 突如として変わる人格はどれが出てくるかもわからない。

 これは本当にランダムであり、ヒナカが言うには、私がまだ知らない人格も存在しているらしい。どの人格を出せと言われて、ほいと簡単にそいつが出てくる程、単純ではないそうだ。

 なんとなく『そういう雰囲気』になり、どちらかが求めたときに『入れ替え』が起ころうものなら、大騒ぎである。

 つい先日も私が彼女の誘いで上に覆いかぶさった時に『入れ替え』が起こり、ヒナカはマコトへと代わった。

 マコトは状況に驚き


「気持ちの悪い事するんじゃねぇよ!」


 と私を蹴とばした。

 その後、次の人格に入れ替わるまでの数時間、私はマコトに何度も罵倒されることになった。

 こればかりは本当にやるせなくなるので、あまりヒナカの身体に手を出さないようにしていたのだが、今度はヒナカからセックスレスだ、家庭崩壊だと猛抗議を受けた。

 無論、私は彼女をここに居候させているだけで正式に家族になった覚えはないし、そもそもまだ出会ってそんなに経っていない人間が口にする言葉ではない。

 このもやもや気持ちをどこにぶつけようかと悩んだ結果、近くにあるバッティングセンターで1時間程、初速の早い球を打とうと奮闘するところに落ち着いてしまった。

 食費も光熱費も1人でいた時より上がってしまったが、ヒナカの時にしっかりやりくりしてくれているので、このちっぽけな私の収入でも、たまに外で酒を飲んだり、バッティングセンターに行く位の小さな余裕ができているのが救いだ。

 ピアノは弾けないヒナカだが、家事は本当に得意だった。ここはマコトと違うところだろう。

 彼が長い事出てきていると、たちまちリビングは一人暮らしの男子学生の如き部屋になる。

 カップラーメンの汁を捨てずにテーブルに放置し、袋菓子をこぼしても片付けない、本を読んだら読みかけのページを開いたまま床に伏せ、あまつさえそれを自分で踏んで、ギャーギャー騒いでいる。

 そんなにヒナカがいいなら彼女を真似ろといってみたが、この少年の人格は一向に聞く耳を持たなかった。

 目下、この部屋の主としての目標は、このクソガキの人格をなんとか従順にするという事だろうか。


     *


 目を覚まして夕方を過ぎたと分かるのは、部屋のカーテンが遮光ではない安物のカーテンで、外からの光が一切入ってこないからだった。

 結局、あれから日曜の番組をみながら時間をつぶすより、この二日酔いにまかせて眠ってしまった方が有意義だと考えた私は、ヒナカの隣で眠りに落ちた。

 寝ている彼女は甘い匂いがした。というか、彼女の眠っていた跡はいつも砂糖菓子の様な甘い匂いが残っている。昔聞いた話で、桃ばかり食べさせられて育った少女からずっと桃の香りがするというのがあった。それはそれで妄想をかきたてられるが、その後に書かれた『実はその匂いは糖尿病特有のもので云々――』という注釈で、幽霊の正体をみてしまったような気がしてがっかりしたものだ。

 その件を思い出す度、この隣で眠っている女の身体のことを心配せざるを得なかった。

 ふと、彼女が起き上がり、あたりを見回すと小走りに寝室を出て行った。

 トイレにでも立ったのだろうか。

 そこから数分後、リビングの方からテレビの音と彼女の独り言が聞こえてきた。独り言はなんだか楽しそうに、いつもよりも甲高く聞こえた。

 いったい何を見ているのか。気になった私は起き上がると、部屋のドアをそっと開けた。

 陽が落ちて暗い部屋に、テレビの発する青白い光が眩しい。

 その中で床に足を投げ出し座っている彼女がいた。

 見ているのは教育チャンネルの夕方にあるこども番組だった。電気もつけず、二十歳過ぎた女が、テレビの歌や踊りに合わせて手拍子しながら歌う姿など、他の人が見れば卒倒ものだろう。

 実際、私も最初に目にした際、ホラー映画のワンシーンを想像してしまいひどく戦慄を覚えたものだった。

 だがこれは違う。彼女はヒナカじゃない。

 私はリビングに入ると、壁にある蛍光灯のスイッチを入れた。

 青白い光はその身を撤退させ、代わりに点いた蛍光灯の白い光で私は何度か瞬きした。明りがついた事で、彼女は辺りを見回し、私を発見するとこちらへ駆け寄ってきた。


「明りつくのわからなかった!」


 彼女は私に抱き着き、ニコりと笑ったと思うと、すぐにテレビの前に戻り画面にくぎ付けとなった。

 彼女が急激に幼児退行したわけではない。

 これも彼女の中に棲む人格だ。

 名前はコンコ。恐らく本名ではない。

 年齢は分からないが、その言動から、かなり幼い女の子であると私は推測している。

 コンコは現れた時間帯に見たい番組があると、寝ていても何があってもテレビの前に駆け寄り、番組が終わるまでその場から動かない。

 何もないときに出てくる時は、部屋の中を走り回り、跳ね、落書きをする。

 気に入らなければ泣くし、ちょっとの留守番でも大泣きする。

 同じことを何度も反復させようとし、面白ければ何十回、何百回でも同じことで笑う。

 彼女が出てくる時、我が家は一気に音に包まれる。本当に年相応のわが子がやればそれは可愛らしいですむのだろうが、何しろ目の前でそういう行動をとっているのは赤の他人で、しかも年頃の女の姿をしているのだから、可愛いという単語が脳から出る前に、奇妙だという言葉が何もかもを押しのけてしまう。

 実は彼女を拾った時、最初に出ていた人格はヒナカでもマコトでもなく、コンコだった。

 コンコは言葉をあまり知らない。状況も分からない。

 だから何故あの時、うちのマンションの前にいたのかも聞き出せないでいる。前にも言ったが、人格たちはそれぞれの記憶を共有しない。

 だからヒナカやマコトに聞いたところで分かりはしない。

 分かったところで私ができることは、警察に捜索願が出ていないか調べることぐらいだろう。

 前に一度警察に届けようとしたことはあった。しかしヒナカは心配いらないと言い、事件性も何もないと私に必死に訴えた。あまりにも熱心なものだから、その時私はつい折れてしまい、そして家事全般を引き受けてくれるなら面倒をみようと思ってしまっていたのだ。

 下手をすれば私は誘拐と監禁容疑で即日お縄だ。

 私がどうしようか迷っている間に日は過ぎ、今日に至っている。


「ねえー!」


 番組が終わったらしく、画面から視線を外したコンコは私に言った。


「おなかすいた」


 そういえば今日は寝てばかりで何も食べていないことに私は気が付いた。


「そうだな。今日は何も食べてないな。よしじゃあコンコ。何が食べたい」


「ぴざーぱすたーぴざー」


 コンコは歌いながらその場で軽快に跳ねながら歌い出した。よくわからないが、子供番組の歌か何かだろうか。それとも自作か。それは良いが、早く決めてしまわないとコンコの歌声は少しずつ大きくなっている。このまま行けば近所迷惑にもなりかねない。

 ピザか――。

 私は腕を組んだ。

 ヒナカが家事をするようになって、私は店屋物を頼まなくなっていた。というよりヒナカがそういうのを好まず、自炊で安く済ませる方向に進めようとする。

 ありがたいが、私だってたまにはそういうのも食べてみたいものだ。居酒屋の飯とはまた違うワクワク感が店屋物にはあると、私は常々仕事の担当にも言い続けている。生来そういうものが好きなのだ。

 幸い、今出ているコンコは何もわからない。賭けになるが、食べ終わるまでヒナカが出てこなければ、小言を言われることはないだろう。


「よし、ピザだ。どうせなら大盛りでいくぞ」


「大盛り? 大盛りないよ」


「店に持って行けばもう1枚タダって書いてあるチラシがここに……あった。コンコ君、何を食うかね?」


 私はこっそり作業机に忍ばせていたクーポン付のチラシをコンコに見せた。


「えーっと、これとー。これとー……あとこれとー」


 コンコは思いつくままに指を指す。

 2枚と言ったが、伝わらなかったのか、まだ数の概念がないのか。


「これとこれは辛そうだし……これは味が濃そうだから……じゃあ歩きながら考えますか」


「おんぶ!」


 コンコは私にせがむ。しかしどう考えても、大人の女性を背負って歩くには不自然な時間であるし、その上マンションのエントランスを出るまでに、私の体力が持ちそうになかった。


「歩いて行かないと、ピザが買えないんだ」


 そう嘘をつき、泣き叫びそうになっているコンコをなんとなく笑わせながら、外へと連れ出した。

 エントランスまで、誰とも合わなかった。

 日曜だからというわけでもなく、普段からマンションの通路や入り口では殆ど住人や近隣の人たちと会う機会がないので、妙な噂が立つことはない。

 ないと思いたい。

 そういう話があるなら、今すぐにでも然るべきところにヒナカを返すべきだろう。そもそもなぜ私が見ず知らずの彼女に義理立てしているのかが分からない。確かに雨宿りで止めたし、なんとなく猫でも飼うようにうちで置いてはいるものの、本体であるヒナカは帰る場所も知っている筈なのだ。

 もしかしたら本当の家族が待っているかもしれない。どこかで今も探し続けている人がいるかもしれない。


 ――しかし、彼女は何も答えてくれない。


 そろそろこれからどうするかを真面目に考えなければ、私やヒナカだけではなく、その周りの人間にも迷惑がかかってしまう。いやもうかけてしまっているのかもしれない。であるならば私は尚の事その迷惑というのを最小限に抑えるために動かなければならないのだろう。

 やはり次にヒナカが出てきたとき、じっくり話すべきなのだろう。

 それより今は飯だ。コンコがぐずらないようにピザ屋まで行き、戻って飯を食って寝かせることが、目先のミッションである。私は隣で元気よく振り回す彼女の手を少しだけ強く握った。

 商店街の外れにピザ屋はあった。歩いて10分がこんなにあっという間だったことはそうそうなかった。日が長くなったとはいえ、空はもうすっかり夜に片足を突っ込んでおり、それを察した街灯が、ぽつぽつと点灯を始めていた。


「うわっ! 何やってんだよお前!」


 急に繋いでいた手を振りほどかれた。

 私は彼女を見る。そこにはコンコであった筈の女が飛び退きながら、手を自らの服で拭っている。

 声の低さと言い方から察するに、人格はマコトに入れ替わったようだ。


「何って、さっきまで居たのがコンコだったのだよ。迷子になるかもと思ったから手をつないでいたのだ」


「うわ、このロリコン、変態」


「どうしてそうポンポンと、人を貶める単語が出てくるのだ」


「コンコを連れ出してどうするつもりだったんだ。この変態おやじ」


「連れ出してどうするってお前、私は夕食を買いに来たのだ」


 私はあと十数メートルという地点で明々としたピザ屋の看板を指差した。


「は、何? 俺がいない時に、なんでピザとか買おうとしてんの?」


「コンコが食べたいって、そう言っていたからだ」


「俺が食べたいって時には、買ってくれなかったくせに」


「お前はお兄さんだろ。我慢しなさい」


「父親面するんじゃねーよ。ママが出てきて怒られろ」


「13にもなってママに頼るのはどうかと思うぜ。それにヒナカが出てきたら、お前はピザにありつけないわけだが」


「……うぜー」


「ああそう、じゃあこの親父が1人で食べるからいいよ。折角好きなもの1枚頼んでいいって話をしようとしていたのにな」


「……照り焼きチキンスペシャル」


「は?」


「照り焼きチキンスペシャル! 早く買いにいくぞクソジジイ」


 マコトは肩で風を切りながら、ピザ屋へ歩いて行った。

 なんだ今の態度は……。

 そうこう考えているうちに私の腹の虫がも猛烈に鳴り響いた。私はマコトの後を追うように店へと向かった。     


「なあ、お前さ」


 2枚目のピザ4切れ目に手を伸ばしながら、マコトは言った。声は私にかけているものの、その視線はテレビのバラエティー番組から逸らそうともしていなかった。


「なんだ」


「その……ママとさ……」


「だからなんだ」


「いや、いい」


「なんだよ、奥歯に挟まった言い方すると、気になるものだぞ」


 私は3缶目のビールを飲み干し、テーブルに空き缶を置いた。


「……いちいち食いついてんじゃねえよ」


「じゃあ言うなよ」


「ママとさ、その……一緒になるとかさ……そういういうの考えたりとかしてんの?」


「なんだお前、そんな事考えていたのか」


「はぁ? なんで上から目線なんだよ。お前はどう考えてんのかって聞いてんだろ。俺にも分かるぜ、今のこの生活がちょっとしたことで破たんしそうになってるの。それじゃママが可哀相だからな、あえて苦言を呈してやる」


 マコトは1切れを丸めて一気に口に押し込んだ。


「このままだと、お前も俺たちも共倒れだ。お前の事は嫌いだけど、ここの生活はまぁ気に入ってる。だがそれじゃ駄目なんだろ? 何があっても、お前はママを1人の女として離さないのか? それとも明日からも同じように、ペット感覚でママといるのか?」


 ませたことをいうガキだ。私はそう思った。


「人を何も考えてない莫迦みたいにいうんじゃあない。ちゃんと考えているさ」


「じゃあ聞かせてくれよ。これは『俺の問題』でもあるんだ」


 マコトはピザの箱を隅によけ、体をこちらに乗り出してきた。


「ほら、覚悟を聞かせてくれよ。そうすりゃ俺たちは……」


 ああ、聞かせてやろう。私の覚悟を。もう決心はついているのさ。

 私の答えはこうだ。

 それは口を開くと同時だった。

 私は猛烈な眠気に襲われ、あたりは忽ち白い霞の向こう側へ姿を消していってしまった。マコトに話している筈の私の声も聞こえず、いつしか目の前は真っ白に染まってしまった。


     *


 気が付くと私は見知らぬ部屋で仰向けに眠っていた。

 腕には点滴の管が刺さり、口には酸素吸入の為のマスクがかぶせられている。体は非常に重く感じられた。

 部屋にこんなものはない。この見慣れない天井。視界に入る淡い色のカーテン。消毒された潔癖な匂い。

 どうやら病院のベッドの様だ、

 右側に人の気配を感じ頭を動かすと、そこには仕事の担当であるスギモト女史が、パイプ椅子に腰かけ、こちらを伺っていた。


「おはようございます先生。気分はいかがですか?」


「ああ、スギモトさん。どうも。あの、何故私は点滴をされているのです?」


「ああ、やっと私の名前を思い出してくれたんですね。ここは区内の病院です。びっくりしましたよ。もう数週間も前ですけど、依頼したものを受け取りに言ったら、部屋が荒らされた中で倒れてらして」


 部屋が荒らされていた? 

 何の話だろうか。それに数週間だって?

 私は目の前が真っ白になってから、そんなに眠っていたのか。


「数週間? 今は……何日です?」


 私は彼女に聞いた。


「5月12日の、月曜日ですよ」


 5月12日だって? おかしなことを言う、数週間前どころか昨日の日付ではないか。


「だって君、私は昨日確かに――」


「もう何日も、眠ったり起きたりだったんです。たまたま起きてらした時も私の名前を忘れちゃっていたみたいで」


「いやそんな筈はない。だって私は昨日、二日酔いで明け方帰宅して1日部屋にいたんでです。そんなに経っているとはとても」


「お疲れだったのでしょう。暫く静養されては?」


そうだヒナカ……。ヒナカ達はどうなっている。


「ヒナカは……スギモトさんが部屋に来たとき、その……うちに女性がひとりいませんでしたか? こう、長い黒髪で色が白い――」


 彼女は怪訝そうな顔をする


「女性? また連れこんでらしたんですか? ああいえ、立ち入ったことを聞くわけではありませんけど。伺った時には誰もいませんでした」


 誰もいない?

 そんな筈はないだろう。少なくとも私はずっと部屋にいて、ヒナカを名乗る女も一緒にいた筈だ。


「そういえば、ヒナカってなんです? 別件のキャラクターか何かですか?」


「あ、いえ。私の家に数日間居候してまして。なんというか、そういう人がいるんです」


「ですから、先生はここで数週間前から眠っているんです。それに……」


「それになんです」


「お見舞いに伺うたびに、先生はそう名乗られていました。私を見るなり、先生は気が違ったように、手近にある物を投げたり大声を張り上げたり。別の日に改めると、今度は小さい子みたいな受け答えしかできていなくて……覚えていらっしゃらないのですか?」


「いや、まさか君、そんな……」


「兎に角、元にもどられたようで何よりです。またお伺いしますね」


 スギモト女史は立ち上がり頭を下げると、部屋を出て行った。

 狭い個室に取り残された私は、頭がどうにかなりそうだった。

 数週間私はここで寝たり起きたりしていただって?

 私は確かにヒナカ達と5月11日の日曜日を過ごしていた。何かの間違いなのか?

 私がおかしいのか?

 そうだ、彼女はどうしている? 


 私は力なく起き上がり、携帯を探した。

 しかし、私物はこの部屋になかった。


 ――ひとまずヒナカに連絡をとらねば。


 私は家の電話に連絡をすべく、ナースステーションへと歩いた。

 数週間寝ていたというのは、あながち嘘では無い様だ。足はすっかり細くなり、体を支えているだけで精一杯。歩くたびに体重に地球の重力が加わり、次の一歩が踏み出せない。

 かなり筋力を削がれてしまっている。

 これではいつまで経っても、電話をかけられそうな場所へ行けないではないか。


 その時だった。

 私は確かにその声を聴いた。

 あの、昨日まで聞いていた女の声だ。

 私は辺りを見回すが、それらしい姿は見えなかった。しかし、耳を澄まさずともその声が聞こえてくる。ヒナカ、マコト、コンコの声が頭の中に聞こえてくる。

 どこにいるというのだ。私に何が起こっているというのだ。

 私の神経はその声と共に削られていき、再び辺りは白い霞の中へと姿を隠していくのだった。

   

     *


 ヒナカという多重人格の女は現実にいない。

 どうも私が長い事眠っている間に見た夢だったようだ。近年働きづめで、心身共に異常をきたしていたのだろう。そのせいで雨の日に女を拾い囲うなどという妄想に憑りつかれたのだ。そう思う事にした。


 ほどなく退院して仕事にも復帰できた私は、またひとり自宅に篭り、作業をしている。仕事が減ったので収入は少し減ったものの、のんびりと暮らしている。

 困っていることがあるとするなら、最近少し物忘れというより、ある一定期間の記憶がすっぽり抜ける時があり、気が付いたら飯の準備が出来ていたり、部屋が散らかっていたり壁や家具に落書きをしていたりすることがある。

 仕事の事や細かい部分は忘れないのに、その一定の時間がどうしても思い出せない。

 若年性痴呆にでもなっているのではないかと、私はつくづく危惧している。


                                  〈了〉

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