第2話 絶対に働きたくない、というワケではないんですよ?
まずは言われた通り、石畳で舗装された宿舎への道を進む。
周辺の木々は陽光を適度に遮り、心地よいそよ風に乗って小鳥の囀りも聞こえる。
……平和だなぁ。こんなほのぼのした空気感をゆっくりと味わうのなんていつ以来だろう。
日本社会で生活してたらきっと死ぬまで味わえなかっただろうなぁ……や、まぁ、今自分実質死んでるような状況ですが。
シャロムさん曰く現状は宿舎も定員オーバー寸前という状況らしいので、今日の所は一旦相部屋になるそうだ。
僕のようなコミュ障は誰かとうまくやっていくのなんてまず無理なので、一人部屋希望だったんだけど……
こっちもやっぱり『空きが出たら移動できるよう手配しますね』と言われてしまった。
まぁ、日本はどこもかしこも待ってナンボみたいな風潮あるから慣れてしまったけども、
決して待つことが好きなワケではないんだよなぁ……と心の愚痴が多くなってしまってるのは置かれた現状が前世と大差ない所為だと思いたい。
何か少しくらいラッキーなことでも起きないかな……とか考えているうちに宿舎に到着した。
西洋風の外観がお洒落な建物で、門周辺の綺麗に手入れされた薔薇の花壇が迎えてくれる。
シンプルに心が洗われるし、薔薇の香りが心に安らぎをくれる。ちょっとテンションあがるな、これ。
シャロムさんに言われた通り端末を提示して手続きをしてもらう。
受付の美形なお兄さんが滞りなく進めてくれて、部屋番号を教えてくれる。話によれば今日の所はルームシェア希望の子の部屋で一泊とのことだ。
お互い気に入ったら継続していいし、やっぱ合わないなと思ったら一人部屋があくまで転々としていいらしい。
こういう『やってみてダメだったら別チャレンジ』を許容する世界って本当の優しさだと思うんだよ、うん。
勿論うまく行くこともあるけど、一発で正解を引ける人の方が少ないんですよ希少種ですよ。
それに対して何も助言も手伝いも一切しなかかったくせに後出しジャンケンで文句やら叱責やらパワハラやらしてくる人種は須らく滅べばいいと思います。
滅べばいいと思います!!
あぁダメだ、薔薇に癒してもらったのにまだ愚痴っぽいな、前世の嫌なことはもう忘れよう。そんな記憶こそトラックに衝突して原型も無いくらい……うん、自傷行為みたいな発言やめよう。
気を取り直して。
今対応してくれた受付の人や、シャロムさんやディアナさんもそうだけど、この世界(という表現でいいのかな)で働いている人達ってどういうポジションなんだろう。
僕達転生待ちの不安定な状態の、自分で言うけど魂的な存在の人達が生活する世界で仕事をしているのって、生活やお給料の為ではないだろうし。
そもそも働きたくない人が過ごすための世界で働かなきゃいけないって辛くないのかな。今度聞いてみようか……触れていい話題かどうか判らないけど。
かといってここに滞在できるってことは所謂『一般的な人間』ともきっと違う存在だよね?
……なんてウダウダ余計なことを考えていたのがいけなかったのかもしれない。
今日お世話になる部屋が先客のいらっしゃる相部屋だということもすっかり忘れて、僕はノックもせずに受付で貰った合鍵でドアを開けてしまった。
「……え?」
小柄な体型と鈴のなるような可愛らしい声。……あ、実際鈴付きのチョーカーから鈴鳴ってたわ、声も可愛いけど。
ツーサイドアップの綺麗な黒髪が何となく猫の耳みたいに見える、可愛い子が手にゴシックなワンピースを持った状態で上半身を露にしていた。
「……えーと、すみません」
確かに先ほど『何か少しくらいラッキーなことでも起きないかな』とは言いましたが、あまりにもベタな展開じゃないですかねこれ。
硬直してないでさっさと出て行ってドアを閉めるべきだったんだろうけど、予想外の事態が起こると人間の身体って思った以上に硬直するんですよね。
お互いしばし硬直した後、目の前の子は匂いを確認するように鼻をピスピスとさせる。
少し考えたようなそぶりを見せて、懐っこそうな声で僕に近づいてきた。
「もしかしてルームシェアの人かなー?鍵持ってるし、きっとそうだよね?」
「あ、はい、『
下はドロワーズだからセーフとかそういうんじゃないです、客観的にどう考えても僕がアウトです。この世界にもポリスメンは常駐していらっしゃるのでしょうか。せめてもの理性と罪悪感で後ろを向く。
「紳士さんだー、偉い偉い」
背後で衣擦れの音がシュルシュルと聞こえるのってそれはそれで……とか思ってしまいました紳士じゃなくてすみません。
「はい、服着たよー、もういいよー」
振り返ると改めてそこには小柄な黒いゴスロリ様と可愛い笑顔が僕の顔のすぐ近くに迫っていた。思わず撫でたくなるレベル。やったらただの不審者だからやらないけど。
「……撫でないの?」
「初対面でいきなり女の子撫でたら犯罪者です」
「んー、そっかぁ、ボク女の子じゃないけど撫でないの?」
「は?」
突然のカミングアウトに今一度硬直。どう見ても可愛い美少女ですが。
「受付で聞かなかった?この宿舎男性用」
「……そういえばそうですね言ってましたね。それ差し引いても初対面でどう見ても年下っぽい小さな可愛い子撫でるのは犯罪です」
可愛いのは事実なのでそこは否定しません。その容姿でイタズラ好きの猫のような笑顔はズルいと思います。
庇護欲をそそられる笑顔から出てきたのはこんな言葉だった。
「薔薇咲いてたでしょ?」
「薔薇ってそういう意味です!?」
女性用の宿舎には百合が咲いているんでしょうか。
「にゃはは、冗談冗談。ボクはノアっていうんだ、よろしくねケイ」
「あ、はい、よろしくお願いしますノアさん」
「ノアでいいよー」
初対面とは思えない懐っこさで僕に擦り寄るノアはやっぱり動物的な可愛さで。確かに生前も動物には割と好かれてたし猫飼ってもいた……生前とか言っちゃったけどもうそこは便宜上それでいいや。
コミュ障の人見知りな僕にもグイグイ来てくれるのはむしろありがたい。
ノアにこの宿舎や世界での過ごし方をざっくり聞いて資料を眺めてたら日も沈んだので、出された食事を堪能して風呂。
いいなぁ……とりあえず何もしなくても衣食住提供してもらえるのいいなぁ……日本社会もこれくらい恩恵があるなら頑張って仕事しようとか思えたのになー、でももう前世に戻れないから仕事できないなー
……すみません調子に乗りました。
明日はもう一度シャロムさんに会いに行ってみよう。
理由は勿論直談判、もうちょっとどうにかイージーモードにならないか交渉したい、頑張れネゴシエーター。
*
*
*
転生先でも現代社会とあまり変わらない生活二日目。
朝目が覚めたら何故か僕のベットに潜り込んでたノアをとりあえず引き剥がす。
「何でここで寝てるんですかねノアさんや」
「んー……あったかい……」
寝ぼけた声で伸びをして、そのまま寝続けようとするノア。警戒心無さすぎじゃないですかね大丈夫ですかね、何かもうホントまんま猫だなこの子。
そういや数年前まで飼ってた黒猫もよくベッドに潜り込んで来てたことを思い出す。あの子は僕みたいに転生待ちとかしてないで幸せに次の人生……猫生?送っているといいな。
転生後も猫に生まれ変わったのかまでは判らないけど。
とりあえず今日はシャロムさんに会いに行く旨を伝えるとノアも行くというので身支度を済ませてオフィスを訪ねる。
「ケイ、お仕事するの?」
「いや、出来れば拒否したい。可否はさておき」
世界の意志の代行者ってワケじゃないだろうし、ぶっちゃけシャロムさんに言っても拒否は出来ないんだろうな……とは思う。
軽く嘆息してエントランスを潜ろうとして、僕はハタと足を止めた。
「……どうしたの?」
小首を傾げるノア。
「ちょっと昨日の嫌な記憶が」
このエントランス潜ったら現世に戻ってトラックからのリスタートにならないよね大丈夫だよね?という不安に苛まれて意を決せずにインターホンを躊躇していると、ちょうど栗色のセミロングヘアの女性が出て来てきた所と鉢合わせた。
「あら慧さん、どうかなさいましたか?エントランスにトラウマでもありましたか?」
「……ディアナさん判ってて言ってますよね」
「様式美は大事だと思いまして」
昨日対応してくれたコーディネーターのディアナさん。彼女の笑顔に裏は無いけど若干Sっ気を感じるんだよな……殴るよりイジれみたいな。
ディアナさんはにこやかな笑顔で隣に居るノアの顔を見る。
「それで、ご用件は?彼女が出来たご報告ですか?」
「そうですケイの彼女で名前はノアって言いますよろし」
何をサラッと話を面白い方向に捻じ曲げようとするかお前。ノアを羽交い絞めにして言葉を遮る。
「あ、昨日聞きそびれたお話を聞きたくてシャロムさんに質問をば。そして彼女じゃないですルームメイトです男の娘です」
「そんな必死に否定しなくてもいいじゃんかー、ボクの部屋指定したのはディアナさん達なんだからボクのこと知ってるハズでしょ」
ふくれるノアを見てディアナさんはクスクスと笑っている。……やっぱり殴るよりイジれの人だ。
「シャロムさんも今出るところですよ。別世界の労使関係でトラブルが起こったみたいで、慧さんが拒否した『店員があだ名で呼び合う関係で笑顔を絶やさず働く酒場』に向かわなければいけないと朝から機嫌が悪そうでした」
「……『機嫌が悪そう』は余計でしてよディアナ?」
ディアナさんの言葉に反応するようにシャロムさんがしかめっ面で出てくる。……うん、凄く機嫌が悪そう。
「そういう
そこまで言ってシャロムさんは言葉を止めて考え込むと、とんでもないことを言い出した。
「……慧さん、一緒にいらして頂けます?」
「また突然斜め上の提案ですね、どうしたんですか。正直その提案は嫌な予感しかしませんが。」
「いえ、今から行く現場の店長……オーナーですわね、その方がとても前時代的な思考の持ち主で私一人ですと解決への道のりがメンド―――いえ、慧さんと親睦を深めたいと思いますの」
「本音隠す気ないのにとりあえず形だけ取り繕うのやめて貰っていいですか」
軽く嘆息する。昨日もそうだけどシャロムさん基本的に直球しか投げないんだよなぁ……
「では率直に。その方何事も怒鳴れば自分の思い通りに物事を押し通せると思っている典型的パワハラ型の経営者なので女一人で行くととかく威圧してきて話聞こうとせずイラッと致しますので男性にエスコートして頂けると助かりますの」
「一息で言い切った辺り相当面倒で頑固な相手なんだろうな、ってのは重々伝わりました」
思った以上の剛速球火の玉ストレートが来たので思わず苦笑い。
「では参りましょうか、別世界への
「ちょっと待ってくださいまだ行くとは言ってませんが」
「この流れで慧さんに拒否権があるとお思い?」
「無いでしょうね知ってました!!」
僕の絶叫を涼しい顔でスルーしてシャロムさんはスマホのような端末にサラサラっと指を滑らせてダブルタップする。
「Government Number283、シャロム・シルヴェスティア。Portal open World064、ターヴァン」
シャロムさんの声に呼応して端末からエメラルドグリーンの光が放たれ、地面に魔法陣を描き出す。
「凄く厨二心が擽られますねこれ」
「改めて言わないで頂けますか、音声認識出力に慣れるまで大変でしたの……」
何でも指紋認識や声帯認証で本人確認をするシステムらしく、僕はゲーム脳なので凄くワクワクしたのだけど詠唱する
利用人口が最も多い言語だからと端末は英語設定されたそうだが、この世界に来る魂の比率が圧倒的に日本一強で傾いているので今は既に日本語が標準語となっているらしく、確かに余計厨二感に拍車をかけている。
世界の利用言語ひっくり返す程の転生希望者数ってホント20××年代の日本闇しか無いな……
「さ、参りましょうか」
話は終わり、とシャロムさんが僕に手を差し出してくる。意図を汲み取れずに首を傾げていると隣のノアが『てちっ』と自分の手を乗せていた。……それは猫じゃない犬だ。
だけど意図には合っていたらしく、シャロムさんはノアの手をそのまま握った。
「ノアさんもいらっしゃるんですの?」
「うん、面白そうだし」
「……エンターテイメントではありませんのよ。まぁ、見ている分には面白いかもしれませんけれど」
「ほら、ケイも」
そう言ってノアが空いている方の手を僕に伸ばすので、素直に握り返す。
「ふふふ……これでボクが途中でシャロムの手を離したらボクとケイは永遠に二人きりで世界の狭間を彷徨うんだよ?」
「いきなりヤンデレになるのやめてくれる!?」
眼に影が宿ったノアの笑顔が怖い……ルームシェア解約するぞおい。
「冗談はおやめなさい、世界の狭間なんて存在しませんからもし手を離したら本来在るべき場所へ還るだけですわ」
「待って待ってそれつまり僕トラックルートに戻るってことですよね!?」
淡々と放たれたシャロムさんの言葉の方がよっぽど怖かった……
シャロムさんとノアと僕、3人が魔法陣の中に納まると『ブォン』と音が鳴って一瞬で視界が変化する。
視界の先には『笑顔屋』と書かれた看板の、これまた中世ファンタジー感漂う酒場が佇んでいた。
「……こんな一瞬で手を離す方が難しくないですか」
「そうでしょうね。ですけど申し上げたことは事実ですわよ?」
シャロムさんが真顔なので冗談ではなかったらしいけど、まぁ事故率ほぼ0%なこともまた事実だった様子。ホントこの人達いい性格してるよ……
「まぁ、慧さんの初仕事ですから。緊張をほぐそうと私なりのジョークをご用意したまでですわ」
「お気持ちはありがたく受け取りますけど次はもうちょっとブラック度薄めでお願いします……」
素敵な笑顔で誤魔化すシャロムさんは何事も無かったかのように店のドアをノックして中へ入る。
「ごめんくださいませ、お約束していた監査官のものですわ」
一瞬で毅然とした態度に切り替わるこの人のメンタルを見習いたいを場違いな事を考えていた僕を最初に迎えたのは怒号というか罵声だった。
「あぁん!?こっちは約束なんざしてねぇんだよ帰れ!!」
声の主は体躯のいい筋肉質の男性。隻眼でその眼をはじめ身体のあちこちに傷があり、いかにも『昔前衛職やってましたけど無茶なこと沢山やって引退しましたー』って雰囲気の強面だった。
……これ僕が居ても何も変わらないというか何の役にも立たなくないですか。ボディーガード的役割なんか絶対無理ですけど。
「いきなりご挨拶ですわね……生憎ですがこちらもお仕事ですので。Labor Standards Act」
魔法陣を出現させた時と同じようにシャロムさんが詠唱して端末をタップすると、店主の眼前の何もなかった中空に一枚のディスプレイが現れる。
書面のようなものが表示されていて、僕の位置からだと内容が記されているであろう細かい文字までは見えないけど、文頭に大きく拡大された『警告』の文字は見える。
「事前に同じ通知は届いているかと存じますが改めて。『笑顔屋』さん、労○基○法第37条違反の疑いで監査を行います。そちらにもある通り、必要手続きがなされなかったので通知通りの日時にお邪魔致しましたわ」
「あぁ!?頼んでねぇよ不法侵入で訴えるぞコルァ!!怪我したくなかったらとっとと帰りやがれ!!!」
店主は強面を更に歪めて、小さい子だったら泣くかひきつけを起こすかレベルの表情を見せるが、シャロムさんは冷たい笑顔で吐き捨てる。
「不法侵入で訴える?恐喝の宣言までした法律の『ほ』の字も知らなそうなその顔にそんな言葉似合いませんわよ小賢しい、残念ながら法令で定められている強制監査ですの。告訴したければ止めませんけど恥をおかきになるだけでしてよ?」
……すみません僕は正直眼前のマッチョさんよりシャロンさんの方がメッチャ怖いです。
「再三にわたる証拠提出の勧告を無視し続けたのはそちらですからね笑顔屋さん。『笑顔屋』、素敵なネーミングセンスですわね。貴方一人だけが儲けて自分だけ笑顔になる為のお店ですものね。素敵すぎてネーブルがティーを沸かしますわ」
「……っ!このクソアマぁ!!」
駄目ですよシャロンさん、こんな見るからに煽り耐性無さそうな人煽っちゃ……『シャロムっていう女の監査員の態度が最悪だった』とかクチコミに書かれますよ?
「従業員に給料くらい払ってるに決まってんだろ!何が悪ぃのか言ってみろよコルァ!!」
「『コルァ!!』しか言えないんですの?オラついても何も解決しないのですから面倒な真似はやめて頂けませんこと?」
期待を裏切らず短気な店主さんと、嫌悪感丸出しの火の玉ストレートの使い手シャロムさん。うん、多分世界中で最も相性が悪い2人だろうなこれ……
「私『金払ったら何してもいい』って考え方が死ぬほど嫌いなんですの。そして払った金額が足りてないからわざわざ私が来るハメになるんですのよ、判ります?おクソ野郎。無礼はお許しくださいね、初対面をクソアマ呼ばわりする相手にはおクソ野郎で充分かと思いますので」
うわぁシャロムさん滅茶苦茶怒ってる……なんて考えてたらシャロムさんを掴もうとしたのか、店主の左手が実質左フックと変わらない勢いで飛んできたのをシャロムさんがバックステップで華麗にスウェーしていた。
あの、ホント僕を連れて来た意味を後で教えてもらっていいですか。
「おー……シャロム選手凄いです、完全に読んでましたね解説のケイさん?」
「お前はいつから実況になったんだノア……」
この状況を楽しんで茶化せるそのメンタル分けてくれ。
「……素直にお話を聞いてくださるのでしたら今の
シャロムさんがどうも只者では無さそうな雰囲気を察したのか、店主は舌打ちしてドカッと椅子に座る。
「ご協力、感謝致しますわ」
そんな店主の傲岸不遜な態度に対して、スカートの端を持ち上げ淑女のお辞儀で応えるシャロムさん。
格好良いなぁ……と思ってたら、店主は気付かなかった様子だけど持ち上げたスカートから一瞬覗いたシャロムさんの脚が少し震えていた。
あ、実は恐かったんですね全然判りませんでした……
「では本題に入りましょう。慧さん、こちら読み上げて頂けますか?」
そう言うとシャロムさんはまた端末を操作して、今度は僕の手元にディスプレイを出現させた。
よくよく注意深く聞かないと判らない程度に声も震えている。もしかしてこの状況を予測して読み手に僕を連れてきたんだろうか。
恐がってるのを悟られたら
そう思うと代読くらい僕がやろうという気も湧いてくる。今までの人生において上司にしたい人ナンバー1かもしれない。
いやまぁ、ブラック企業にしか務めたこと無いんで比較対象にすること自体がシャロムさんに申し訳ないけど。
読み上げていくと、この店で働いていたとある従業員の時間外労働の記録と、それに基づいた支払われるべき賃金の明細、そして実際に支払われた金額との乖離について記されている。
つまり要約すると『働かせすぎ』と『残業代が支払われてない』という内容が判りやすく纏められている。休みは週に1回で月26回出勤、月の総労働時間が250時間を超えているのに支払われているのは基本給のみ。
あ、僕の前職より多少マシかな……自分で言ってて涙出そうになってきたわはははっ
「ケイ?何か顔が引き攣ってるよ?」
「それはそうでしょう。こんな勤務実態を見たらヒいてしまうのも無理ありませんわ」
すみません僕それ体験してました引き攣ったのはトラウマが蘇ったからで内容自体にはあんまり驚きませんでした。ノアの心配そうな顔とシャロムさんの悲痛な表情に何故か申し訳なさを感じるので黙っておこう。
「最低週1回休み取らせりゃいいって書いてたぞ!?何が悪いんだ!!」
「……頭じゃない?」
ノア、煽るのやめなさい。ほら店主さん\ガタッ!/ってなってるから立ち上がるから。ほら、シャロムさん冷静を装って咳払いしてるけど目がちょっと怖がってる。店主さんもシャロムさんの咳払いで渋々座り直してるけども危ないから煽るのやめなさい。
「確かにその記述はありますが前後関係を読まずにその一ヶ所だけを切り取って都合の良いように自己解釈してはいけません。そもそも笑顔屋さん、時間外労働に関する届出も提出されておりませんでしたから本来だと時間外労働すること自体が認められていませんの」
異世界でまで日本社会の労働問題を聞くことになるとは思わなかったなぁ……そもそも何でこの世界の法律が日本基準なんだろうって疑問はそのうち聞いてみようと思う。
僕のそんな疑問はとりあえず置いておいて、シャロムさんの話の続きを聞く態勢になる。
「所定8時間労働の勤務形態で週1回休みとするならば必然的に週40時間は越えてしまうのですから、時間外労働には所謂3・6協定の届出が必要です……そもそも1日で8時間以上働かせているのでその時点でまず時間外が発生致しますけれど。まぁ年中無休の営業形態ですから月間か年間かの変形労働制を採用するのは良しとしましょう、あくまで届出がある前提ですがそこはこの際棚に上げます。その上で規定の総労働時間を超えないのであれば最低週1休でも認めるというのが本来ですの」
シャロムさんの説明が進むにつれて店主の顔がみるみる不機嫌になっていく様子がよく判る。
そうなんですよね、この手のタイプの人って自分の思い通りの状況以外は受け付けない人多いですよね判ります、僕の元上司もそうでした。
「そんなこと言われても忙しいんだから仕方ねぇだろう、客が来たら働くのは従業員なんだから当然だ」
「えぇそれはそうでしょう、労働を提供する契約を結んだのですから債務が発生致しますわね、そこは否定致しません。忙しいことも勿論あるでしょうし対応しなければいけないのは確かです。問題なのは『従業員として雇用契約を結んでいる』のに『その働かせざるを得なかった分』をきちんと支払っていない点ですわ」
(店主さん論旨の差し替えを試みようとしたようですがシャロムさん、これも読み切っていました見事なディフェンスです)
ノアが表情だけでそう伝えてくる。……何かノアの言いたいことは大体表情で判るんだよな、何でだろう。
「月であれば平均して40時間……具体的には40割る7にその月の暦日数をかけた時間ですわね、年ならば2085時間が変形労働の上限ですの。それを超えればお給料の割増が発生しますのでそこが未払いになっていますし、勤務実態を拝見致しますと深夜の労働時間も発生しておりましたのでそちらの割増も必要ですわね。そもそも過労死ラインの労働時間を超えているのでそれ以前の問題にはなりますが……」
最早ツッコミどころしかない、と言わんばかりのシャロムさんの波状攻撃に店主の苛立ちがマックスになっているのが手に取るように判る。
攻撃っていうかまぁ正論なんですけど正論って時として何よりも痛いですからね、だからって同情する気にはならないです、はい。
「そんなこと言ったら経営なんて回らねぇんだよ!働き口が無くなったら困るのは
うわぁ出た出た典型的逆ギレ。それで精神壊す方がよっぽど困るんですよ
……すみませんトラウマが。
そんな店主の逆ギレに対して、シャロムさんは満面の笑顔を見せる。まるでその言葉を待っていたと言わんばかりに。
「えぇ、ですから従業員さんの肩を持つだけではいけないと思い、双方のお話を聞こうとまずは勤務実態の証拠を提出してくださいとお願い致しましたの。お作りした資料は従業員さんの証言だけを元に作成したデータですから、実際にお店の方で管理していた実態を教えて頂きたいと何度もお願いしたにも関わらず提出頂けないというのは後ろめたい何かがある、という疑いが強まるのではありませんこと?それとも管理しているものが『何も無い』のでしょうか?それでは提出のしようがありませんものね」
シャロムさんの指摘は完全に正鵠を射ったようで店主が動揺を見せた。あー、これ完全にタイムカード作ってないヤツですね判ります。真っ黒です。ですがそこで手を緩めるシャロムさんではありません。
「支払えない、というのであれば先ほど仰った『客が来たら働くのは従業員なんだから当然』に問題が発生しますわね。労働を提供した事実がある以上、対価として相応分を支払わないのは違法ですから今度は使用者が契約の不履行となりますので契約を反故にされても文句を言う資格はありません。現にその従業員の方は『転生した先もブラックだった……来世にかけよう』と心を病んでしまわれましたし無理な労働が祟って身体も壊されてしまいました。現在はフェアリーの療養所で休まれています、こんなこと冗談でも笑えません。支払えないのならば潰れてしまえ……なんて暴論を言うと先程の貴方の発言と同レベルになりますから申し上げませんが、個人的には許しがたい案件ですわね」
これで話は終わり、と肩を竦めて大きく嘆息するシャロムさんは再度端末をどんどんタップして行く。すると出現した光が収束して鳥の形になる……どうしてこうも厨二心をくすぐる演出なんですかね。
「その方以外からもお話は伺っておりますのでそちらもお聞きしようかと思いましたが……その必要はありませんわね、今のお話は然るべき機関に送らせて頂きますのでそのうち支払命令が来ると思いますわ。払えないのあれば差し押さえ等も発生する可能性が生じますので」
『差し押さえ』の言葉に反応し、店主の態度が一転する。
「ま、待ってくれ!差し押さえって貯蓄とか全部持ってかれるってことか!?ホントに店が潰れちまう!!どうしようもならねぇのか!?」
そんな態度を見てシャロムさんは心底呆れた表情を見せた。
「……そうやって貴方に直談判した従業員の気持ち、判りますか?『このままだと身体も心も壊す』って意を決して退職を申し出たのに突っぱねられてどうしようも無くなって、正常な判断が出来なくなって追い込まれて悲しい結末を辿ってしまった方が実際にいらっしゃったんです。人の心を蔑ろにした罪は重いのではないでしょうか?」
「……っ」
「貴方を裁く権利は私にはありません、私はただ真実を究明してジャッジを機関に委ねるだけです。後はそちらからの連絡をお待ちください。それではごきげんよう」
そう言って再度スカートの端を持ちお辞儀をするシャロムさんの手は震えていて。店の外に向かって歩む脚も震えていて。扉を閉めた手もやっぱり震えていて。
その時僕はようやっと、シャロムさんが震えていたのは恐怖から来たものじゃないことを理解した。
「シャロムさん……」
「……笑ってくれてもいいんですのよ?啖呵切って乗り込んで喧嘩腰に問い詰めたって旅立った方は戻ってきませんし、悔しいですけどあの人の言う通り職場が無くなって困る方も出るでしょう、正論をぶつけた所で幸せになる人は誰もいないのです。何なのでしょうね私の存在って……私が動いたって誰一人救えないんですよ、全て事後ですから。嫌になるに決まっているではありませんか、転生しようとして転生した先でまでこんな無力感を味わうなんて」
シャロムさんの悲しげな表情がさっきまでの毅然とした態度が嘘のように弱々しくて。あの時の僕の絶望によく似ていて。
―――それで、察してしまった。思わず声にしてしまった程度には理解してしまった。
「シャロムさんも、もしかして……いえ、この世界に滞在しているってことはそうなんですよねきっと」
「……『君のような察しのいいガキは嫌いだよ』と言っておけば答えになりますでしょうか?」
充分だった。昨日も言っていたな『前世の職業病』って。シャロムさんは前世でもきっとこういう労働の法律に携わる仕事をしていたんだろうし、多忙で正常な判断力を失った上に自分の仕事が誰の幸せにもならないと思ってしまって、耐えきれなかったんだろう。
僕らの気持ちが誰よりも判ってしまうが故に、優しすぎるこの人はこの世界でこの立場になることを拒み切れなかったんじゃないだろうか。
「少なくとも……僕は救われましたよ?対価無しで衣食住確保して貰いましたから」
暗くなりそうな雰囲気を吹き飛ばそうと冗談っぽく笑ってみる……ガラじゃないのは百も承知。
「じゃあ今度は対価頂きますわね、そのうちまた現場に同行して頂きますわ」
「うっ……はい」
断るに断れない状況になったけど仕方ない。
「にゃはは、ケイは優しいから巻き込まれる一方だ」
「あー……うん」
隣で笑うノアの表情を見て僕の脳裏にとある予感が走る。……いや、ほぼ確信だなこれ。一応先にシャロムさんに聞いてみる。
「ちなみにシャロムさん、ノアのことって知ってます?僕みたいに、最初にここに来た時ノアと話をしたんですよね?」
「この仕事をしているのは私一人ではありませんので偶然の一致ではありますが……ノアさんを担当したのは私ですわね」
……すみません決めつけました、結果オーライですが。
「本人が居る横で言うのも何ですし本人に聞けよって話でもあるんですが、僕前世で猫を飼ってまして」
「あれ、もう核心に迫っちゃう?」
横から本人が入ってくる。そりゃそうだよな。首元を撫でてやるとノアは気持ちよさそうに目を細める。
「雄の黒猫で、安直ですけどノワールって名前つけたんですよ。黒猫だったので」
ノアが最初匂いを確認してたのも、その後懐っこかったのもそりゃ頷ける話だし、そもそも『ノア』って言ってる時点で気付いてもよかったんだ。スペルはどっちも『noir』なんだから。
シャロムさんもそうってことは、ノアもきっとそうだろう。僕みたいにトラックじゃなくて病気が原因だったんだけど。
「……ノワールさんはとてもレアなケースでしたので迷いましたね、正直。最終的には私が単に猫好きという理由で職権乱用の上で一部屋確保致しましたが」
「あの頃のシャロムはこっちが心配になるくらい疲れた顔してたもんねー、猫に癒しを求めないとどうしようも無いくらい追い込まれた顔してた」
「あんまり笑い事じゃないです、それ……」
苦労人シャロムさん、まさかの猫と飼い主両方の転生担当。
「それでも当時よりはまだマトモになった方ですのよ?今はディアナもいますし……ここで長話も何ですからまずは帰りましょうか。」
そう言うとシャロムさんは端末から魔法陣を出現させ、僕らの手を取った。
「多分ディアナのことですから、私がまた凹んで帰ってくると察して何か美味しいものでも用意してくれてるでしょう。あの子も前世では苦労していたようですから」
……そうだよな、この世界に留まってるってことはディアナさんもつまりそういうことだよな。
当初抱いていた『どうにかイージーモードにならないかな』なんて気持ちはすっかり何処かに飛んで行ってしまっていた。
この人達となら一緒に働いてみたい……そんな気持ちに、……なれるかはもうちょっと考えさせてください。
いや、人間関係は多分これ以上無いくらい最高の環境になりそうな気はしますが、現場仕事のハードさに耐えられる自信無いです。
今日のシャロムさんの雄姿を見て、そんなことを思ったのだった。
(第2話 『絶対に働きたくない、というワケではないんですよ?』 終)
※本編中の法律はあくまで作者個人が解釈したものであり、実際の運用とは異なる可能性がございます。悪しからずご了承願います。
明日使えない労務のイロハ! ~転生する前に知りたかったお話~ 佐椋 岬(サクラ ミサキ) @citrus-to-283
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