第8話◾︎慈悲深いお方のお言葉だが?


 さて今日も今日とて仕事に励む。掃除道具を担いでニックを連れ、今日は二階のホールとテラスを担当する予定だった。


「……来ねぇな」


 ニックが、来ない。

 掃除道具を運ぶ時に来ないのはたまにある。運ぶのが嫌で俺に押し付けようとしている日だ。

 けれど運び終わってホールで待っていてもニックは現れなかった。これはおかしい。首を捻る。


 体調不良ならすぐに伝わるはずだし、代わりの奴が来るはずだ。けれどどれも無い。

 モップの柄にガツガツと拳をぶつけ、片手で懐中時計を睨んだ。

 五分待ち、十分待ち、二十分で我慢の限界が来た。


 掃除道具をその場に残し、ガツガツと荒い靴音を立てて使用人部屋へ向かう。


「おいニック!」


 ドアを開けると、ドアのすぐ真横に立っていたニックがぎょっと目を剥いて振り返った。


「わ、ストップ、待てディー戻れ!」

「はあ? お前なあ……!」


 わたわたとした手付きで俺をドアの外へ追い出そうとするニックは十二分に元気そうに見える。なんなら俺を無理に追い出そうとして、思い切り力を込めている。

 攻防は長く続かず、力負けして少しずつ俺の体が外に出た。


「お前がディーか」


 攻防を両断するように男の声が割って入る。

 悠然と近づいてきたのは見知らぬ男だった。

 凛々しい眉を寄せ、険しい顔で俺を頭からつま先までを見下ろし、舌を打つ。


「チッ、みすぼらしい下郎じゃないか」


 ……いや、誰だお前。


 そっと横のニックに視線を向けると、ニックは「あちゃあ」と言う顔で天井を仰いでいた。

 どうやら、面倒なことになってしまったらしい。


 視線を戻し、見知らぬ男を観察する。

 スッキリと整った短髪。眉の寄った気難しげな表情。涼し気な目元。曲がった薄い唇。シャープな細面。神経質そうな整った服装。

 駄目だ。全然知らない。


「え、と……失礼ですが、どなたでしょうか? 顔合わせの時にいらっしゃらなかったように思うのですが……」

「ふゥン? 記憶力は悪くないらしい。……ああ、これが初対面で合っている」

「ああ、そうでしたか。ディーと申します。よろしくお願いします」


 手を差し出すと、男は片眉を上げた。

 なんだこれは、と言いたげな顔だった。


「ええと、握手を……」

「ああ」


 男はつまらなさそうな顔で見せつけるように革手袋をはめると、ちょんと僅かに手に触れ、すぐに離れた。

 五秒も経っていない一瞬の握手だった。


「俺はエドガー。聞けば旦那様の紹介でこの屋敷に転がり込んで来たらしいが……」


 エドガーはビッと額を弾くように中指の爪で仮面を叩いた。


「顔を隠す使用人なんて聞いたことがない」

「エドガー、訳は話しただろ。旦那様のご命令で仮面を付けているんだ。何度も言わせるなよ」

「ニック。お前には聞いてない」


 睨まれたニックは顔を歪めて「お前は旦那様の話以外は何も聞かねーだろ……」とぼやく。

 どうやら相当面倒な男のようだ。頭痛を覚えながらどうやり過ごすか思案する。


「……下賎な男め」

「……どうやら、嫌われてしまったようですね。残念です」

「ハ、思ってもないことを言うんだな」


 社交辞令だよ間抜け。

 苛立ちのあまり頬が引き攣る。遠回りな嫌味を言うのは苦手だ。ストレートに罵倒する方が分かりやすくていい。

 けれど悪目立ちはしてはいけない。大人しくするべきだ。もどかしくって、思わず歯噛みする。


「誰の差し金でここへ来たかは知らないが、俺はお前を信用しない」

「はぁ、どうぞ、お好きに? 私は貴方の信用でここで働いている訳では無いので」

「……図に乗るなよ鼠」


 ガ、と内側から右足を引っ掛けられた。バランスを崩した俺は訳も分からぬまま転倒する。

 なんとか受け身は取ったが、痛いものは痛い。


 丁寧な口調を取っぱらい、「何しやがる」と叫ぼうとしたところで――思い切り殴られた。


「ディー!」


 ガツ!


 一度目は仮面が衝撃を受けた。グワンと仮面が衝撃を響かせ、頭を震わせる。

 弾みで外れた仮面を気にせず、エドガーはまた拳を振りかぶった。


「忌々しい顔だ」


 ――ゴツッ!


 二度目は、頬骨と拳の骨がぶつかる、嫌な音がした。

 奥歯が揺れ、目が上を向く。ガンと後頭部が強かに床に打ち付けられる。

 頬を抉るように殴ったエドガーは、やはりつまらなさそうに溜息を零した。


「いいか。旦那様は慈悲深いお方だから貴様は見逃されているだけだ。どれだけ周りの間抜けが貴様を信用しようとも……俺は貴様を疑い続ける。覚えておけ」


 床に転がる仮面にベッと唾を吐きかけ、エドガーは部屋を出ていく。

 出て行った瞬間、ニックが俺に飛びついた。


「おい大丈夫かディー!」


 べたべたと俺の頬やら打った頭やらを触っては「エドガー……」と怒りとも落胆ともつかない声を出してドアの向こうを睨んだ。

 俺はされるがままの状態でぼーっと天井を見ていたが、次第に笑いが込み上げてきた。


「……俺、初めて"キサマ"とか言われた」

「はあ?」


 頭打って変になっちまったかな。

 そんな顔をしたニックに「馬鹿ちげぇよ」と弁明する。


「普通物語の中でしか聞かねぇよ。キサマとか。一周回って笑えるだろ」


 痛む頭を押さえたまま上半身を起こす。予想よりも効いていたのか、ぐわんと視界が揺れた。


「アイツ結構いいパンチ出すのな。護衛とかやってた?」

「アイツは旦那様一筋だよ」

「その言い方きしょ」


 ひひひ、と笑えば、ニックは眉を下げて口元を綻ばせた。強ばっていた手が緩んでいく。


 俺はこんな暴力沙汰、慣れてるけど。この屋敷にいたらそりゃあ慣れねぇよな。あのダムが統治してる屋敷なのだから。


「にしてもアイツ面白いな。キサマだぜ、キサマ。めっちゃ笑える。トドメに唾吐くとか、マジであるんだな」

「どこ気にしてんだよ」

「ひひ。あ、仮面とってくんね」

「はいよ」


 ニックは床に転がる仮面を拾うと、自分の服の袖でゴシゴシと拭いた。唾が吐きかけられたからだろう。


「そーゆーの俺がやるからいいよ。つか服汚れる」

「いや俺が気になっから」

「……そ」


 ニックはキパキパと動く。僅かに飛んだ俺の血、汚れた靴跡、俺が来る前に争ってたのか散らかる小物等を綺麗にしていく。

 痛みで鈍くしか働かない頭を抱え「ニック」と声をかける。


「ん?」

「掃除どーする」

「馬鹿? 救護室行けよ」

「薬の臭い嫌いなんだよ」

「ガキかよ」


 呆れた顔でニックはひらひらと手を振った。


「マジで救護室行けって。実は大怪我とか一番怖いから。掃除は別の奴に頼むし」

「……んー」

「渋るなよ」


 呆れた笑いを零してニックは俺の背を押す。

 確かに床に打ち付けた頭は痛むが、経験則からして大したことは無い。痛みが次第に強くなったり、吐き気がしてきたらヤバい。

 今回のは数分休めば平気で動ける、んだけどなあ。


 どこかの心配症はこの分だと俺が救護室に行くまで頑として説得を続ける気だろう。仕方ない。溜息を吐く。


「……分かったよ。行く。何も無いと思うけどな」

「グッボーイ!」

「犬扱いヤメロ」


 犬を撫でる仕草で頭を撫でようとするニックの手を避ける。

 怪我した場所に触るな、馬鹿なのか!

 睨むようにニックを見る。ニックは口元を緩ませて心底安心したような顔をした。

 ああ、馬鹿だったなぁ、と口の端を上げる。むず痒くって少し笑えた。


 ま、そんな馬鹿なニックは面倒なことに巻き込まれたというのにヘラヘラ笑って「一応な」なんて言って俺を救護室まで送った。

 文句の一つくらい言えばいいのに。そう思わないでもないが、アイツはお人好しなので。


「ちわーッス。急患でーす」

「バカやめろ。普通の怪我です」

「はい……えっ?」


 俺に肩を貸しながらニックがドアを開く。

 ドアの向こうから驚きの声を上げた少女はパッと口元を手で押さえて立ち上がった。

 栗色の髪に見覚えがある気がして、少女をじっと見つめる。


「あれ? ヘレナちゃんじゃん」


 ――ヘレナ。

 あの、バケツを持って転びそうになった子だ。


 改めて見ると、ヘレナは「その節はどうも」と照れ笑いをして頭を下げた。


「へーっ、あれ、サーシャさんとこの代わりで来たんじゃなかったっけ?」

「医薬の方が詳しいので、こちらに来たんです」

「ふーん。じゃミレーネちゃんが向こう行ってんだ」

「はい」


 よかったぁ、とニックはへにょっと眉を下げた。


「ミレーネちゃん包帯巻くのとか苦手で、いっつも半ベソかいてたからさー、心配してたんだよねぇ。人間やっぱ得手不得手あるよなー」


 いつもより少し浮かれた声音に、思わず半目になってニックを見る。

 お前、あわよくばそのミレーネとやらに会うために一緒にここに来たんじゃないだろうな。


 ニックはお人好しでもあるが、チャッカリしている男でもある。可能性は高い。

 次にミレーネについて根掘り葉掘り聞いてやろうと固く決意する。


「お大事になー」

「ん」

「……無茶すんなよ? ちゃんと大人しくしてろよ?」

「早く行け」


 未だドアからチラチラと顔を出すニックに、追い払うように手を振る。ニックは渋々といった様子で部屋を出ていく。アイツこそ本当に大丈夫か。

 俺たちのやり取りを見てヘレナが少し笑って医療器具の用意をした。


「仲良いんですね」

「まぁ、そうですね」

「ふふ。口調、結構変わるんですね」

「……まぁ、ソウデスネ……」


 気まずい思いで視線を逸らす。


「仮面を外してもらっても大丈夫ですか?」

「ああ、はい」


 仮面を皮膚だと混同してるのか、最近は仮面を外すのを忘れて困る。

 怪我を露にすると、痛ましそうにヘレナがきゅっと眉を寄せる。


「腫れてきてますね」


 そっと頬に手を当ててヘレナが微笑んだ。


「すぐ処置しますね」

「……あー、よろしくお願いします」


 優しい手付きで手当を施されながら、久々の怪我だなぁと思う。

 最後の怪我は、ここへ来る切欠にもなった致命傷だ。あれ以来怪我は無い。以前なら毎日のように怪我をしていたのに。


 そしてふと思う。今後、アイツに絡まれる回数は増えるんじゃないかと。

 顔、基、仮面を覚えられてしまったので確実に声をかけられる回数は増えるだろう。自然と喧嘩の回数も増えそうである。


「……もしかしたら、今後、かなりお世話になるかもしれません」

「そうなんですか? 喧嘩するご予定でも?」

「……まぁ、少し」


 言葉を濁らせる。

 ヘレナは眦を下げて「程々にしてくださいね」と言う。渡された氷嚢を当て、じんわりと染みていく冷たさに目を細める。


 ……なんか、この顔見たら、あの人は心配より先に笑うんだろうな。

 飼い主の姿を思い浮かべ、嘆息する。


 そして事実、想像通りにダムは笑った。


「男前になったなァ、ディー!」


 高笑いをし、怪我を考慮せずに荒い手付きでワシャワシャと頭を撫ぜる。仕舞いには手当された頬を一つ、軽く叩いた。馬鹿じゃないのか。

 ニックといいダムといい、俺を雑に扱いすぎじゃないだろうか。


「喧嘩か? 珍しいな」

「だろーな。俺のいたとこだと普通だったけど。ダム様んとこだと穏やかだしな」

「どんな場所だよ」

「普通の貧乏町だよ」


 あんな治安の悪い場所、ダムは足を踏み入れたことすらないんだろうな。

 そう思うと同時に、俺がこの場所にいるのが、本当に奇妙な偶然だったのだなと実感する。


 ダムはふっと目を伏せ、ゆっくりと頬の手当を撫でる。


「大丈夫なのか? エドガーとは」

「……なんでもお見通しかよ」

「ま、一応はこの屋敷の旦那様だからな」


 ズッと紅茶を啜ったダムは「ちなみに情報提供は噂好きなお前のお友達だ」と口角を上げた。

 …………ニック。

 頭を抱える。友達じゃないと否定することすら面倒だった。


「エドガーは少しばかり真面目すぎるきらいがあってな」

「それは、伝わる」


 この屋敷のために動こうとしているのは伝わってくる。アイツはただ不穏分子を排除しようとしているだけだ。


「ああいう奴、一人は必要だぜ。大事にしろよ」

「まさか殴られた奴からフォローがあるなんてな」


 ダムが揶揄を含んだ声で薄く笑う。

 それに肩を竦める。


「アイツ、面倒だけど嫌いじゃないよ」


 ダムは目を細めて俺を見た。

 別に意図は何も無い。

 ただエドガーは、ダムの事をこれ以上無いくらいに信じている。その分だけエドガーの事を信用してしまい、なんとなく嫌いになれないでいた。


「すげーアンタの事好きってのも伝わってきた。まんま忠犬って感じ」

「……まぁ。アイツにはお綺麗なとこしか見せてないからな」

「そ? ダム様に汚ねぇとこなんか無さそうだけどな。賄賂とかやってんの?」

「やるわけない」


 くつくつと笑って、ダムが俺の手を弾く。

 バカ犬と窘めるような、それでいてGoodboyと褒めるような一瞬の触れ合いだった。


「まァ……噛んだ噛まれたのじゃれ合いも、やり過ぎないようにしろよ。賢いお前なら分かるだろHoney?」

「……分かってるよDarling」


 ああ、まさか直々にお許しが出るなんて。

 くっと喉を鳴らし笑いを堪える。


 裏を返せば、やり過ぎなければ噛んでも……仕返しをしても咎めない。そう言ったのだ、俺の主は。


 ああ確かに、慈悲深いお方だな。

 エドガーの言葉に俺は深く同意した。

 慈悲深すぎて、涙が出てくるぜ。

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