存在意義と粗雑価値

Jack Torrance

第1話 自堕落で怠惰な僕に存在意義って?

僕は45歳にもなってニューヨークのグリニッジ ヴィレッジで小汚い古本やの店番を時給5ドル65セントでしている。


何とも惨めで冴えない男だ。


グリニッジ ヴィレッジは、若かりし頃のボブ ディランがミネアポリスの田舎から上京して来てストリートで腕を磨いた地だが僕にとっては夢もへったくれもあったもんじゃない。


店番の仕事は3時間。


ここで稼ぐ日銭は16ドル95セントだ。


その3時間の間に店主の親父はかみさんに内緒で三人の愛人と入れ替わり立ち替わりで毎日モーテルにしけ込んでいる。


店番中に目を瞑ると店主の親父が激しく腰を振っていてベッドが軋む音が聞こえてくるような気がする。


店主の親父は金持ちで古本やは半ば道楽で営んでいるようなものだ。


日銭が少ないならば掛け持ちで働けばいいじゃないかと言う人もいるだろうが産まれてこの方、1ヶ月以上、定職に就いた例がない。


忍耐、辛抱、持続、向上心、思慮、エトセトラ、エトセトラ…


そう言った語句が僕の辞書からは抜け落ち、その抜け落ちた人間に不可欠な要素が僕の根幹からは欠落している。


そう、俗に言う僕は社会のゴミ。


平たく言えば落第者である。


父さん、母さんはとうの昔にイースト ヴィレッジの外れの境界の墓石の下で熟睡している。


こんな僕の身を案じて枕を高くして眠れてはいないのかもしれないが。


今想えば棺の骸の頭の下に安眠枕を敷いてやればよかったと想う。


後悔先に立たずとはよく出来た格言だ。


僕は人生の重要な転換期で全てしくじってきた結果が現在の僕の成れの果てとなっている事を痛いほど熟知している。


棲家はボロボロの空きやを不法占拠している。


地下鉄は無賃乗車。


店番の時にはポルノ雑誌を読み耽り仕事内容は薄知の子でも十分に代役を果たせるだろう。


そう、僕は自堕落と言う沼に首までズッポリ浸かって雁字搦めになっている。


その状態が心から心地良いと思っているんだから自分でもどうしようもない。


もしも、僕が真面目な人間ならばこんな状況に陥りはしないだろう。


仮に道を踏み外したとしても己を粛正して正しい軌道に己を導いているだろう。


その軌道修正もままならない僕を誰が導いてくれるのだろうか。


キング牧師やマザーテレサ、ナイチンゲールやガンジー、過去の偉大な人々が遥々、僕の元を訪ねてくれたとしても、きっと僕は門前払いにしているだろう。


馬鹿に付ける薬は無いとはよく言ったもんだ。


そんな絵に描いたような人生の敗者を地で行く僕。


ある日、店番をしていた夜に心境を揺るがす出来事が起きた。


店の壁に掛けてある鳩時計がポッポと時を知らせ僕はプレイメイトの魅惑的なおっぱいとアンダーヘアに心を奪われ時を忘れてプレイボーイを読み耽っていた。


鳩時計に目をやると20時だった。


あの鳩が本物だったら羽を毟って焼いて食ってやるのになといつも思っていた。


外は少し肌寒いものの春の陽気に誘われて昼間に出掛けていた人々で賑わっていた。


店のドアに取り付けているベルがカランコロンと鳴った。


女性の声がした。


「あたし、こんな汚い店入りたくないわ」


すると、一緒にいた男性が女性の機嫌を取るように言った。


「こんな店だからこそお宝が眠っているのかもしれないんだよ。ディケンズの早刷りとか嗜好本とかさ」


男性は俺は目利きなんだぞといったような鼻持ちならない高慢で自信家ぶった高笑いをした。


僕は、ちらっと入り口に目をやっただけで、直ぐに視線をプレイボーイに戻しプレイメイトのおっぱいとアンダーヘアに興じながら舌舐めずりして顎の無精髭を指でなぞっていた。


来ている服はフランネルの草臥れたシャツに色褪せたカーキ色のミリタリージャケット。


それに履き古したユーズドのブラックデニムに踵がすり減ったワークブーツ。


髪は、だらしなく伸び放題で時代が時代ならヒッピーと間違われても仕方ない為体ぶりを発揮している。


カップルが粗雑(そざつ)に店内を一周りして僕の前にやって来た。


蛍光灯の光を人影が遮った事で気が付いた。


僕は、それ程プレイボーイに集中していた。


万引されても決して気付かないだろう。


僕の懐が痛む訳でもあるまいし、人間誰しもが楽して稼ぎたいと思っている筈だ。


万引を咎めて暴力を振るわれる可能性だってある。


強盗が入ったら気持ち良くレジのありったけの金を僕は進呈するだろう。


男性の方が偉ぶって言った。


「君、ディケンズとかサッカレー、メルヴィルとかは置いてないのかね?」


僕はプレイボーイから視線を男性の顔に移した。

ディケンズ?


サッカレー?


メルヴィル?


ヒュー ヘフナー(プレイボーイの発刊者)やボブ グッチョーネ(ペントハウスの発刊者)だったら知ってるけどな。


暫し、目が合い45秒程の沈黙が続いた。


相手は何かを思い出そうと僕の顔をじっと凝視している。


僕は薄知の子のようにぼーっと男性の顔を見ていた。


男性が地球上で誰しもが発明していない発明を思い浮かんだといった表情で左の掌に右の拳をポンと叩き付けた。


そして言った。


「青っ洟のチェビー。チェビー ギレスビーじゃないか」


僕は、きょとんとした。


何故、僕の忌まわしい過去のあだ名をこの男性は知っているんだ???


僕は思い当たる節を洗ったが思い出せない。


「僕だよ、僕。思い出せないのかい。アレン チェンバースだよ」


アレン チェンバース?


アレン チェンバース?


アレン チェンバース?


自分でも自覚しているが退化していっている脳味噌をフル回転させ過去の記憶を精査した。


あっ、思い出した。


子供の頃、金持ちで付け上がって僕に意地悪ばかりしていたアレン チェンバースじゃないか。


僕は忌まわしい過去と決別しアレン チェンバースを頭の記憶倉庫から消し去っていた。


彼は僕の見窄らしい容姿を頭の天辺から爪先まで嘗め回すようにじっくり観察していた。


そして、手にしているプレイボーイのページがビーチパラソルの下で寝そべってポーズを取りながら、この世のものとは思えないスマイルではにかんでいる全裸のプレイメイトで手が止まっているのを確認し嘲笑していた。


彼はサルトリア ダルクォーレのスーツを着熟し長身でモデルみたいな美女を伴っていた。


彼は矢継ぎ早に尋ねてきた。


「チェビー、この店は君の店なのかい?」


「いいや、僕は雇われの身で一介の店番だよ」


「ふーん、給料はいいのかい?」


「いいや、安いよ。コンビニエンスストアのアルバイトの子よりもね」


「結婚してるのかい?」


「いいや、一度も」


そして、今度は僕が尋ねた。


「君は何をやってるんだい?」


「イタリアンレストランを18軒とカフェを7軒。それに、不動産投資と信託投資。後は株のトレードくらいだね」


彼は、ちょっと考えて言った。


「ちょっと尋ねてもいいかい。君は安い給料で結婚もせずに、こんな小汚い店でポルノ雑誌を読み耽っている。君は己の存在意義や存在価値を意識した事はあるかい?」


彼は粗雑(ぞんざい)に僕の価値を値踏みしてきた。


僕は無言を貫いた。


アレン チェンバースは尚も偉ぶった思想と志向を押しつけがましく言い放ち僕を論破しようとしてきた。


「僕は雇用を産み出し人々に職を提供し人々に一時の娯楽を提供し資本を流通させ利益を齎し皆がより良い生活が営めるように少しばかり貢献している。君は何をしてるんだい?」


僕は論駁され反駁の余地も与えられないまま彼は続けた。


「もう一つ聞いていいかい?君はディケンズやサッカレー、メルヴィルを知っているかい?」


僕は即答した。


「いいや」


彼は肩を竦めて死刑を論告求刑された罪人のように憐れみの表情を浮かべて首を振ってぼそっと言った。


「全く以て話にならないね」


そして、踵を返し同伴の女性の腰に腕を回して店を後にした。


僕は竜巻に襲われてチカシェルターに逃げ込み竜巻通過後に地下シェルターから這い出してみると家が跡形もなく吹っ飛んでいたような心境に陥った。


何故、僕はいい歳になって昔の性悪な知人からずけずけと土足で僕の人生に侵入され粗雑(ぞんざい)な扱いを受けねばならないのか。


存在意義?


大体、意味は理解出来るが僕は店に陳列されている本棚から辞書を抜き取り調べてみた。


そこには、こう記されてあった。


〈自身が此処に存在しているということの重要性や価値を証明する証〉


ふーん、僕は自堕落で怠惰な人生を送って来た人間だから、そんな事を真剣に考えた事は無かったな。


そりゃあ、彼は飲食店を何軒も経営して富も名声も手に入れてるんだろうけど。


それって唯の自己掲示欲や承認欲求の塊で、端から見れば虚栄心を偶像化したみたいなものじゃないか。


特権階級意識に憑かれたエゴイストめ!


お前が利他主義的なにんげんだったらそんな高級ブランドの服で身を固めていい女を侍らせて上流階級の生活なんかしてない筈だ。


僕は根に持つタイプの人間なので苛立たしい気持ちを抱えながら店番を続けた。


10分後。


店主の親父がいつもより30分早めに戻って来た。


「ギレスビー、今日はもう上がっていいぞ」


店主の親父が嬉しそうに言った。


僕は時給の事が気になった。


「親父さん、時給は減るの?」


「いや、今日は早上がりの分はおまけだ」


僕は、にやりと笑い店主の親父の機嫌を取った。


「親父さん、今日は何だかいつもより嬉しそうだね。何か良い事でもあったのかい?」


「今日は娼婦のネェーちゃんを呼んで人生初の3Pを試してみたんだがな。ビデオに収めてお前にもみせてやりたかったぜ。今日はボーナスだ。これも取っとけ」


通りで店主の親父は早く帰って来た訳だ。


辛抱堪らずに早く射精しちゃったんだな。


僕は店主の親父の絶頂に達した時の表情を思い浮かべて目を細めた。


店主の親父が20ドル紙幣をミリタリージャケットの胸ポケットに捩じ込んでくれた。


「ありがとう、親父さん。じゃあ、また明日」


僕は機嫌を良くして酒場で黒ビールを2杯ひっかけて地下鉄に乗った。


かなり、遅い時間帯にも関わらず車内は吊革やポールを掴んで立って乗っている乗客で賑わっていた。


どうやら、何処かのライヴハウスでインディーズバンドのライヴがあったらしい。


若者達が同じロゴがプリントされたTシャツやリストバンドをしているのでそうじゃないかなと思った。


僕は首尾良く座席に座れた。


次の駅で杖を突き腰からくの字に折れ曲がった齢80の老婆が乗車して来た。


顔には老斑がいくつも浮かび上がり、ざんばら髪を振り乱していた。


明らかにホームレスの老婆だ。


老婆は座れる椅子がないものかとキョロキョロと車内を見渡したが空席は無かった。


座っている健康そうな若者やサラリーマンも年老いた老婆には無関心で誰も席を譲ろうとはしなかった。


寧ろ、ホームレスというだけで、アカラサマに疎ましそうにしていた。


その露骨な態度を取る人に僕は気分を害した。


僕にだって良識と料簡はある。


その老婆が僕の前に立った。


僕はアルコールで気分も良くなり、さっきの存在意義とやらを思い出した。


僕は熱心な宗教論者でもないし教会にも子供の頃に数回行った程度だ。


その時に、教会の牧師が言っていた。


カトリックでは、どんな罪人でも善行を積めば救われると…


僕の脳内にイエスが語り掛けてきた。


「人助けをするのです。あなたには、それが出来る。善行を積むのです。それが、あなたの存在意義の証となり、あなたの存在価値を高めるのです」


僕はイエスの、その有り難いお言葉を脳内で咀嚼し実践に移した。


「お婆さん、僕が立ちますので、よかったらどうぞお座りください」


そう言って僕が席を立とうとした瞬間だった。


「お黙り、この若造めが。あんたみたいな何処の馬の骨とも知れないフーテンの与太者にそんな口を叩かれる義理はあたしゃないよ。あんたみたいな奴に世話にならなくてもあたしゃ生きていけるんだよ。あたしを年寄り扱いするのはおよし。解ったかい、このトンチキめが」


怒声を浴びせ老婆は僕の足を杖で打った。


車内の乗客がシーンとして僕と老婆を観ている。


静まり返る車内でレーザー光線のような冷淡で悪意に満ちた視線を全身に浴びせ掛けられる僕。


な、何故だ。


僕は唯、善い行いをしようとしただけなのに…


どうして公衆の面前で粗雑(ぞんざい)な物の言われ方で辱められなければいけないのか。


僕は項垂れ席に座った。


そして、その羞恥に耐え切れず次の駅で降りた。


イエスなんて、唯のはったりをかます詐欺師だ。


神なんて存在しない。


僕に存在価値なんてありはしない。


そもそも僕みたいな人間が存在意義なんて見い出しそうとした事が過ちなんだ。


ちょっと待て。


そもそも僕は人間なのだろうか?


僕は社会の底辺に巣くうゴミ、クズ、塵…


もはや、この世には存在してはいけない邪悪な物体。


そう思った瞬間僕は、この世で起こる全ての事に意義や意味。


志向や価値。


全てが無意味に思えてどうでもよくなった。


僕は今まで、ある意味、世捨て人な生活を送ってきたが、完全なる世捨て人と化してしまった。


12分後。


特急電車がホームを通過しようとしていた。


僕は神の存在。


人間や思想。


宗教、対立、不和、エトセトラ、エトセトラ…


僕は思いつく全ての創造物や哲学に嫌気が差していた。


この世に存在する全ての存在に背中を突き押されたようにホームから飛び降りていた…

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