第2話 夜汽車
繰り返すようだが、ここ広島の児童相談所はしんちゃんにとっては天国だった。
児童相談所に毎日通ってくる大学生のバイト、主に教育学部の生徒たちだったが、彼らは一様にやさしかった。
しんちゃん、しんちゃん、となにかにつけて優しくしてくれた。
けれどもある日、所長さんから嫌なことを言われた。
「・・しんちゃん、悪いけど来週から銀次郎と相部屋になってくれるかのう。・・」
しんちゃんは人に嫌とあまり言えない子供だった。
道に生えている草を次々抜いていくように、そんな幸福を数える方法を、しんちゃんは知らなかった。
ただ先生や大人のいうこと、人のいうことに「うん」ということが、しんちゃんがギリギリのところで学んだ処世術だった。
特に所長は障害のあるしんちゃんには優しかった。お父さんがいるとしたらこんな人であってほしい、そういう風に思わせるような人だった、そんな人のお願いは断れない。
だが銀次郎といっしょの部屋にいるのは心配だった。
本当に陰気で、何を考えているかわからないからだ。
以前、この児童相談所から2回も脱走したことがあると聞いたし、あまりそういうわけのわからない子といっしょにいるのは嫌だ、相部屋ならなおさらだ。
気が暗くなった。
そんな折り、母親が最後の面会に来た。
今日が広島滞在の期限とかで、最後に泣かんばかりにしんちゃんに頼んできた。
「・・・おねがい、おかあちゃんが悪かった、家に帰って。」
しんちゃんは返事をしなかった。
所長も同席していたが、所長は長年の勘で、何も言わずにだまっているしんちゃんの気持ちを察したらしく
「・・おかあさん、お気の毒ですが、施設は子供の気持ちと安全を考慮しますので。」
と母親を諭した。
母親がぐったりとした表情を浮かべて、先に部屋を出た。
シーンとなった面会室で所長がしんちゃんに尋ねる。
「・・そんなに家におるんがいやなんかのう・・しんちゃん。」
しんちゃんはしばらく黙った後
「・・・うん」
と答えた。
「・・・わかった、おりたいだけおりゃええよ。ここは子供の住処じゃけえ。」
所長はそう答えた。
あくまで子供の一時預かりに過ぎない児童相談所ではあったが、所長権限や子供の意志で長期間いることは不可能では無かった。
しかししんちゃんは、さすがにああいう母親の姿を見て、疲れ切って部屋を出た。
出ていつものとおり、TVを見ようと食堂に入ると、銀次郎がいた。
銀次郎はいつも行儀が悪い。
テーブルの上に足をのっけて、本を読んでいた。
きつい目で、読んでいる本ごしにギロリとこちらを睨んだかと思うと、こういった。
「・・あれ、お前の母ちゃんなんか。」
声も出せずに小さくうなずくと
「・・・ほうか・・帰らんでよかったの。」
と言った。
銀次郎には銀次郎の勘があるらしい。
しんちゃんにはわからないが、銀次郎の母親は水商売で、いつまで経っても女でありたい母親の匂いはその嗅覚でわかるのである。
母親としてのギリギリの愛情はあるものの、男に狂ってしまえば、母親としての母性は、赤の絵の具に黒を足したように元の色が分からなくなってくる。
男と別れて、やさしさに飢えている女には、子供を産んだとしても母親になりきれない、そういうタイプがいる。
男とは女にとって黒の絵の具だ。
銀次郎は少なくともそう思っていた。
しんちゃんと銀次郎はそういう意味で同心円だった。
しかしそれにしても、しんちゃんにとってこの日は母親と、家族と決別した日だと言っていい。
折悪しく、その夜は銀次郎と一緒の部屋になった。
消灯時間、銀次郎は背を向けて寝ている。
外で汽笛の音がした。
広島の児童相談所は夜汽車の音が聞こえる。
なぜだろう、無性に大阪の街の灯が、やさしかった母親の思い出がしんちゃんの頭を突然よぎった。
いつだったろう、母親が数日家をあけて帰ってきた夜、母親なりに罪悪感があったのだろう、その時だけはコロコロコミックなどしんちゃんの大好きな本、そして好物のたこ焼きを買ってきた。
それを思い出したしんちゃんは
「・・・ううう」
布団の中に入って、涙が止まらなくなった。
しばらく泣いたあと、ふと後ろから声がした。
「・・・おいデブ。」
はっとした、銀次郎に何か文句をいわれるのではないか。
もし怒っていたらあやまるしかない。
「・・・ごめんなさい・・もう寝ます。」
そう返事すると、銀次郎は背を向けながらこういった。
「・・ちゃぶ台の下にガメて来たドーナツとヨーグルトがあるけえ、それを食え、腹一杯になったら、寝れや。」
銀次郎は児童相談所生活が長いだけに、食堂冷蔵庫からそういうものを調達するのは朝飯前だった。
この不気味な少年は少年なりに今日しんちゃんに起こったことを察しているらしい。
児童相談所の夕食は6時なので、夜10時ともなれば腹が減る。
しかし児童相談所は私室で飲み食いできないルールがある。
おやつも食事も決まった時間に食堂でだ。
コロコロと小太りに太った食べ盛りのしんちゃんにとって、目の前のドーナツとヨーグルトはありがたかった。
「・・・ありがとう」
二つ目のドーナツをしんちゃんが食べ終わったとき、また夜汽車の音がした。
「・・・あ・・115系の音や・・・」
そうしんちゃんが思わず言うと
「・・・なんやあお前、電車フアンなんか。・・」
銀次郎が背中でそう言った。
「・・・うん、ぼく、電車が好きで、だいたいわかる。」
銀次郎は黙っていた。
月夜に汽笛が木霊した。
しんちゃん (放浪癖とダウン症と) 山咲銀次郎 @Ginziro-yamazki
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