第45話 小児科研修

 私の初期研修最後の診療科は小児科だった。へき地研修でお世話になった金谷病院では、その市の方針で、夜間帯の小児救急はまず一般のクリニックへ、それで対応困難な症例は市内の国立医療センターに紹介、という体制を取っていた。なので、時々当直中に小児科の患者さんを診察しなければならなかった。しかし当時の僕は小児科のトレーニングを受けていないので、診察の勘所がわからず、今振り返ると軽症の患者さんも、ついつい国立医療センターに紹介することが多かった。

 なので、小児科研修はしっかり頑張ろうと思っていた。また、医学部6年生の時、1ヶ月お世話になった生協病院 小児科のクリニカル・クラークシップの印象が良かったので、小児科も将来の選択肢としてはありかもしれない、と思っていた。


 前述の様に、自院での小児科研修ができなくなったので、同期の大部分は、以前私が見学に行った樫沢総合病院、一部は吹岡病院で研修を受けることになった。私はラッキーなことに、樫沢総合病院での研修となった(吹岡病院だったら、また単身赴任になってしまうところであった)。

 通勤が大変なので、九田総合病院が、樫沢総合病院から歩いて10分のところにアパートを借りてくれていたのだが、家族離れ離れになるのはもう嫌なので、自宅からバイクを飛ばして、樫沢総合病院に通うことにした。マッチングの時に選択肢から消した樫沢総合病院で、小児科だけではあるが研修することになったのである。


 樫沢総合病院小児科の朝は、7:20開始、となっていたが、それは指導医の松村先生がその時間に来て、入院患者さんのカンファレンスが始まる時間なので、僕らはそれまでに朝回診を終えなければいけなかった。なので、病院に着くのは6:45くらい、自宅を出るのは5:30くらいだった。2月、3月なので、朝はまだ暗い。まだバイク用ETCも普及していなかったので、毎日、家を出るときに千円札をバイクの手袋の中に挟んで出発。しばらく一般道を走った後、高速道路に乗り、料金所でお金を払い、おつりをまた手袋に挟んで一般道を走り、病院に6:45くらいに到着するようにしていた。

 樫沢総合病院のある地域の小児救急は輪番制を取っており、樫沢総合病院は当直帯の担当は月曜日と土曜日、日直帯はすべての曜日が対応だったので、基本的には休日はなかったように記憶している(もしかしたら、日曜日の日直に当たってなければ休みだったのかもしれないが、よく覚えていない)。


 また、樫沢総合病院では小児科研修は1年次に行うことになっているので、同院の1年次研修医の先生と2年次の僕で初期研修を受けていた。同院の2年次で小児科の選択研修を選んだ先生は、ワンランク上の研修を受けていた(外来などもされていた)。朝は最初に入院患者さんの回診を行ない、カルテで夜間の状態を確認(小児科なので、入院担当患者さんはそんなに多くない(ベッドがそんなに多くないので)。多くても5人くらいだったかと記憶している。7:20に指導医の松村先生が病棟にやってきて、カンファレンス開始。各人が担当患者さんのプレゼンテーション、今後の方針を発表し、指導を受けたり、その疾患についての基本的なレクチャーを受けたりする。その後、松村先生と一緒に病棟回診を行ない、医局の朝礼に出席。午前中は外来でスタッフの先生の診察を見学し、採血や点滴などの処置があれば、率先して僕たちが行う。どうしてもうまくいかなければ、上級医(2年次で選択科目として小児科をローテートしている先生)にお願いする。基本的には親御さんが見ていると、親御さんも泣き叫ぶ子供を見るのがつらく、子供も親御さんに助けを求めようとするので、あえて親御さんは処置室から出ていただいて処置をするのだが、繰り返し失敗し、時間がかかると処置室のドアを開けて私たちに怒りの言葉をぶつけてこられる方もいた。そう言われても致し方ないなぁ、とは思いつつ、気持ちは落ち込んだ。


 午前中の診察が終わると、ささっと昼食を済ませて、午後からは東本先生の部長講義、様々な小児科疾患について実践的な講義を受け、時間外対応の連絡があればその日のfirst callが対応に行く、というスタイルだった。少しの空き時間に患者さんを回診し、カルテを記載して、と午後の時間も忙しかった。午前の診察で入院があれば、少しの空き時間でAdmission Noteを作成した。

 夜の診察も午前の診察と同様に、点滴や採血は私たちの仕事だった。夜の診察が終わると、毎日たいてい1人か2人、入院になっているので、入院患者さんの病歴などを確認し、admission noteを作成して、病院を出るのは22:30くらいだった。

 で、夜の寒い中をまた、手袋に1000円札を入れて走り、高速道路を使って帰り、自宅に着くのは23:30頃だった。その時間には太郎ちゃんは寝ているので(いや、結構ぐずぐずとねむれずに起きていることが多かったかな?)、そーっと家に入り、夕食を食べ、さっとお風呂に入ってすぐに就寝、するとすぐに起床時間の5時になる、という生活だった。当直はfirst callが2人、second callにはスタッフの先生が入ってくださり、一晩でfirst callの2人で毎回100人以上の患者さんを診察していた。入院が必要な患者さんは、second callの先生を呼んで入院の適応かどうかを判断してもらい、入院を上げてもらい、翌日admission noteを仕上げる、というスタイルだった。


 九田記念病院では、ER当直は学年にかかわらず全員で診療に当たり、特に診療科を決めず、内科研修医が外科の縫合処置をしたり、整形外科の研修医が胸水穿刺をしたり、というのが当たり前で、学年が上がるほど、自分が患者さんを診て、さらに下の学年の面倒も見て、と学年が上がるほどしんどくなるスタイルであった。一方の樫沢総合病院はfirst call、second call、third callと仕事が学年で区切られており、基本的には、ローテートしている診療科のfirst callは1年次が担当し、その診療科のほぼすべての時間外対応を行ない、first callでは対応できない場合にはsecond call、という形になっていた。例えば内科のfirst callに当たっていれば、外科疾患の患者さんには対応しないが、内科受診の方は原則全員を診察する。そのようなスタイルなので、基本的にはfirst call担当は当直中、ほとんど休憩時間がない。ERの休憩室もsecond call以上にはベッドが用意されているが、first callには休憩室は与えられておらず、つまり、first callは休むな、という姿勢が設備にも表れていた(病院は新築移転して5年程度で、新しい建物だった。なので、おそらく病院上層部は以前からそのように考えていたのだろう)。


 現在私は「何でも内科」(よく言えばHospitalist)として、亜急性期病院で勤務しているが、その前は有床診療所でいわゆる

 「古き良き時代の、何でもとりあえず対応する家庭医(町医者)」

 として10年間勤務していた。小児科の患者さんもたくさん診察し、私は大きな医療事故もなく過ごすことができたが、本当の意味での小児科のトレーニングを受けたのはこの2ヶ月間だけだった。この2ヶ月間で、小児科診療のエッセンスを教えていただけたと思っている。


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