第36話 師匠の教え(へき地研修4)

 研修医になりたての頃、師匠からいろいろ教えを受けた。以前にも書いた

 「指示を出すときには、どうしてこの指示にしたのか、必ず説明できるように考えて指示を出しなさい」

 という教えもあり、

 「病名が分からないときには、絶対に無理に病名をつけてはいけない。結局その病名が独り歩きして、かえって混乱を招くから、病名が分からないときは病態名で入院を上げなさい」

 という教えもあった。どちらも今でも実行しており、臨床経験を重ねるごとに、その言葉の重さがわかってくるようになった。師匠の数ある教えの一つに、

 「臨床を行なっていると、いくら調べてもわからないことが出てくることがある。その時にはその疑問を心の中に温めておきなさい。何かの拍子にわかることがあるかもしれないから」

 というものがあった。


 師匠の経験談では、外来に通ってくる患者さんで、いつもうなだれていて、顔を上げるときにはけん玉の球を上げる様に、よいしょっ、と首を後ろに振ってから正面を向く人がおられたそうである。

 「この人は何をしているんだろう?」

 といつも不思議に思っていたそうだが、調べてもよくわからなかったそうで、ずっと心にとどめていたのだと。数年後、筋ジストロフィーと診断がついている患者さんが同じように顔を持ち上げる動作をするのを見て、

 「そうか!頸椎の傍脊柱筋など、首周りの筋力低下でこのようになるのか!」

 と数年来の疑問が解消したそうである(今、ネットで検索すると「首下がり症候群」というらしい)。実際に私も、外来で同じように頭を持ち上げる人を診察したことがあり、師匠の話を思い出し神経内科に紹介、筋緊張性ジストロフィーの診断がついたことがあった。


 ある日の午前診、普段は近隣のクリニックにB型慢性肝炎で定期通院中の高齢の女性が、倦怠感を主訴に紹介状を持参し私の外来を受診された。血液検査をするとAST、ALTが3ケタに上昇していた。胆道系酵素はあまり上昇していなかったので、高齢者でよくある総胆管結石などではなさそうだった。


 肝炎の増悪?B型肝炎の既往はあるそうだが、持参の紹介状を見るとHBe抗体は数年前のデータではすでに陽性化しており、seroconversionはしているようであった。高齢の方の肝炎なので、自己免疫性肝炎やPBCなども考え、抗核抗体、抗平滑筋抗体、抗ミトコンドリア抗体、HBVについての各種マーカー、HCV抗体も同時に提出し、入院とした(高齢の方なので、A型肝炎の抗体は持っているものと考え、提出しなかった)。そのころにはまだHBVに対する核酸アナログ製剤は全く市販されておらず、B型肝炎に対しては安静で経過を見る以外にこれといった手もなかった。


 結果が返ってきたが、HBs抗原が陽性になっており、その他の項目はあまり問題なく、やはりB型肝炎の急性増悪と考えられた。

 「以前seroconversionして鎮静化したB型肝炎がまた再燃したの?なに、それ?よくわからないなぁ」

 と教科書を調べながら、該当するような記載がなくモヤモヤしていたが、患者さんの状態は比較的急速に悪化していった。肝合成能はPT、APTTでfollowしていたが、どんどん延長していく。AST/ALTも3ケタを保ったままで改善は見られなかった。アンモニアも上昇してきて、意識レベルも低下、肝性脳症の症状が見られるようになってきた。

 部長の武村先生と相談、まず血漿交換をして、今の状態を改善させよう、ということになり、ICUで管理を開始、ブラッドアクセスを挿入して血漿交換を行なった。血漿交換を行うと患者さんの意識レベルも改善、

 「しんどさもましになった」

 と言われたが、数日でまたPT、APTTが延長し始めた。D-ダイマーの上昇は目立たず、DICというよりも、凝固因子が枯渇していく、という印象であった。また血漿交換を行い、患者さんは元気を取り戻したが、数日でPT,APTTが伸びてくる、ということを繰り返していた。血漿交換も大がかりなので、ブラッドアクセスは抜去し、FFPの輸血、という形でしのいでいた。


 ご家族の方が、消化器内科の高名な先生で、先生も色々アドバイスを下さり、

 「先生、初期研修医でしょ?そんなに働いて、身体は大丈夫ですか?」

 とご心配していただいたりした。金谷病院では限界だと思い、同県のK大学医学部付属病院の肝臓内科に転院調整をかけたが、

 「B型肝炎で矛盾しないと思います。貴院での治療を継続してください」

 とのつれない返事であった。残念ながら患者さんは、そうこうしているうちにカテーテル感染をきたし、それに起因する敗血症で永眠された。


 この患者さんのB型肝炎のことは、当時の教科書ではこのようなパターンは記載されていなくて、ずっと心に残っていた。師匠の言う通り、心の中で温めていた。


 それから数年後、関節リウマチなどで生物学的製剤が治療に積極的に使われるようになり、その際に、免疫力の低下で、いったん沈静化していたB型肝炎が再活性化し、その予後が悪いことが報告されるようになった。いわゆる「de novo肝炎」である。この話を聞いたときに

 「そうか!あの時の肝炎はde novo肝炎だったんだ!」

 と疑問が一気に氷解した。患者さんは特に生物学的製剤を使ったり、多量のステロイドを使う、ということはされていなかったが、おそらく高齢による免疫力低下で発症されたのだろう。そう考えると非常に話がすっきりする。まさしく師匠がおっしゃった通りだった。


 ただ残念なのは、自分の目の前を新しい疾患概念の患者さんが通り過ぎていったのに、それが新たな疾患概念を示していたことに気づかなかったこと、内科学会の地方会ででも、1例報告として発表しておけばよかったと後から気が付いたことであった。


 この症例についてはもう一つ、「ああっ!」と思うことがあった。後期研修の終わりころ、内科カンファレンスで、師匠の受け持ち患者さんが同じように肝障害を起こし、PT,APTTが数日で延長するような状態になったとのこと。何の根拠もなかったけど、ダメもとで取り敢えずやってみよう、とビタミンK(凝固因子を活性化したり、骨を形成するコラーゲンを架橋したりする作用を持つ)を点滴で投与すると、凝固因子が落ち着いた、という話を聞いて、

 「ああっ、あの時に、患者さんにビタミンKを投与していたらどうなっていたかなぁ、少なくとも凝固因子は安定したかも」

 と、ビタミンK投与を思いつかなかったことを後悔した。ただし、師匠もあてずっぽうで、えいやっ!と投与したとおっしゃっていたから、私がその時点で、そのことに気づかなかったことをそんなに自分で責めなくてもよいのかもしれないが。

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