第30話 教科書通りにはいかない

 2年次の内科研修は、8月、9月に受けたのだが、8月と言えば夏休み。上級の先生から夏休みを取っていくので、自分たちの夏休みは遅れるのが常であった。

 師匠の夏休みの時は、師匠が普段見ている患者さん(なかなか病態生理的に把握の難しい方や、肺がんの化学療法中の方が多かった)が急に悪くなったりしないか、と毎年心配していた。そして2年次の師匠の夏休みに、心配していたことが起こった。


 患者さんは、師匠が半年ほど前から訪問診療を始めた22歳の男性。1年ほど前に交通外傷で脳に大きなダメージを受け、気管切開、胃瘻を造設している方だった。子供の頃から何度かネフローゼ症候群を発症しており、病型は不明だが、ステロイドの使用で症状が安定化していたとのことだった。ネフローゼを繰り返しているので、お母様が薬局で尿検査のテープを購入して、毎日尿たんぱくを確認していたそうだが、数日前から尿たんぱくが強陽性で、この数日でどんどん身体が重たくなっている、とのことで入院してこられた。

 ご自分で動ける方なら、すぐに紹介状を作成して腎臓内科へ紹介するのだが、訪問診療を受けておられる方なので、なかなかそういうわけにもいかない。師匠がいない間に何とかしなければならなかった。主治医は私が担当することとなり、鷹山先生がsuperviseしてくださることになった。

 当初は、教科書に記載の通り、1日尿量+500mlの水分制限とし、ステロイドをPSL 20mg/日で開始したのだが、日に日に浮腫はひどくなり、尿量は減少してきた。毎日採血するのは血管が細くて難しいので、数日おきに採血していたのだが、入院第4病日には、BUN,Creの値が急速に悪化しただけでなく、高カリウム血症も見られるようになり、尿量も500ml/日を下回るようになった。血漿中のタンパク質が尿に漏れてしまい、血管内に水分をとどめておくことができず、血管内は高度の脱水、間質に高度の浮腫が出ている状態となった。高度の腎前性腎不全である。採血結果を見て、

 「ギャーッ!」

 と思わず叫んでしまった。このままでは彼の腎臓がつぶれてしまうし、命も落としてしまう。

 「ほーちゃん、このままやと彼、命にかかわるわ。治療方針を変えよう」

 と鷹山先生がおっしゃられた。教科書通りの管理をやめ、浮腫をあまり気にせず、晶質液を大量輸液、師匠が

 「意味がない!!」

 と言われるアルブミンも大量に投与し、少しでも血管内脱水を是正し、腎臓を保護する方向に転換した。


 透析科の先生に相談してみたが、新先生は泌尿器科出身で、ネフローゼ症候群には詳しくなかった。

 非常勤で週に1回透析科に来られている先生が腎臓内科の先生だったので、教えを乞うたが、あまり役にたつアドバイスはいただけなかった。


 とにかく、師匠が帰ってくるまでは、何としてもこれ以上状態を悪くしないように頑張らなければ、と必死だった。当時は、随時尿のタンパク量とクレアチニン量で一日排泄量を推定する方法は普及していなかったので、蓄尿してタンパク量を測定していたが、多い日には15g以上の尿タンパクが排泄されていた。

 師匠の夏季休暇が終わり、師匠が戻ってこられて本当にほっとした。

 「ステロイドはあまり効いていないようだから、シクロスポリンも併用しよう」

 と言われ、輸液負荷を継続し、PSLに加えて、シクロスポリンも開始した。おそらく彼のネフローゼ症候群は単純な微小変化群ではなく、巣状糸球体硬化症も併存しているのかもしれない。尿タンパク定量を継続していたが、本格的にタンパク排泄量が減少し始めるまでに、約3週間近くかかったからである。泌尿器科に腎生検を依頼したが、high-risk patientとして、腎生検を受け入れてもらえなかったので、本当のところはわからない。

 治療に反応し、タンパク尿が軽快してくると体の浮腫も取れてきて、ずいぶんと身体も軽くなってきた(とはいえ、元々大柄な方だが)。ちょうど2年次内科研修が終わるころに、全身状態も安定し、PSLは5mg、シクロスポリンは継続のままで、在宅診療に戻られた。22歳と若い方で、お母様もものすごく心配され、個室に常に付き添われていた。私がこまめに患者さんのところに診察に行き、病状説明をこまめにしたことに対して、ずいぶん感謝していただいた。自分の力不足は強く感じたが、腎臓内科のない九田記念病院で、非常にいい勉強をさせていただいた、と思っている。

 ちなみに僕の後期研修で、僕が彼の訪問診療担当医になったのは、また後日の話である。


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