第29話 二度目の内科研修

 現在でもそうだと思うが、初期研修のプログラムでは内科ローテートが6か月以上と定められており、私たちの時もそうだった。ほとんどの病院が1年次に6か月、というプログラムを組んでいるが、私たちの九田記念病院は1年次4か月、2年次2ヶ月とあえて2年間に分けていた。これは研修委員長であった師匠の深い考えで、

 「君たちは、ERを含めた1年間の研修でぐんと成長しています。なので、2年次にもう一度内科をローテートすると、1年次の時には見えなかったこと、分からなかったことが見え、もちろん患者さんにできることもうんと増えています。なので、2年次の内科研修は、1年次の研修より、さらに密度の濃いものになります。そう考えて、このシステムにしたのです」

と仰られていた。

 2年次は総合内科で研修することとなり、師匠→鳥端先生→尊敬する兄弟子鷹山先生→私+1年次の研修医、という形であった。鳥端先生は基本的に1年次の面倒を見られるので、私は鷹山先生のsuperviseの下で2年次内科研修を行なった。鷹山先生の評価は人によって分かれるが、私にとっては心から敬愛する兄弟子であった。


 1年次の時、ERで鷹山先生と当直に入っていた夜、深夜の私の担当時間に透析を受けている患者さんが、わきの下を怪我したとのことで受診された。創部の皮下には皮下血腫ができていて、創部がひどく膨らんでいた。「これをそのまま縫っていいのかどうか、どうしよう」と困ってしまい、鷹山先生に来てもらい、そのまま創を縫合してもらった。「皮下血腫は吸収されるから、どんどん膨れてくるものでなければ、そのまま経過を見ないとしょうがないよ。でも僕も、こんな傷の縫合は初めてだけど」と、鷹山先生も冷や冷やしながら、私を守るために前に出てくださった。


 また別の日の当直だが、朝の5時ころにうつ病の既往のある60代の女性が

 「しんどい」

 との主訴で救急搬送されてきた。到着時、血圧は正常だが、末梢での酸素飽和度(以下、SpO2とする)が低めだった(SpO2 90%程度)。その日は土曜日でボスの来ない日だった。その時1年次だった私は

 「うつ病があるし、血圧も安定しているから、しんどいのはうつ病のせいだろう」

 と思って甘く考えていたのだが、救急車の音で起きてこられた鷹山先生が、

 「ほーちゃん、やっぱりこのSpO2はおかしいよ。血ガス(動脈血のガス分析のこと、動脈血のpH、酸素分圧、二酸化炭素分圧、重炭酸イオン濃度を分析する検査)を確認しようよ」

 と提案された。

 「うつ病だからしんどい」

 という考えに取りつかれていた自分は、あまり納得はしなかったのだが、血ガスを取って、検査室に持って行った。返ってきた結果はCO2分圧の低下している低酸素血症だった。鷹山先生は血ガスの結果を見て、

 「ほーちゃん、これ、肺塞栓じゃないか?ちゃんと調べようよ!」

 とおっしゃられた。その日の当直の検査技師さんは心エコーのできる技師さんだったので、緊急で心エコーを依頼し、患者さんについて行って、心エコーの画像を見せてもらった。エコーで心臓の短軸像を出してもらうと、本来は左室に圧排されているはずの右室が逆に左室を圧排していた。明らかに肺塞栓など、高度な右室負荷所見を示唆する画像であった。その時までは鷹山先生の言葉に半信半疑だったが、その画像を見て、思わず

 「うわっ!」

 と叫んでしまった。


 鈍い1年次の私はその時点でようやく、鷹山先生の診断通り肺塞栓だと確信した。急いで造影CTをとると、両側の肺動脈の主幹部付近に血栓を疑う像があり、採血で追加したDダイマーも高値であった。急ぎ循環器内科の坂谷先生を呼び出し、循環器内科へ引き継ぎをした。

 「先生、よく肺塞栓とわかりましたね」

 と鷹山先生に伝えると、

 「いや、俺も肺塞栓見たの、今回が初めて」

 とおっしゃられた。診たことがない疾患を鑑別診断として想定し、診断にたどり着くのはとても難しいことで、鷹山先生すごいな、と純粋に感動した。

 鷹山先生も、鳥端先生ほどではないにしても後輩の面倒見はよく、鷹山先生ご夫婦と私たちが同じマンションに住んでいたこともあり、夏が近づいたころに、

「エアコンがないと困るだろう。今から買いに行こう!」

と二人とも当直のない土曜日に、日本橋まで連れて行ってくださり、エアコン購入の手伝いをしてくださったりした(その時購入したエアコン、まだ使っている。もう20年近くたつので、買い替えるべきなのだが)。


 そんなわけで、鷹山先生とペアになって患者さんを担当したのだが、やはり1年間の経験は大きい。重症の方のICU管理、高齢の方のお看取りなど、ほぼ主治医として仕事を全うすることができたのだが、生兵法は大怪我の基、手痛い失敗をしたことをこの時の研修で覚えている。


 1年時の後半は外科研修を受けていたが、外科では、比較的脱水を併発している病態が多く(例えば腸閉塞では腸管内に多量の液体がたまっていて、それを経鼻胃管やイレウスチューブで排液したり、手術の侵襲で組織内(サードスペースと呼ばれる)に水分が移行したり、開腹術では開いたおなかから水分が蒸発したりなど)、「尿が出ません」と看護師さんから報告があれば、まず細胞外液(生理食塩水や乳酸化リンゲル500ml)を2時間ほどかけて輸液して、その反応を見ることが普通だった。


 その時の患者さんは、60~70代くらいの方で、COPD急性増悪、との病名で入院されていた方。もともとCOPDの方は痩せている方が多く(おそらく呼吸にエネルギーを使うのだろう)、この方も痩せていて、少しカサカサと乾いた感じの印象だった。急性増悪の原因は気管支肺炎で、抗生剤を使って炎症反応も良くなってきたころだったある日の午後、病棟から

 「患者さんの尿量が少ないです」

 と連絡があった。ちょうど別の患者さんの処置をするところだったので、

 「ラクテック(乳酸化リンゲル)500mlを2時間で点滴してください」

 と伝え、処置を行なった。処置が終わった後に患者さんを診に行こうと思っていたが、ERから呼び出しがかかり、ERで対応をしていると、病棟から

 「患者さんのSpO2が86%に低下して、患者さんがゼーゼーしています」

 と急ぎのコールが。慌てて病棟に行き、患者さんを診ると、坐位になってゼーゼーと苦しがっている。下腿浮腫はないが頸静脈は坐位でも怒張しており、胸部レントゲンでは明らかなbutterfly shadowを呈しており、明らかに心不全だった。500mlの点滴ではあったが、COPDでおそらく元々cor pulmonareを来していて、心機能そのものが落ちていたのであろう。

 「しまった!外科と同じようにしてはいけなかったんだ!」

 とひどく後悔し、すぐに指示を出した。おそらく今は、まずNPPVを装着し、バイタルからクリニカルシナリオを評価、おそらくCS1だと思うので、NPPVをつけ、硝酸薬を投与するのが適切だったのだろう。しかし当時はNPPVもクリニカルシナリオ、という概念も普及していなかったので、酸素を投与しながら利尿剤を静注。しかし反応尿は出ない。すでに時間は夜診/当直帯になっていた。

 「どうしよう」

 と途方に暮れ、鷹山先生に連絡したが、ちょうどその日の内科夜診は、担当医が師匠、鳥端先生、鷹山先生という布陣で、内科当直医が師匠、と、全く誰にも頼れない状態だった。最終的に、利尿剤と瀉血をして、何とか落ち着かれたように記憶している。先生方が病棟に来られた時は本当にほっとした。このことがあってから、高齢者の輸液には本当に慎重になった。今も、高齢の方の点滴指示はすごく考えている。


  医学の世界に100%の答えは存在しないから、指示の出し方について師匠から、

「その現場で『これがベストだ』と思って行なったことでも、後で問題になったり裁判になったりすることがあるんだ。だから、指示を出すときに必ず、「自分はこう考えてこの指示を出した」と説明できるように指示を出しなさい」

 と言われたことは今でも覚えており、今でも続けている(はず)。


そんなわけで、2年次の内科研修も、ドタバタしながら過ぎていったのである。

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