第26話 麻酔科でのトレーニング(九田記念病院編)

 人工透析科の次は、麻酔科のローテートだった。当時九田記念病院の常勤麻酔科医は手術室長の滝先生お一人で、後は滝先生のつながりで先生の出身大学麻酔科の先生が非常勤として来られることが多かった。時には医局人事ではなく、フリーランスと思われる先生もおられた。麻酔科については、それぞれの先生がトレーニングを受けた病院で若干の作法の違いがあり、A先生には

 「このようにして!」

 と怒られ、改めたことが、B先生には

 「そこは違うだろ!」

 とまた違ったことを言われ、戸惑うこともあった。とはいえ、その時は

 「まぁ、医療ってそんなものだろうなぁ」

 と思いながら研修を頑張った。


 「麻酔をかける」ということと「飛行機を飛ばす」ということは似ている、とどこかで聞いたことがある。心臓血管外科の麻酔や産科の麻酔など、特殊な麻酔はまた話が異なるが、一般外科の麻酔では、導入時には注意すべきことがたくさんあり、非常に気を遣う。一旦麻酔がかかって、手術中の時は、大きなバイタルサインの変化がなければ、麻酔量や鎮痛用の麻薬の微調整で済むことが多いが、時に大きなトラブルに遭遇し、全力で対処しなければいけないこともある。そして手術が終わり、麻酔から覚醒させる時もやはり非常に注意深く観察し、対処しなければならない。飛行機では離着陸は非常に気を遣うが、飛行中はほとんどオートパイロットで機械任せ、でもまれに飛行中に大きなトラブルがあると、パイロットは必死になって対応する、という点で確かに似ているように思う。


 現在では、「タイムアウト」と言って、患者さんが手術室に入室されたら、すべてのスタッフが一旦手を止め、氏名、年齢、術式(肺や腎臓、四肢の様に左右ある場合にはどちら側の手術なのかも含め)などを確認し、そこから手術に向けての準備を再開する、ということが基本になっているが、私が研修医の頃は、「タイムアウト」という概念がまだ広まっていなかった。

 それでも、患者さんが入室してこられたら、手術の担当科主治医だけでなく、麻酔科医も、本人のお名前、生年月日、年齢を確認していた。もちろん患者さんが来られる前に必ず麻酔器の点検、確認を済ませ、必要な薬剤はすべて用意しておいた。執刀チームが手術の準備をしている間に、患者さんに心電図の電極を付け、SpO2モニタを指に挟み、点滴をつないでいる方と反対側の手に血圧測定用のマンシェットを巻いて、麻酔の準備を並行して行なった。硬膜外麻酔の併用を行なう患者さんでは、初期研修医に硬膜外麻酔は許可されていないので、指導医の硬膜外挿入手技を見学させてもらっていた(硬膜外麻酔は患者さんの意識下で行ない、カテーテル挿入後は必ずテストドーズを投与し、脊髄麻酔になっていないことを確認していた)。私が中心として全身麻酔を行なう患者さん(もちろん後ろでは麻酔科の先生がつきっきりで見てくださっているのだが)では、血圧を観血的に測定する必要のある患者さんはいなかったので、気管内挿管以外に動脈ラインを確保したり、内頚静脈からCV lineを挿入するなどの侵襲的な処置をすることはなかった。硬膜外麻酔の挿入、テストドーズで異常がないことが確認できたら、患者さんには仰臥位になってもらい、麻酔器から100%酸素をマスクで投与し、全身麻酔の合図を待った。執刀医の先生から指示があれば、点滴路から静脈麻酔薬(使っていたのはほぼすべてプロポフォール)を体重に合わせて適切な量を注入する。すると患者さんは注入から数秒程度で意識を失い、自発呼吸も停止するので、麻酔器を使ってバッグマスク換気を行ない、気管内挿管を行なう。

 もちろん1年目の時から、ERで心肺停止状態で搬送されてきた方に気管内挿管は行なってきたのだが、予定手術での麻酔では、歯牙損傷など挿管に伴う合併症を起こすことは絶対に避けなければならない。なので、挿管の際の喉頭鏡の持ち方、喉頭鏡の挿入の仕方など、改めて一から指導を受けた。麻酔科で教わった丁寧な喉頭鏡の挿入方法を行なっても、雑に喉頭鏡を挿入するのと時間は数秒程度しか変わらない。そういう点でも、麻酔科で改めて気管内挿管のための喉頭展開法を教わったのは意味があったと思う。

 気管内挿管を行なった後、挿管チューブが適切に気管内に挿入されているかを5点聴診法で確認し、呼気CO2濃度も確認。呼気時にCO2濃度が上昇すること、気道内圧の変化が適切であることを確認して、適切に気管内挿管ができたと判断し、麻酔器での人工呼吸を開始する。挿管チューブを固定、吸入麻酔薬の投与を開始し筋弛緩剤も投与、口腔内の吸引と、必要があればNGチューブを挿入し、バイタルを測定して問題ないことを確かめ麻酔の導入は終了となる。その後は適切な体位を取れるように手術台や患者さんを動かして手術が開始される。

 麻酔科医はモニタで気道内圧、SpO2、呼気CO2濃度、心電図波形と心拍数、そして5分間隔でを測定し、適宜吸入麻酔の量や、指導医に指示を仰いで(僕らは麻薬使用者免許を持っていなかったので、指導医が投与の可否、投与量を指示する)フェンタニル(僕らの研修時代にはレミフェンタニルはなかった)の側注、輸液量の調整などを行ない、麻酔チャートに記録した。

 手術が終わり、閉腹に入ると、術野の様子を見ながら徐々に吸入麻酔薬を減量。閉腹が終了する直前に吸入麻酔薬の投与を終了し、酸素投与での人工呼吸を継続し、患者さんが覚醒するのを待った。患者さんが覚醒してきたら、麻酔器の人工呼吸を切ってバッグ換気を行ない、自発呼吸の回復を観察すると同時に、「リバース」と言ってワゴスチグミン(筋弛緩剤の効果を打ち消す)+アトロピン(ワゴスチグミンの副作用を抑える)を投与。覚醒度が上がり、自発呼吸もしっかりしてきたら、挿管チューブを抜管(担当の麻酔科の先生によって意見が異なっていたが、吸引抜管法を行なうことが多かった)。口腔内の吸引とカニュラで少量の酸素投与を継続し、安定していれば、手術室を退室,という流れであった。


 麻酔に必要な基本セットは透明の工具箱に収められて用意されており、自分の担当する手術室には必ず基本セットを持っていくことになっていた。


 研修医が触れることはなかったが、特殊な麻酔(心臓血管外科の麻酔など)は別の透明工具箱に用意されており、必要な手術には基本セットとともに手術室に持っていくこととなっていた。使用後は、定められた場所に返却すると、使用した薬剤などが新たに補充されて、また新しいセットの場所に戻される、という形になっていた。


 医学部の授業でも習ったことだが、手術は身体に強い侵襲を加える(お腹を開いて腸を切ったり、胸の骨を切り開いて心臓を止め、心臓の壊れた弁を交換したりなど、普通では死んでしまうようなほどの侵襲)ので、麻酔がなければ、手術に対する侵襲だけでなく、その侵襲に対する身体の防御反応でも、身体がダメージを受け、命を落としてしまう。麻酔をかける、ということは、本来起こった侵襲に対して発生すべき、身体の防御反応を薬で抑えることで手術をより安全に行うことができるようにする学問である。本来起こるべき防御反応を抑えるということは、患者さんの命を、より死の側で管理している、ということでもある。そういう点で、麻酔科は蘇生科でもあり、ICUなどの集中治療室も、麻酔科が管理している病院は多い(九田総合病院のICUでは各診療科がそれぞれの診療科の患者さんを管理していた)。命を守る、ということでは呼吸の状態、循環の状態を把握、管理し、適切な状態に持っていくことがその本質であり、そこを適切に管理する、ということが麻酔科という診療科の醍醐味であると私は思った。


 非常勤で来られている先生の中で、大学病院の教員でもあった井上先生は、説明が上手で指導を受けて非常に楽しく、先生の話を聞くたびに、麻酔科学って面白いなぁ、と強く思った。またそれだけではなく、井上先生が心臓血管外科の麻酔に入られた時は、

「今日は申し訳ないけど、麻酔中は話しかけないでくれ。心臓血管外科の麻酔は、もうそれに集中しなければやってられないんだ」

とおっしゃられ、確かに心臓が露出され、PCPSをつけて心臓を止めようという段階になると、こまねずみのように激しく動かれ、次々と薬の調整、輸血などなど目まぐるしくたくさんの薬剤、麻酔量、輸液量、輸血量などを調整されていた。医学部時代から、その時まで、処置をされる先生が、どのパラメーターを見て、何を考えてその処置をしたのか、その思考過程を追いかけられなかったことは(経腟分娩以外)なかったのだが、この時だけは、井上先生が何を考えてその処置をしているのか、頭の中でも追いつかなかった。専門性の高い仕事って、こういうものなんだなぁ、とその高度な専門性にも感銘を受けた。


 井上先生からは論文にはなっていない、教科書にも書いていない色々なことを教えていただいた。例えば、オピオイド(麻薬)部分作動薬であるペンタゾシン、開発当初は依存性はないとされていたが、のちにモルヒネ以上に依存性が高いことがわかり(実際に夜間、ペンタゾシン依存の患者さんが来院され、あの手この手でペンタゾシンを打ってもらおうとすることに対応することがしばしばであった)、井上先生のご経験では、最短で、3回ペンタゾシンを使ったら、すっかり依存になってしまったことがある、とのことであった。そのような話を聞くと、そうそうペンタゾシンは使えない。適応をしっかり考えるようになった。またこれはご自身の身体で実験されたそうだが、循環器、呼吸器に問題のない健康成人(井上先生)に1時間で3.5Lの細胞外液を負荷したが、たくさんトイレに行く以外には無症状だったそうである。

 「保谷先生、だから、循環器、呼吸器系、腎機能に問題のない健常な若い患者さんでは、それだけの輸液負荷に耐えられるだけの予備能を持っているんだ」

 ということを教えてくださり、これは、今でも自分の中に残っている。若い患者さんで、熱中症の時期などに強い脱水症で来院される方がおられるが、そういった方にはあまり恐れることなく、多量の細胞外液の補充を行なうことができるようになった。

 ただし、高齢の方は当然例外で、その後内科2年次研修中の話であるが、脱水と思われる70代後半のCOPDを持つ患者さんが、尿量が減っていると聞いたときに、細胞外液を4時間かけて800ml点滴したところ、ひどいうっ血性心不全を来たしたことがあり、その時には本当に怖い思いをした


 急患の緊急手術の際も、呼び出しがかかって手術室に入るのだが、その際の麻酔導入、気管内挿管はリスクが高いので、麻酔科の先生が行なってくださっていた。多くの場合、食事をとってあまり時間の立っていない"full stomach”の状態なので、予定手術の様に麻酔をかけてから気管内挿管をすると、気管内挿管前に胃の内容物が嘔吐されて化学性誤嚥性肺炎(Mendelson症候群)を来すため、のどぼとけである甲状軟骨を圧迫(”Cricoid pressure”)しながら、意識下に挿管を行ない、確実に気道が確保できた時点で静脈麻酔をかける”Crush Induction”という手法をとることが多かった。そのような症例を何例か見せていただいたが、一度、90歳代と高齢の方の腸閉塞緊急手術の際、Crush inductionで麻酔を導入したのだが、喉頭鏡での喉頭展開が相当しんどかったのだろうか、挿管直後に心電図波形が変化し、急性心筋梗塞様の変化をきたした(本当に急性冠症候群を発症したか、たこつぼ心筋症だったのか?)。

 ニトロ製剤の静注で心電図波形は元に戻ったことと、緊急を要する手術だったので手術は継続されたのだが、術後、外科から循環器内科にも紹介があり、手術中の心筋梗塞についてwork up、followされた患者さんもいたことを覚えている。


 九田記念病院での麻酔科研修ではどうしても、産科麻酔や小児科麻酔がなく、その所が経験不足となる、との麻酔科部長 滝先生の判断で、2か月目は滝先生の母校である某大学医学部付属病院 麻酔科で研修、となっていた。



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