第22話 産婦人科研修(2)
話を元に戻そう。20例の分娩、数は少ないが、大事な症例をいろいろ勉強させてもらった。医学的なことでは、正常な経腟分娩だけではなく、児頭骨盤不均衡(子供の頭が、お母さんの産道よりも大きくて、経腟分娩できない、これは帝王切開をせざるを得ない)の症例も診ることができた。若いお母さんの初産だったが、陣痛が始まっても、子供の頭が降りてこない。「すぐ骨盤のレントゲン写真を撮って」と指導医が指示し、レントゲンを確認すると、骨産道-1.5cm<児頭径(-1.5cmは、骨の周りには筋肉などの軟部組織があるため、その分を差し引くのである)となっており、産道よりもbabyの頭が大きいことが明らかとなった。破水もしていたので、緊急帝王切開となった。産科麻酔では、全身麻酔は胎児にも麻酔がかかるため、あまり好まれない。緊急手術のため、脊髄麻酔を行なって、児を娩出した(もちろん私は見ることしかできないのだが)。帝王切開では児の娩出を急ぐため、消化器外科の待機手術の様に各筋層を確認して切開、というよりも、バサバサバサッとおなかを切っていって、児を娩出し、そのあとで各層を丁寧に縫合していくのだが、子宮も含め、各層をきっちり同定し、縫合していくのは見事で、ある種とっ散らかった創部が整理され、綺麗に縫合されていくのはすごい、と思った。
離島独特の社会的問題にも直面した。離島には産科の医師のいない島も複数あり、その島の妊婦さんは、妊婦健診のたびに産科医のいる島に通うことになり、臨月となると前もって入院し、分娩を待つこととなっていた。おそらく臨月に至らない段階で産科的緊急性の高いトラブルが起きた場合には、飛行機などで搬送されるのだろう。離島で生活している方の苦労の一端を垣間見ることができた。
妊婦健診でfollow中は特に大きな問題のなかったbabyちゃんが、出生後、酸素の状態が不安定で酸素投与が必要な状態となった。指導医からレントゲンを撮るように言われ、レントゲンを撮影すると、心臓が右向き、胃泡(胃の中のガス)は左向きと内臓逆位があった。できた写真をシャーカステン(レントゲンを見る機械)にかけ、指導医を待っていると、突然後ろからキックが飛んできた。
「お前は右も左もわからんのか!!」
と指導医が怒りながら、写真をひっくり返した。指導医は私がレントゲンをかけ間違えたと思ったようである。足が出たのは、前章でも書いたとおり、外科系医師の習性であろう。とにかく私は声を失ったが、いずれにせよ、babyちゃんの状態は良くないのは明らかであり、当院には小児科医がいない、とのことで県立病院にbabyちゃんは転送となった。数時間後、指導医から
「あぁ、保谷。さっきの子供、内臓逆位があって心奇形もあったって、県立病院から連絡があったぞ」とのこと。
「ほら、僕のレントゲンのかけ方は間違えてないじゃないか!」
と内心思ったのだが、指導医はその時には私にキックを食らわせたことは覚えていないようだった。結局私の蹴られ損であった。
この離島の県立病院には、医学部時代の同期が数人ローテートしていた。大学時代に仲が良かった友人の国広君も県立病院にローテート中で、彼は外科の研修中だった。お互いに緊急呼び出しがあるので、
「お酒は飲まずに一度ゆっくり飯でも食おうぜ!」
と約束し、彼が店を予約してくれた。店に入って、お茶で乾杯。突き出しが出たところで私の携帯電話が鳴った。
「先生、お産です」との連絡。
「せっかくやのに、ごめんね」
とお金を置いて帰ることとなった(残念なことに、大急ぎで病院に戻ったのだが、病院に戻った時にはもう生まれた後だった)。
後日、彼にお詫びの電話を入れると、突き出しの後、前菜が出てきたところで彼にも緊急手術の呼び出しがかかったとのこと。それなりのお金を払ったのに、お互いにまともに食べることができずに帰る羽目になっていたのだった。まぁ、この仕事をしているとしょうがないことである。
その年の年越しは、その島で迎えた。元日、妻から
「そこに座って」と、正座で言われた。
「俺、何か悪いことしたかなぁ」
と思っていると、あるものを見せられた。そこにあったのは、陽性を示す妊娠検査キットであった。その後、妻に何を言ったのか、もう覚えてはいない。産婦人科研修中に僕たちに子供がやってきたのは、何か意味があったのかもしれない。
とにかく、妊娠したようなので産科で診てもらわなければいけない。というわけで、私が研修中の外来に妻が受診することになった。妊娠は、経腟エコーで子宮内に胎嚢があることを確認することで確定、となるのだが、デリケートな検査なので、これまで全く経腟エコーをしたことがなかった。おもむろに指導医が、
「ほれ、お前がエコーをしろ!」
と経腟エコーをするよう指示した。これまでしたことがないので、どのようにするのかよくわからない。恐る恐るエコーを挿入したが、指導医から
「もっと奥まで!」
と指導が入り、指導医が私の手をつかんで、奥の方までグッとエコーを進めた。これは妻にはかなりきつかったらしく、その後、しばらくは
「エコーを突っ込まれた時はおなかがグエッとなった」
「私は実験台にされた」
とぼやいていた。指導医が手を貸してくれ、適切な位置にエコーを持っていくと、小さな袋が見えた。胎嚢だ。
「妊娠していますね。おめでとう」
と指導医は妻に声をかけ、今後の通院の予定を説明した。その後は、産科研修が終わるまで、妊婦健診は指導医が担当してくださり、研修が終わりに近づいたころの最後の健診で、地元の産科でfollowしてもらえるよう紹介状を書いてくださった。
その島出身の医学部時代の友人から、
「やはり島は暖かくて、正月も半袖で過ごすこともあるよ」
と聞いたことがあった。確かに年末は比較的暖かく、長袖のカッターシャツ1枚で十分過ごせるほどだった。また年末は妻も元気で、私の仕事中はいろいろお散歩に出かけていたと聞いていた。しかし、年が明け、妊娠がはっきりしてから数日後にはつわりが始まり、毎日しんどそうになった。また、年が明けてから急に寒さも強まり、持ってきた服では寒さが堪えることも多かった。海も荒れていて、ひどい時化が数日間続くと如実にスーパーの生鮮食品が減ってくるのは、やはり離島ならではだなぁ、と実感した。
宿舎の前に国道が走っていて、道の向かいにお寿司屋さんがあった。妻と二人で
「いつか行こうね」
と約束していたのだが、延び延びになっていた。研修期間がそろそろ終わるころ、ようやくお尻に火がついて、清水の舞台から飛び降りる気分で行くことができた。お寿司はおいしく食べられたのだが、妻が、いつもの習慣で最後にガリを食べたところ、急につわりが襲ってきたらしく、急いで自宅に戻ると食べたものを全部嘔吐してしまい、
「もったいない~!」
と嘆いていたことも覚えている。
そんなこんなで産科研修を終え、行きは2人で、帰りは2.5人で九田記念病院に戻った。
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