第21話 夏休みと、産婦人科研修

 古くから初期研修医を受け入れてきた九田記念病院は、初期研修医に対する制度もある程度確立していた。初期研修医も他の先生方と同様に正職員として扱われ、年に一度1週間の夏季休暇が与えられる。ただし、「夏季休暇」といっても、本当に夏に休暇を取るのは部長クラスの先生方で、初期研修医はなかなか休暇をとるタイミングが難しく、「夏季」とは言えない時期に休暇をとることになることが多かった。先に述べたとおり、私は1年次の後半は外科2ヶ月、産科 2ヶ月、外科 2ヶ月というスケジュールだった。

当院の産婦人科が撤退したので、研修委員長である師匠が東奔西走し、何とかいくつか産科研修をできる病院を用意してくださった。私は、とある離島にあるグループ病院の穂愛総合病院産婦人科に派遣されることになった。長期間の出張となり荷造りなども必要なので、外科前半の最後1週間を夏季休暇とすることにした。なので夏季休暇、といっても12月に取ることになった。


 それまで、3日に1回の当直だったので、学生時代に結婚した妻と一緒に生活していても、妻と夕食を食べ、お風呂に入ればそのまま布団に倒れこんで、ワシントンマニュアルなどで勉強しながら寝落ち、朝は6時ころに起きて朝食を妻と食べてから出勤、当直の日は妻が一人で過ごす、という生活が続いていた。妻のことを考える余裕もない生活を続けていたが、この夏季休暇で睡眠不足を解消し、荷造りをしながら、少し妻とゆっくり過ごす時間ができた。


 穂愛総合病院へは妻と一緒に赴任した。これは子供がおらず、妻も仕事をしていないからできたことでラッキーだったのだが、病院が用意してくれた宿舎が個人用のものしか空いておらず、8畳のワンルームマンションに二人で生活をすることになった。とはいえ、学生時代にすんでいたアパートを思えば、虫が降ってきたり、雨漏りがしないだけでもとてもありがたいことだった。


 穂愛総合病院では常勤医が一人でお産を請け負っていた。同島には県立病院もあり、島内でお産ができる病院はこの2病院と、個人の産科医院が2か所だったように記憶している。常勤の先生は月に一度週末に自宅に戻られる。その時は他の離島から応援の先生(お産もできる小児科医)がお見えになられていた。また、漢方外来を担当されていた非常勤の先生も、もとは産婦人科の先生だったそうで、1度、お産が2人同時に始まった時は、その先生もお産を手伝ってくださった。

 産婦人科研修ということで赴任したので、僕らの病院グループの伝統であるER当直は免除、その代わり研修中は24時間常に待機で、お産の連絡があればすぐ病院に駆けつけることとなっていた。


 厚生労働省の規定では、初期研修時にお産20例を経験し、そのレポートを提出すること、となっていた。なので、何としても研修期間内に20例を経験しなければいけないのだが、これは相手のあることなので、こちらがジタバタしても何ともならない。実際、産科研修が半分過ぎたところで、経験数4例だったので、冷や冷やしていたのだが、その後、お産が増え、無事に20例経験することができた。


 産科での生活は、9時から外来が始まるので、褥婦(産後の女性)が入院しておられれば、外来が始まるまでに回診し、産後の経過が順調か、子宮の高さが順調に下がってきているか、排尿や排便に問題がないか、発熱していないかなどを確認、babyちゃんにも問題ないか(小児科研修をしていないのでよくわからなかったが、ミルクをよく飲んで、熱もなく、酸素化も良ければ問題ないのだろう、としていた)を確認した。そして9時から外来開始。指導医の横に座って、診察を見学、胎児が小さいときは経腟エコーで頭殿長など、胎児が大きくなっていれば腹部エコーで胎児の大腿骨長など、各種計測を行うのでそれを見学(研修最後の方では、少し腹部エコーをさせてもらった)、12時過ぎまで外来を行ない、昼食。昼食後は週に2回、漢方外来があるのでそちらを見学、また夕方に回診を行ない17時過ぎには帰宅、というスケジュールであった。宿舎から自宅まで歩いて5分程度、すぐ近くに24時間スーパーやコンビニもあり、日常生活にあまり困ることはなかった。先に述べたとおり、当初はお産が少なく、呼び出しもなかったことから、仕事を始めてから初めての穏やかな日々を妻は喜んでくれていた。


 上記のようなことを書くと、産婦人科は楽な診療科に見えるかもしれないが、実はこうした、定期的な妊婦健診、褥婦の管理、また新生児については小児科学・新生児科学の進歩で、妊産婦死亡率、新生児死亡率が著減していることを決して忘れないでいただきたい。


「妊娠出産は自然のこと」と考え、「子供が元気で生まれてくるのは当たり前」と今の日本人はほとんどの人が思っているが、「妊娠出産は自然のこと」であっても、「子供やお母さんが元気」なのは決して当たり前ではない。妊娠中、分娩中のちょっとした異変に対して、産科医が速やかに介入することで安全な出産ができているのである。ちなみに妊産婦死亡率については、統計に残っている20世紀初頭のデータでは妊産婦10万人当たり、約400人が死亡(大雑把にみて、妊産婦さん250人に一人が死亡)、手元にある資料では2016年では妊産婦10万人当たり、3.4人が死亡と、死亡率は1/100に減少している。乳児死亡率については20世紀初頭では出生1000人当たり155.0人(約20人のbabyちゃんのうち1人が生後1年以内に亡くなっている)なのが、2017年統計では出生1000人当たり1.9人と、これも約1/100に著減している。ある程度、医学の知識が集積されてきた20世紀の初頭でも、これだけの母体死亡、babyちゃんの死亡があったのだ。お産を自然に任せるとさらにリスクは上がるであろう。分娩にどれだけのリスクがあるか、よく分かると思われる。

 どうか、「子供が元気、お母さんも元気でいるのが当たり前なのは、産科医、小児科医のおかげである」と認識を改めていただきたいと強く思っている。


 お産ということに絡むので、私事ではあるが長男の分娩のことを記載したい。妻と付添分娩を約束していた僕は運悪く当直の日に妻が破水、入院となった。教科書的には初産婦は分娩に平均約24時間かかる、とされている。当直に入って、18時ころに義母から「破水したので病院に来ています」と聞いて、「じゃぁ、当直明けに休みをもらって妻の分娩に付き添おう」と考えていたのだが、21時ころ、夕食の休憩中に義母に連絡すると「子宮口が全開大になっています」とのこと。これはまずい。すぐ行かなければ、と急ぎER当直の先生方、内科当直の先生にお願いして帰らせてもらい、産科医院に向かった。

 産科で義母と交代し分娩室へ、のはずが、その日は分娩室が立て込んでいて、2室ある分娩室がすでに両方とも埋まっており、看護師さんに連れられて行くと、妻は手術室でお産に頑張っていた。入室させてもらい、職業柄つい分娩監視装置(以下CTGと略す。母体の子宮収縮と胎児の心拍数をモニターする装置)を見てしまう。CTGでは「遅発一過性徐脈」が見られた。このパターンは胎児がへばってきているとき(細かく言えば、子宮胎盤循環不全)に見られる変化である。「まずい」と思ったが、この場所では僕は医師ではなく、分娩中の奥さんの付き添いに過ぎない。もちろんよろしくない状態なので、産科の先生は妻に注意を払って、そばにいてくださっている。子宮口は全開大なので、陣痛の波が来るたびに、

 「はい、頑張っていきんでください」

 と先生が声をかけ、妻も全力でいきんでいる。全力でいきんでいるので、顔色が赤くなり、次第に紫になるほど頑張っていた。これほどお母さんの顔色が変わることは産科研修中には一度も経験がなく、大変驚いた。それだけ妻は頑張っていた。しかしBabyはなかなかスムーズに降りてこず、CTGもよろしくない。

 「ああ、母体に酸素投与をして、babyちゃんに酸素を」

 と思う間もなく先生が妻に酸素投与を開始した。さすがはプロである。その後も繰り返し妻は、顔が紫色になるまでいきんで、頑張っていた。妻も頑張り、babyちゃんも頑張っているが、とうとうbabyちゃんの心拍そのものが落ち始めた。

 「babyちゃんが本当にへばってきた。これは非常にまずい」

と思った瞬間、先生からスタッフに

 「次に吸引分娩で出すから、すぐ用意して」

と指示が飛んだ。そして次の陣痛の波が来た時、

 「お母さん、いきんで!」

 という声と同時に、先生がbabyちゃんの頭に吸引器を付けて引きずり出してくれた。分娩がスムーズに進まなかった原因は臍帯巻絡(へその緒が首に巻き付いていた)、babyちゃんは予想通りずいぶんへばっていて、胎便を排便していた。新生児は、全身状態が非常に悪くなると、腸の中にたまっている「胎便」を排便してしまう。胎便が混じった羊水をbabyちゃんが吸引してしまうと、「胎便吸引症候群(以下、”MAS”と略す)」と呼ばれる呼吸障害を生じ、NICUでの管理が必要になることが非常に多い。私たちのbabyちゃんもMASを起こすのでは、と本当に心配した。繰り返しになるが、胎便を排便した、ということは、babyちゃんも命にかかわる状態だった、ということを意味している。Babyちゃんはすぐに産声を上げ、すぐに血色も良くなり(Apgarスコア1分で6点、5分で9点)、結局その後はMASを起こすことなく、元気な状態で過ごした。妻も、胎盤の娩出後、出血はひどくなく、すぐ落ち着き、翌日には母子ともに元気な状態となっていた。

 長男の分娩の表面だけを見ると、破水(16時ころ)から9時間で出産(先ほど述べたとおり、初産婦の分娩時間はおよそ24時間)、母児ともに健康で、予定通りに退院、と非常に安産に見えるが、もし医学が発達していなくて、分娩のすべてを自然に任せていたら、長男は死産、場合によっては妻の命も危なかったかもしれない。私は内科医で、産科医ではないが、少しばかり勉強したから、その危険性がよくわかる。

 繰り返しになるが、「妊娠出産は自然なこと」ではあるが、「けっして安全なものではない」ということを心にとどめてほしい。昭和初期は、基本的に兄弟の数が多かった。小学校の社会の授業でも、社会は成熟とともに、「多産多死」→「多産少子」→「少産少死」へと移行し、それによって人口ピラミッドの形態が変化していく、と学習するが、もとは「多産多死」だった、ということを考えてほしいと思う。ある地方の言い伝えには、「子供は6歳までは神様のもの。親がいい加減なことをすれば、すぐ神様が子供を取り返しに来る」とか、「『つ』の付く年(3つ、とか9つ)の間は子供は神様のもの」というものがあったと聞いたことがある。それほど子供は亡くなりやすかったのである。


 現在、妊娠、出産に対して、様々な考え方があり、選択肢もたくさんある。それをすべて否定するつもりはないが、どうかお願いしたいのは、助産院で出産するなら、異常時には必ず速やかに産科医と連携が取れるところで、ということ。心にとどめてほしいのは、いくら妊娠中の経過が良好で問題がなくても、私の長男がそうであったように、死産や高度の後遺症を残すか、元気に生まれてくるかを分ける時間はその長い経過の中のほんの数分であること。もし長男を引きずり出したのがあのタイミングではなく、次の陣痛になっていたら、長男はこの世にいないか、高度の脳性麻痺を起こしていることだろう。母子の命を助けてくれた産科医の先生に心から感謝している。


 脱線してしまい、ずいぶん長くなってしまったので、次の章に移ることにする。

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