第17話 何ができたのだろう……

 ER研修中、2年次研修医の松田先生が一時、ER研修ということで、僕らと一緒に仕事をされた。なのでその時期はERの日勤Dr.が5人(石井先生、香田先生、松田先生、ぶっちゃん、僕)となったことがあった。ちょうどお盆のころだっただろうか?


 ある日、ホットラインが鳴った。30代女性の方で主訴は遷延する嘔気とのこと、救急車を受け入れ、僕が診察し、松田先生がsuperviseしてくださることになった。


 救急車で搬送され、ERのストレッチャーに移された患者さんを診察しようと、ご本人に近づくと、僕の両肩をガシッとつかみ、強く僕の身体を揺さぶりながら

 「先生、吐き気が止まらないんです!しんどいんです!どうにかしてください!」

 と大声を出され、やや取り乱している印象だった。患者さんのお母さんも救急車に同乗されており、これまでの経過を確認した。


 患者さんは数年前、咽頭後壁膿瘍に罹患、大学病院に入院され治療を受けたとのこと。その際に医師から「命を落とす可能性もある病気です」と説明を聞き、「死ぬかもしれない、死ぬかもしれない」と心配していたら「死にたくなってきた」とのこと。精神科を受診し、うつ病との診断で現在も治療を受けておられると。

 嘔気については数か月来症状は持続しており、他病院で頭蓋内、胸腹部のCT、上部、下部消化管内視鏡、ホルモンを含めた血液検査、妊娠反応の除外など、嘔気を発生させる疾患について可能な限り原因となる疾患を調べたが、明らかな嘔気の原因となりうる身体疾患は見当たらなかったそうである。その結果も含め、精神科の主治医に報告し、投薬を受けていたとのことであった。お薬手帳を確認すると、制吐剤や消化管の運動を亢進させて嘔気を改善する作用を持つ抗精神病薬や抗うつ薬、minor tranquilizerなど処方されていた。残念なことに2日後までかかりつけの精神科クリニックが夏季休業中であり、本人の症状の訴えも強く、救急車を呼んだ、とのことであった。


 身体診察では、気持ちの高ぶりがあるが、空えずきや嘔吐は認めず。結膜に貧血、黄染なく、頚部リンパ節の腫脹圧痛を認めず。甲状腺腫を触れず。心音、呼吸音に異常を認めず。腹部は平坦、軟、触診で腹部に腫瘤を触れず。腹部の自発痛、圧痛を認めず。打診は軽いtympanicな印象であった。下腿浮腫は認めなかった。神経学的所見では、ERでの診察の範囲では特記すべき巣症状を認めなかった。


 松田先生と相談し、乳酸化リンゲルを点滴し、血液検査と腹部エコー検査を行なうこととした(若い女性でイレウスを示唆する所見がなかったので、腹部CTで得られる情報は少ないと判断した)。検査ではやはり特に問題となる所見はなく(見逃しやすい高カルシウム血症や高マグネシウム血症も確認した)、腹部エコー検査でも特記すべき所見を認めなかった。臨床経過からも、身体疾患に伴う嘔気よりも、うつ病など精神的疾患による嘔気の可能性が強いと判断した。松田先生も同様のご意見だった。


 香田先生に、症例の報告とカルテの確認をしていただき、自宅での療養可と指示をいただいた。採血結果、エコーの検査の結果説明を行ない、

 「嘔気の症状は強く、大変お困りだと思うが、当院での検査結果からは、身体疾患に起因する嘔気の可能性は低く、他院での検査結果などを踏まえても、心の病気に起因する嘔気の可能性が高い」

 と説明した。

 「かかりつけ医の夏季休暇が終わったら、必ずすぐにかかりつけ医を受診し、症状を相談してください」

 と伝え、点滴終了後、帰宅とした。


 その日は、僕は当直明け、松田先生は当直日だったので、定時で私は終了、

 「松田先生、頑張ってくださいね」といって帰宅した。


 翌朝、ERに出勤すると、何となく松田先生が元気がない。ERの雰囲気も微妙だった。何があったんだろうと気になりながら、ER日誌を確認すると、大変なことが起きていた。


 私と松田先生で診察した患者さんが、午後8時ころ、再度救急搬送されていた。今度はCPA(心肺停止状態)で。


 慌てて電子カルテを開けて、カルテを確認すると、午後8時ころ、お母さんが、患者さんの居室を覗いたところ、首をつっていた患者さんを発見。急いで救急要請。当院に搬送し、CPR(心肺蘇生術)を行なったが、心拍再開せず、死亡確認となっていた。


 日中に受診されたときは、希死念慮は口にされていなかった。もちろん、こちらから

 「死にたくなるほどしんどいですか」

 とも聞いていなかったのだが、当初感じた、いきなり僕の両肩をつかんで

 「しんどいんです」

 と揺さぶってきたときの違和感、やや興奮的な言動から衝動的に自殺を図ったのかもしれない。それはわからないが、僕らは何かその人の自殺を止めることができなかったのだろうか、とカルテを見て悩んだ。たくさんの心の薬を飲まれている方で、しかも対応した医師(少なくとも僕)はみんな身体科の医師で、向精神薬に精通しているわけでもない。薬の出しようもなかったし、何ともできなかったのかもしれない。


 松田先生も精神的には繊細な先生なので、先生のお心のダメージも心配だった(帰宅させた患者さんが、数時間後CPAで帰ってくるのは、すごいストレスだったと思う)。


 今でも、「どうしたらよかったのだろうか……」と答えの出ない出来事であった。

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