第14話 研修システムの大きな変化(その1)

 九田記念病院は20年以上前から初期研修医を受け入れており、内科、外科、整形外科については、ほぼ卒業生だけで診療科を成り立たせることができていたが、その他の診療科については、他の病院と同様に、大学から医師を派遣してもらっていた。


 臨床研修必修化によって、大学医局に人が少なくなってしまったために、大学からの派遣医が減少、あるいは引き上げとなる診療科が全国的に問題となっていた。その波は九田記念病院にもとうとうやってきた。臨床研修プログラムに必要な産婦人科が、秋に入るころに派遣医をすべて引き上げる、ということになってしまった。

 早い時期に産婦人科研修を終えていた同期は良かったのだが、私のように、年度の後半で産婦人科研修が予定されていた者は、研修先が未定になってしまった。少なくとも院外での研修になってしまった。


 同期のみんなは一様に動揺し、不安を感じたが、各人の意見は様々だった。ネガティブにとらえる人、批判的にとらえる人もいたが、僕はどちらかというと能天気だった。九田記念病院の所属する医療グループは大きく、

 「まぁ、どこかで何とかなるかなぁ。院外研修になったとしても、他の病院のことを知ることができるのはラッキーじゃないかなぁ」

 と、のほほんとしていた。もちろん師匠をはじめとする臨床研修担当のスタッフの苦労は大変だったと思うが、

 「自分は自分の置かれた立場で頑張ることだけ」

 と思っていた。


 もう一つ、院内の内科研修でシステムの変更があった。当院の外科研修医OBである鳥端先生が、

 「今度は内科で仕事をしたい」

 ということで当診に戻ってこられた。鳥端先生は、大学卒業後1年間、母校の形成外科で1年修業された後、実家に近い当院の外科で3年ほどトレーニングを受けられた。そののち、

 「総合診療を勉強したい」

 ということで、母校とは別の大学病院 総合診療科に移られ数年間トレーニングを積まれ、理由は定かではないが、当院に戻ってきたい、とのことだった。


 鳥端先生が帰ってこられ、先生が総合診療を志向されていたことから、院内の内科のシステムが変更された(外部への標榜診療科は変わらず)。これまでの循環器内科、消化器内科、一般内科・呼吸器内科の3科から、循環器内科、消化器内科、呼吸器内科、総合内科の4科となった。総合内科部長は師匠の狩野先生だが、総合内科の中心は鳥端先生、また、総合内科は教育内科の役割も担い、初期研修の内科4ヶ月はこれまでのローテーションから、総合内科4か月となった。総合内科の守備範囲は、各専門診療科の守備しない領域の疾患、場合によっては、その他3科の疾患についても手技を伴わないもの(高齢でCAGができない方の狭心症、心筋梗塞や、消化器癌の末期、緩和ケアなど)であれば、受け入れを行なうこととなった。


 それまでは、専門診療科の守備しない疾患については、日勤帯については、狩野先生が一般内科・呼吸器内科で受け入れ、当直帯は入院指示を書いた当直の内科医が受け入れていた。なので、循環器内科の先生が脳梗塞の患者さんを管理したり、膠原病疑いの患者さんを消化器内科医が管理する、ということになっていた。鳥端先生が総合内科を立ち上げたことで、そのような患者さんは総合内科が一手に引き受け、その他の診療科が専門診療に専念できるようになった。


 研修途中でもフレキシブルにシステムを変更できるのは、長年の研修医教育のノウハウがあるからだと思って、僕は好意的に受け取っていたのだが、システムの変更に振り回されている、と不満を感じる同期もいた。とらえ方はいろいろである。


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