第7話 誰か医者を呼んで~~!!

 新海チームで研修を始め、ほぼ毎日新入院の患者さんが増えていった。多くは高齢の患者さんで、誤嚥性肺炎、あるいは尿路感染症の方だった。ご自宅から入院される認知機能の低下の目立たない患者さんよりも、施設に入所されている、認知機能の低下した患者さんが多かった。ERから新入院の依頼があり、新海先生や、岸村先生と一緒にERに降りて、香田先生から引継ぎを受け、患者さんの診察をするが、問診しようとしてもご本人はお話しできず、施設から連れてこられた職員の方にお話を聞いても

 「さぁ、『〇△さんが九田病院に搬送になるから、ついて行って』と言われて来ただけなので、〇△さんのことはよく知らないです」

 と言われることも多かった。なので病歴は取れず、検査結果を見て診断をつけ、各種培養を取って入院してもらい末梢点滴、抗生剤の投与を開始する、という形で治療を開始する、ということが多かった。もちろんAdmission Noteを書くのにも苦労した。師匠のモーニングカンファレンスでも、症例発表に苦労した。


「主訴は?」

「発熱です」

「現病歴は?」

「本人がしゃべることができず、施設の付き添いの人に聞いても『わからない』と言われました」

「既往歴や服薬内容は?」

「既往歴は不明です。薬は施設からこの薬を持ってきていました」

「ROSは」

「取れません」

「う~ん、これでは、鑑別診断を絞るのは難しいなぁ。薬の情報はとても大事で、薬の内容から、ある程度基礎疾患が見えてくるから、必ず聞いてね。でも、この症例の診断は検査に頼らざるを得ないね」


となることはしばしばだった。


 同期とは、ER当直で一緒になった時に雑談をするが、ERも忙しいので、お互いに困っていることなどを話したりする余裕はなかった。初期研修医である僕たちは、ERの患者さんを診察し、投薬で治療可能と判断し帰宅、あるいは外科的な処置をして帰宅、と患者さんを返す時には、必ずその日のERリーダーの先生に確認をもらう必要があった。カルテを確認してもらい、帰宅OKと指示をもらってから帰宅してもらう、というルールであった。このルールは、臨床研修が必修化されてからできたルールであり、それ以前はリーダーの確認なしで帰宅させていたとのことであった。ただし、制度としてERリーダーの確認が必要になった、と言ってもERの仕事のスタイルそのものが変わったわけではなく、基本的には自分で患者さんの問診、身体診察を行ない、検査が必要であれば検査を行なう、という仕事の進め方は変わらなかった。

 常に初期研修医の診察には上級医がついて、というようなことには九田記念病院ではなかった。なので、もちろんわからないこと、できないことは上級医の先生にお願いすることになるのだが、仕事としては、医師として一人前の仕事をすることを要求されていた。僕らの病院グループでは、そのような形で伝統的に研修医教育がされており、例えば泳げない人に腰ひもだけつけて海に投げ込み、「それ、自分で泳いで岸まで行け!」と言われるような研修であった。本当におぼれかけたときは腰ひもを引っ張って助けてあげるけど、手取り足取りはしないよ、というスタイルだった。


 ER当直のないときは、僕自身は自分の担当患者さんの回診をして帰ろう、と決めていて、Admission Noteを書き終え、その日の仕事が終わった、と思ったら、一通り患者さんを回診して帰宅していた。


 新海チームに配属されて、1週間ほどたったころだろうか?その日は2人の新入院があり、Admission Noteを書き終えると21時ころになっていた。

 「あぁ、今日は当直明けだったけど、遅くなってしまったなぁ。じゃぁこれから回診して帰ろう」

と思い、回診を始めた。


 病院内の各病棟は、決して固定されているわけではないが、おおざっぱに担当診療科が決まっている。2階東病棟は小児科、産婦人科の患者さんが主に入院している。内科の患者さんでも若い女性の場合は2階東病棟に入院することも多い。2階の西側は手術室や心カテ室、ICUとなっていた。3階東病棟は主に整形外科の患者さん、3階西病棟は呼吸器内科の患者さんが主に入院していた。なので「狩野内科」のホームグラウンドは3階西病棟だった。4階東病棟は主に外科の患者さん、4階西病棟は主に脳神経外科の患者さん、5階東病棟は主に消化器内科を、また個室も多かったので僕ら狩野内科の患者さんもお世話になることが多かった。5階西病棟は循環器内科、心臓血管外科の患者さんが主に入院している、循環器の病棟だった。ただし、内科の患者さんは多いので、循環器内科以外の内科の患者さんは、必ずしも内科病棟に入院となるわけではなかった。空いている病室にどんどんと患者さんが入っていくので、患者さんが多くなると、結局全病棟を回ることになっていた。


 もちろん、まだ僕の患者さんは少なく、3階西、5階東にしか患者さんがいない。まず医局から近い3階西病棟から回診。みんな様子は変わらなさそうだった。そして5階東病棟につくと、夜勤の看護師さんから、

 「保谷先生、ちょうどよかったです。先生の担当している◇☆さん、20分ほど前から『胸が苦しい』と繰り返しているのです。先生、診てください」

 と言われた。

 患者さんは心房細動の併存症を持つ認知症の強い80代の女性の方で、あまり意思疎通は取れない方であった。今回は誤嚥性肺炎で入院、抗生剤で熱も下がり、血液データもよくなってきていた方だった。

 すぐベッドサイドに行き、

 「◇☆さん、どうしましたか?」

 と聞く。◇☆さんはこちらに顔を向けず、ずっと天井を見たまま、結構大きな声で

 「胸が苦しい、胸が苦しい」

 と繰り返していた。

 「どこら辺が苦しいのですか?」

 「いつ頃から苦しくなりましたか?」

 「どんな感じで苦しいのですか」

 と尋ねるが、ずっと天井を見たまま、

「胸が苦しい、胸が苦しい」

 と言い続けていた。胸部を聴診するが、心房細動のリズムでやや頻拍なこと以外には特に心音、呼吸音に異常はなかった。

 「何をしたらいいんだろう?どうしたらいいんだろう?」

と困り、チームの先生である新海先生や岸村先生にPHSを掛けるが、どちらもお帰りになられた後なのだろう、電話には出なかった。僕は途方に暮れて、30秒ほどフリーズしてしまった。

 すると看護師さんから、

 「保谷先生、心電図とりますか?」の助け舟が。

 「はい、お願いします。12誘導取ってください」

 とお願いし、電子カルテに心電図の指示を入力した。当直の検査技師さんがすぐに来てくださり、12誘導心電図を撮ってくださった。心電図を確認するが、頻拍性の心房細動があるが、心電図の波形そのものは入院時の波形と変わらず、心筋梗塞や狭心症などを積極的に疑うものではなかった。ただ、患者さんは相変わらず

 「胸が苦しい」

と言い続けている。おそらく心房細動で頻拍になっているのでしんどいのだろうと考えた。

 「心房細動で脈が速いときに使うのは…確かベラパミル」

と考えた時点で、またフリーズしてしまった。

 「ベラパミルって商品名は何だったっけ?どうやって使うんだっけ?」

と困ってしまったのである。


 医学部の授業では「この病気、この病態にはこの薬」というのは学習するのだが、一般名で学習するので、臨床現場で使われている商品名はわからない。また具体的にどれくらいの量を使用するのか、どの経路で使用するのか、ということも学ばない。なので、「ベラパミル」という名前がわかっても、商品名も、どの経路で、どれくらいの量を使うのかも、全く分からなかった。


 心の中で

 「誰か医者を呼んで~~!!」

 と叫んでいた。また30秒ほどフリーズしていたが、看護師さんが少しあきれた様子で

 「保谷先生、当直の先生をお呼びしますか?」

 とまた助け船を出してくれた(というか、『こいつ、役に立たないなぁ』と思われたのだろう)。

 「はい、お願いします」

 と即答した。そうだ、当直医の先生がいたのだ。そのことに気づかないほど一杯一杯になっていたのだ。


 しばらくして、循環器内科の坂谷先生が来てくださった。坂谷先生が今日の当直だったのだ。坂谷先生に状態を報告、心電図も見てもらった。

 「保谷先生、お疲れさま。あとは診ておくから、もう帰っていいよ」

 と言ってくださった。病棟に来てくださった坂谷先生がその時は神様のように見えた。と同時に、自分の実力のなさ(まだ普通の人に毛が生えたようなものだから、しょうがないといえばしょうがないのだが)も痛感した。


 この日から毎日、その日にできなかったことを家で振り返り、教科書やマニュアル本(ワシントンマニュアルなど)でどうすればよかったのかを確認し、次に同じ状況になったら、身体が動くようになるために、次は失敗しないように勉強をすることを自分に課した。少しでも自分の臨床能力を向上させ、患者さんの命を助けるために。

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