38:黒い夜に堕ちる

 今朝、薙くんから「風邪ひいたから学校休む」というメッセージが届いていた。

 今週に入ってからうんと寒くなったから、寒暖差にやられてしまったのだろうか。ゆうべも一緒にいたのに、彼の体調不良に気付いてあげられなかったなんて彼女失格だ。

 勇気を出して「お見舞い行きましょうか」と申し出てみたのだけれど、「うつしたくないから来ないで」と一蹴されてしまった。物分かりのいいふりで「わかりました。お大事に」と返したけれど、わたしはかなりしょんぼりした。

 ああ、心配だ。おばあさまがいるから大丈夫だと思うけど、ごはんとかちゃんと食べてるんだろうか。やっぱりこういうときこそ、わたしの血を飲むべきなのでは。

 ……なんていろいろ理由を並べたところで、結局のところわたしが薙くんに会いたいのだ。

 それでも、来ないでと言われているのに無理に会いに行くわけにもいかない。そんなの、全然「いい彼女」じゃない。

 わたしは一日ソワソワと落ち着かない気持ちで授業を終え、バイトに向かった。




「あのお客さん、また来てるね」


 フロアを覗いた栗原さんが、怪訝そうに眉を寄せた。

 今日は天気が悪いせいか、お客さんの入りはそれほどでもなかった。彼女の視線の先には、もはや常連である吸血鬼の男性がいる。

 彼はいつも夜の七時にやって来て、ドリンクバーで十時前まで粘るのが常だ。まるで値踏みするような目つきで、ホールスタッフのことをじっと見つめている。みんな気味悪がっていたけれど、実害はないので無視されていた。


「あのお客さん、絶対陽毬ちゃん狙いだよ。このあいだ陽毬ちゃんがシフト入ってないとき、〝今日はポニーテールの店員さんいないんですか〟って話しかけられたし!」

「ええ……?」

「いつも陽毬ちゃんのことジロジロ見てるし、陽毬ちゃんの上がり時間に合わせて帰ってくし!」

「そんな……偶然ですよ」


 そう答えつつも、わたしも少し不気味に感じていた。これまでに身の危険を感じたことはないけれど、彼の真っ赤な瞳に見つめられると、その場から逃げ出したいような気持ちになる。その奥にある欲の正体に、なんとなく気付いているのかもしれない。

 栗原さんはわたしの肩をがしりと掴むと、真剣な表情で言った。


「陽毬ちゃん、ちゃんと彼氏に相談した方がいいよ! いつもお迎え来てるんでしょ?」

「ええ、そうですけど……」

「彼氏に、〝俺の女に手を出すな〟とか言ってもらいなよ!」


 栗原さんの話を聞きながら、薙くんがそんなセリフを言うところは想像できないな、と思った。いずれにせよ、わたしは彼にこのことを相談するつもりはなかった。


「……いえ。彼には迷惑かけたくないので……」


 もし相談したら、優しい薙くんはきっと気に病むだろう。余計なことを言って、心配をかけたくない。それに、彼の同族である吸血鬼のことを悪く言うのも嫌だった。

 栗原さんはまだ何か言いたげにしていたけれど、そのときフロアからの呼び出しベルが鳴ったので、わたしは「オーダーいってきます!」と笑って誤魔化した。




 バイトを終えてスマホを見ると、薙くんからは「今日は迎えに行けないけど、くれぐれも気をつけてね」というメッセージが来ていた。その一文を見るだけで、ほんの少し心が暖かくなる。

 自分が風邪で辛いときなのに、どうしてわたしのことなんかを心配してくれるんだろう。


 ――おれ、ちゃんと陽毬のこと大事にしたい。


 薙くんはそう言っていたけれど、もう充分すぎるくらいに、大事にされていると思う。

 それでも、大事にされればされるほど、いつか手を離されるのが怖くなる。もっと素直に、彼の優しさを受け入れられたらいいのに……。


「お疲れさまでした」


 挨拶をして、裏口から外に出る。ささやくような淡い小雨が降る夜だった。吐く息がそのまま凍りつくほどに冷たく、霞のような雨が頰を濡らすのが不快だった。

 傘は持っていなかったけれど、コンビニで買うほどの雨でもない。少し悩んだけれど、わたしはダウンジャケットのフードをかぶってそのまま歩き出した。

 久しぶりに夜道を一人で歩いていると、なんだかやけに静寂が肌に刺さる。薙くんと手を繋いでいるときは、静けさも心地良く感じられたのに。昼間は眠そうで覇気のない薙くんの瞳が、闇の中で生き生きと輝くのを見るのが好きだった。

 音のない雨は、ゆっくりとアスファルトに染み込んでいく。吐いたそばから凍りつきそうな息が、白く溶けていく。何故だか得体の知れない不安が、じわじわと胸に広がる。

 フードをかぶっているせいで視界が狭く、わたしは周りがあまり見えていなかった。だから、後ろから何者かに覆い被さるように抱きつかれたときも、何が起こったのか一瞬理解できなかった。


「…………っ!?」


 本当に驚いたとき、人は声すら出ないものだ。喉の奥が引き攣ったように、ひゅーひゅーという息しか漏れない。

 数秒ののち、わたしはようやく「見知らぬ男に襲われている」という現状に気がつく。助けを呼ばなければ、と思ったところで、大きなてのひらで口を覆われた。


「動くな」


 男は低く、わたしにそう囁いた。言われるまでもなく、わたしの身体は凍りついたように動かなかった。恐怖のあまり、がくがくと膝が震える。

 視界の端に捕らえた男の瞳は、燃えるように真っ赤だった。薄く開いた唇から、ぞっとするほど鋭く尖った牙が見える。そこでわたしは気がついた。

 この人。いつもお店に来てる吸血鬼だ。

 ぱさり、とかぶっていたフードが脱げる。わたしの首筋が、無防備に男の前に晒される。男の息が荒くなるのがわかった。「はは」という、まるで笑いを堪えるような、ねばつくような不快な吐息だった。

 もしかするとこの男は、わたしの血を飲むチャンスを虎視眈々と窺っていたのだろうか。今までは薙くんがいたから、襲われずに済んでいたのだろうか。「もうちょっと危機感を持て」と口を酸っぱくして言っていた薙くんを思い出して、なんだか泣きたくなる。

 ……ごめんなさい、薙くん。もっとちゃんと、あなたの言うことを聞いていればよかった。

 次の瞬間、首筋に引き裂かれるような激しい痛みが走った。薙くんがいつも噛みついているのと、同じような場所だ。ずるずると液体を啜る音が耳元で響いて、血を飲まれているのだ、と気付く。

 まるで首から内臓を引き出されるような感覚がする。わたしの血液が、まるでただの食料のように、知らない男に欲望のままに吸われている。

 薙くんとは全然違う。吸血がこんなに恐ろしい行為だったなんて、今まで知らなかった。彼が今までわたしを傷つけないように優しくしてくれていたのだと、いまさら気がついてしまった。

 嫌だ。怖い。助けて。

 少し前までのわたしは、誰かに求められるなら、何だって差し出してもいいと思っていた。でも、今は違う。こんな風に、一方的に搾取されるのは絶対に嫌だ。自分の欲望を身勝手に押し付けてくるような男に、与えるものなんか何もない。自分を心の底から大事にしてくれる人だからこそ、全部あげたって構わない、と思えるのだ。


 ――おれ以外の奴に、血飲ませないで。

 ――他の誰にもあげません。約束します。


 ……約束したのに。薙くん。約束、守れなくてごめんなさい。わたしやっぱり、「いい子」になれなかった。

 ゆびきりげんまん、と彼と繋いだ小指を思い出す。もし嘘ついたらどうするって、薙くんは言ってたんだっけ。わたしのこと、嫌いになっちゃうのかな。


 ――おれ、陽毬が針千本飲むの嫌だよ。


 そうだ。あのときも薙くんは、やっぱり優しかった。

 鋭い牙で噛みつかれた箇所が痛い。痛みのせいか、ぽろりと頰に涙が流れるのがわかった。血を失いすぎたのか、頭がくらくらする。目の前が真っ暗になって、どんどん意識が霧がかったように遠のいていく。わたしはそのまま、深い深い闇の中にゆっくりと落ちていった。

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