39:振り払われた手
目が覚めたとき、わたしは病院のベッドの中にいた。
見慣れない白い天井をぼんやりと見上げる。病院独特の、薬っぽい匂いがする。腕には点滴の管が繋がれている。カーテンの向こうに柔らかな光を感じて、今は昼間だ、とかろうじてわかった。
わたしが目を覚ましたと知って、すぐにお医者さんが飛んできた。聞けばわたしはひどい貧血を起こして、道端に倒れていたらしい。不幸中の幸いというべきか、首の傷以外に外傷はなかった。
意識を失っていたのは半日ぐらいのことだったけれど、大事を取って三日間だけ入院することになった。体調が落ち着いた頃に警察がやって来て、あれこれ事情聴取をされた。不愉快極まりない記憶だったけれど、わたしは懸命に当時の一部始終を思い出し、男の特徴を伝えた。話を聞いてくれたのは若い女性警察官で、「絶対に捕まえます」と力強く頷いてくれた。
伯父はわたしが目覚めてからは、一度も病院に顔を出さなかったけれど、電話がかかってきた。「余計な迷惑をかけるな」という冷たい声に、わたしは「ごめんなさい」と謝った。伯母はわたしを心配してくれていたのか、着替えを持って来てくれたときに、「無事でよかった」と言ってくれた。ただそれだけのことで、わたしはほんの少し救われた気がした。
二日目の夕方になると、クラスメイトが来てくれた。みんなは口々に「早く元気になってね」と励ましてくれた。薙くんの姿は、そこにはなかった。
みんなが帰った後に、松永さんが一人でお見舞いに来てくれた。「大変だったわね」と言う彼女は痛ましそうな表情を浮かべていて、わたしを心配してくれたことが伝わってきた。
「……あの、松永さん。薙くん、学校に来てますか?」
他のみんなには訊けなかったけれど、わたしは松永さんに尋ねてみた。もしかすると、まだ風邪が治っていないんじゃないかと思ったのだ。
しかし松永さんは、フンと鼻を鳴らして「来てるわよ」と答えた。
「なんだか、いつも以上に死にそうな顔してるけど」
「そ、そうなんですね……」
薙くんは普段からあまり健康的な方ではないけれど、病み上がりだし、わたしの血を飲んでいないからまだ体調が万全じゃないのかもしれない。ああ、早く血を飲ませてあげたい。
ううん、本当は彼のためじゃなく――わたしのために。薙くんに血を飲んでほしい。あの男に植えつけられた忌まわしい記憶を、一刻も早く薙くんに上書きしてほしかった。
「……一番ヶ瀬さんは、その……こんなことがあったのに、やっぱり山田くんのことを怖いと思わないの?」
松永さんにしては珍しく、やや遠慮がちな問いかけだった。わたしは「思いません」と即答する。
「でも、血を飲まれて……怖い思いしたでしょう」
「そりゃ、怖かったですよ……でも薙くんに血を飲まれるのは、全然怖くも嫌でもないです」
「どうして?」
「……わたしは薙くんのことが、好きだから、です」
言ってから、そういえば薙くんの想いを口に出すのは初めてだな、と思った。拒絶されるのが怖くて、わたしは薙くん本人にすら自分の気持ちをきちんと伝えていなかった。
松永さんはわたしの返答が意外だったのか、驚いたように目を見開く。少し考え込む素振りを見せたあと、ふっと柔らかく微笑んだ。松永さんは冷たい印象を与える美人だけれど、笑うととても可愛いのだということを初めて知った。
「似たような話を、前にも聞いたわ。あなたたち、割れ鍋に綴じ蓋カップルだったのね……」
「どういう意味です……?」
「早く山田くんに会えるといいわね。じゃあ、私はこれで失礼するわ。お大事に」
松永さんはロングヘアを翻して、病室から出て行った。一人になった瞬間に、しんと居心地の悪い静けさが満ちる。
ふとした瞬間に蘇ってくるおぞましい記憶を振り払うように、わたしはベッドに潜り込んでぎゅっと目を閉じた。ああ、早く薙くんに会いたい。
それでも薙くんは、わたしが退院するまで、一度もわたしに会いに来なかった。連絡のひとつも、くれなかった。
退院した翌日に、わたしは登校した。連絡をくれた小早川先生には「万全じゃないならもう少し休んでも」と言われたけれど、わたしは「平気です」と答えた。一刻も早く、薙くんに会いたかったからだ。
ざわざわと騒がしい教室の中で、わたしは薙くんの姿を見つけた。ほんの数日ぶりだけど顔が見れたことが嬉しくて、きゅんと小さく胸が高鳴る。
自分の席に座った薙くんは、暗い表情で頬杖をついていた。松永さんの言う通り、今にも死にそうな――なんだかこの世の終わりみたいな、陰鬱なオーラを放っている。もともとそんなに陽の気を放っている人じゃないけれど、一体どうしたんだろうか。
すぐさま声をかけようとしたけれど、「陽毬ちゃん、大丈夫だった!?」「心配したよー!」とすぐにクラスメイトに囲まれてしまった。「心配かけてごめんなさい」と答えているうちにショートホームルームが始まって、タイミングを逃してしまった。
昼休みが始まってすぐ、薙くんは音もなく教室を出て行った。わたしは立ち上がると、慌ててその背中を追いかける。
今日の薙くんは休み時間のたびに煙のように姿を消して、一度も捕まえることができなかった。授業中も、ことあるごとにわたしの方から熱烈な視線を送っていたのだけれど、彼はこちらを見ようともしなかった。
パタパタとスリッパを鳴らして彼を追いかけながら、どうしようもない不安が襲ってくる。小走りで追いつくと、彼のセーターの裾を軽くつまんだ。
「な、薙くん」
薙くんは足を止めたけれど、こちらを振り向いてはくれなかった。相変わらず放つ雰囲気が暗くて、わたしは心配になってしまう。軽く息を整えてから、まず何を言えばいいのだろうか、と考えた。
どうしてお見舞いに来てくれなかったの? どうして連絡くれなかったの? どうしてこっち見てくれないの?
わたし、知らない人に襲われてすごく怖かった。今すぐ薙くんに抱きしめてほしい。
言いたいことはたくさんあったけれど、そんな風に問いただしたり甘えることなんてできるはずもない。わたしは悩んた結果、ようやく口を開いた。
「あの……か、風邪、大丈夫ですか?」
「……こんなときまで、おれのことかよ……」
薙くんの声は震えていた。頑なにわたしの顔を見ようとはせず、じっと何かに耐えるかのように下唇を噛んでいる。
「薙くん、顔色悪いですよ。わたし、もう元気なので……血、飲んでください」
わたしが言うと、薙くんは力なく首を横に振った。その場に突っ立ったまま、ぐっと拳を握りしめている。彼が怒っていることはわかるのに、何に怒っているのかわからない。足元の床が不安定になったみたいに、ぐらぐらする。
薙くんは虚空を睨みつけながら、絞り出すような声で、わたしに告げた。
「……おれ、もう陽毬の血は飲まない」
それは、紛れもない拒絶の言葉だった。鋭い刃がわたしの心臓をまっすぐ貫いて、じくじくと血が溢れ出す。首筋に噛みつかれたときよりも、ずっと痛い。
その場に立ちすくんでいるわたしを置いて、薙くんは歩き出す。少しずつ遠ざかっていく背中に、つい手を伸ばしてしまった。
「な、薙くん、待って……」
手を伸ばしたらダメだと、わかっていたはずなのに――薙くんはこちらを振り向きもせず、わたしの手を振り払った。
わたしを置いて行ったかつての母の姿が、今の薙くんに重なる。わたしは性懲りもなく、縋ろうとしてしまった。そしてまたわたしは、大好きな人に見捨てられてしまったんだ。
彼はもう、わたしのことを欲しがってくれない。いただきますもごちそうさまも、二度と言ってくれない。どうしようもない絶望感に襲われて、膝からその場に崩れ落ちた。
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