37:「いい子にしててね」

 薙くんとのお付き合いが始まってから二週間が経ったけれど、わたしはなかなか「いい彼女」ができているのではないかと思う。


 先週は、薙くんのためにお弁当を作ってあげた。いつもは適当に冷凍食品で済ませてしまうけれど、張り切って全部手作りにして、薙くんの好きなミニグラタンも作った。彼は「食べるのもったいないよ」と言いつつも、喜んで平らげてくれた。彼の喜ぶ顔が見れて、わたしも嬉しかった。

 薙くんがクラスの女の子と話していても、みっともなく嫉妬したりなんかしない。別れ際に、「もっと一緒にいたい」とか言って引き留めたりしない。「毎日連絡ちょうだい」なんてワガママ言わない。いつも優しくて、穏やかで、ニコニコ笑ってる懐の深い彼女。

 大丈夫。わたしまだきっと、いい子を演じられてる。

 それでも薙くんは、ときおりすごく悲しそうな顔でわたしのことを見る。もの言いたげに口を開いては、すぐに噤んでしまう。

 おそらく、わたしに何か不満があるんだろう。それでも理由がわからないから、わたしにはどうしようもできない。

 いつかまた手を振り払われてしまうのではないかと、不安で仕方がない。何も望まないから、ずっとわたしのそばに居て。そんなことすら言えなくて、わたしはただひたすらに「いい子」を演じ続けている。




 豆電球だけを点けた薄暗い部屋の中で、わたしと彼は寄り添って座っている。

 この部屋にはソファも座椅子もないから、畳の上に直に座るしかない。押し入れの中からブランケットを出してきて、二人で一緒に使った。十二月に入ってからぐっと冷え込みが厳しくなったせいで、ちょっとお尻が冷えてしまいそう。わたし一人だといいけれど、薙くんのためにクッションでも買うべきだろうか。

 今日もバイトが終わったあと、薙くんがわたしのことを迎えに来てくれた。手を繋いでわたしの部屋に帰って、それから血を飲まれたり飲まれなかったりする。していること自体は付き合う前と少しも変わらないけれど、わたしは幸せだった。

 薙くんはスマートフォンを睨みつけながら、何やら難しい顔で考え込んでいる。こっそり肩にもたれかかって覗き込んでみると、タイミングよく画面上部にメッセージの通知が見えた。「静奈」という名前がチラッと目に入って、わたしの背中がすうっと冷える。


「……しずな……?」


 わたしの呟きを聞きとめた薙くんは、慌てたように「いやっ、違っ!」と叫んだ。トーク画面を開くと、わたしに向かって見せてくれる。


 ――ナギ、ひまりちゃんと付き合い始めたんだって? 今度零児も入れて四人で遊ぼうよ。


「零児からおれと陽毬のこと聞いたらしくて、たまたまメッセージ送ってきただけだから。普段めったに連絡なんて来ないし。ほら、前のやりとりなんて二年も前だし」


 薙くんは必死さを滲ませながら言い募る。

 わたしの心中はあんまり穏やかじゃなかったけれど、ここは懐の深さの見せどころだろう。わたしは余裕の笑顔を取り繕った。


「大丈夫です。全然まったく気にしてません」

「……陽毬って、ヤキモチとか妬いたりしないの?」

「……妬きませんよ」


 実のところわたしはかなり嫉妬深い部類だと思うし、薙くんに女子の影が見えるたびに内心メラメラしてるけれど、それを表に出すわけにはいかない。

 澄ました顔で答えたわたしに、薙くんは何故だか残念そうに「そっかあ……」と項垂れた。

 もしかするとわたし、何か対応を間違えてしまったんだろうか。


「……ま、静奈のことはどうでもいいよ。陽毬、魚好き? 水族館とかさ、行きたくない?」


 そう言って、再びスマホの画面を見せられる。幻想的にライトアップされた水槽の中で泳ぐ魚の写真が表示されていた。

 最近隣町にオープンした水族館の公式ホームページだ。薙くんはちょっと申し訳なさそうに、頰を掻きながら続ける。


「おれ昼間にあんまりウロウロできないけど、ここなら暗いから平気だと思う。もし陽毬が行きたいなら、どうかなって……」


 どうやら薙くんは、わたしとのデートスポットを検索してくれていたらしい。さっきまでの真剣な表情を思い出して、わたしの頰は綻ぶ。わたしのために一生懸命調べてくれたことが嬉しい。


「素敵ですね! いいと思います」

「……よかった。クリスマスイブ、空いてる?」

「はい、もちろん!」

「昼間、二人で遊びに行こうよ。夜はクリスマスパーティするから、バアちゃんが陽毬のこと連れてこいって……あ、嫌なら断ってくれてもいいから」

「嫌なわけないです! ……でも、吸血鬼ってクリスマスとかお祝いしてもいいんですか?」


 そもそもクリスマスは、吸血鬼の天敵であるイエス・キリストの生誕を祝うものだ。彼らにとってはあまり喜ばしくないイベントなのでは、と思ったのだけれど、薙くんは笑って答えた。


「年寄りの中には嫌がる吸血鬼もいるけど、若い奴らは全然気にしてないよ。おれのバアちゃんも毎年ケーキ作ったりシャンパン飲んだりするし。十六夜城もライトアップされて、公園にバカデカいツリー飾られてる」

「十六夜麟太郎氏は嘆かわしいでしょうね……」


 かつての城主のことを思って、わたしはちょっと遠い目をしてしまった。カップルの聖地扱いされていてる時点で、いまさらかもしれないけれど。


「そういえば、夜宵駅前にも巨大ツリーがあるらしいですよ。今の時期、クリスマスマーケットやってるみたいです。クラスの子が行くって言ってました」

「そうなの? 陽毬が行きたいならそっちにしようよ」


 薙くんはそう言ったけれど、わたしは慌ててかぶりを振った。クリスマスの市街地は人も多いし、薙くんのためにもあまり屋外をウロウロしたくない。


「いえ、大丈夫です」

「……陽毬、行きたいところとかないの?」

「特にありません」


 わたしが即答すると、薙くんはまた目を伏せて悲しげな顔をした。

 しまった、今のはなんだかデートに乗り気じゃないみたいだ。わたしは慌てて、彼の両手をぎゅっと握りしめる。


「ち、違うんです。薙くんと一緒なら、わたしはどこでも楽しいですから……薙くんの行きたいところに行きたいです」

「……ほんとに?」

「ほんとです。わたし、こうしておうちでのんびりするだけでも楽しいですよ」


 ね、と笑うと、薙くんはなんだか腑に落ちないような表情で「うん……」と頷く。わたしはそのまま、彼の首に腕を回した。


「……薙くん、血飲みますか?」

「……いただきます……」


 薙くんはわたしの背中に腕を回して、首筋に牙を押し当てる。ぴりっと鋭い痛みが走ったけれど、もうすっかり慣れっこだった。

 薙くんは血を飲みながら、やけに色気のある手つきでわたしの背中に触れる。するりと背筋を撫でられ、うっかり変な声が出そうになって、唇を噛んで堪えた。付き合い始めてから、彼のスキンシップがちょっと大胆になった気がする。

 牙が離れたかと思うと、ぺろりと首筋を舌で舐められる。今度こそ我慢できずに、吐息混じりの声が漏れた。自分の唇から漏れるやけに甘ったるい声に、かっと体温が上がる。


「今の声……」

「……あ、いえ、今のは、あの」

「……かわいい。もっと聞きたい」


 薙くんがそう呟いた次の瞬間、わたしは畳を背にして仰向けに倒れていた。天井を背にした薙くんが、真っ赤に燃えるような瞳でこちらを見下ろしている。わたしの両手首を押さえつける力が強くて、身動きが取れない。


「陽毬……好きだよ」


 彼は眉間に皺を寄せながら、切なげに息を吐いている。

 その顔を見た瞬間、わたしは彼が求めているものを理解してしまった。抵抗するつもりなんてもちろんなくて、彼を受け入れるように目を閉じる。

 しかし彼は、あっさりとわたしを解放してしまった。おそるおそる目を開けると、彼はその場に座り込んで、打ちひしがれたようにその場に固まっている。


「な、薙くん」


 わたしは跳ね起きると、そっと彼の肩に手を置いた。ちらりとこちらを向いた薙くんの瞳は、まだ興奮しているのか赤かった。


「……ごめん……ひどいことした」

「ま、まだ何もされてませんよ」

「手、痛かったよな。ほんとにごめん」


 彼はそう言って、手首を優しく撫でてくれる。さっきまで彼が掴んでいた箇所に、赤く指の跡が残っていた。

 わたしが首を横に振ると、薙くんははーっと深い息をついた。


「……おれ、こんなんばっかりだ。陽毬のこと、傷つけたくないのに」

「わたし、薙くんになら傷つけられてもいいですよ」


 それは、わたしの紛れもない本音だった。薙くんが欲しがるものなら、わたしは全部喜んで捧げたい。その結果、傷つけられたとしたって構わない。

 しかし薙くんは、ちょっと怒ったみたいな、不機嫌そうな声を出す。


「……陽毬のそういうとこ、よくないよ」

「どうしてですか?」

「おれ、ちゃんと陽毬のこと大事にしたい……」

「……あ。やっぱり、処女のままじゃないとダメですか? そ、それなら別のやり方で……えと、手とか口とかで……しましょうか?」


 性的な知識が豊富なわけじゃないけれど、ちょっと進んだ友人たちの話を聞いていたら、男の人を満足させてあげる方法もあれこれ耳に入ってくる。わたしにできるかわからないけど、薙くんに喜んでもらえるなら、試してみるのもやぶさかではない。

 けれども薙くんは、突然横っ面を引っ叩かれたみたいな顔をした。いやいやをするように首を振って、両手で顔を覆ってしまう。


「そんなこと……しなくていい」

「で、でも」

「……やっぱりこんなの、おかしいよ。付き合ってるのに、一方的に奉仕されてるみたいだ」

「そ、そんなこと……」

「おれが陽毬を欲しがるみたいに、陽毬もおれのこと欲しがってよ」

「わたし、は……」


 何か言おうと思ったのだけれど、拒絶されるのが怖くて、何ひとつ望みを口に出せない。

 わたしはあの日からずっと、誰かに手を伸ばすのが怖いのだ。今度振り払われたらきっと、わたしは二度と立ち直れない。


 ――いい子にしててね、陽毬。


 母が最後に残した言葉は、まるで呪いのようにわたしを縛りつけて離さない。

 どろどろとしたこの感情を全部ぶち撒けたら、わたしはきっといい子のままじゃいられない。いい子じゃなくなったら、薙くんはわたしのそばからいなくなってしまうかもしれない。


「……ほんとに、何も、いらないんです……」


 絞り出すように告げると、薙くんの顔が悲しげに歪む。彼にこんな表情をさせてしまうわたしはきっと、いい子なんかじゃなかった。

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