36:放課後デート
誰もいなくなった放課後の教室は、不気味なほどに静まり返っている。中途半端に開いた窓から吹き込んだ風が、クリーム色のカーテンをはたはたと揺らした。
おれは廊下側一番後ろの自席に座って、陽毬のことを待っていた。陽毬は中庭にある花壇のお世話を定期的にしているらしく、今日は花の植え替えをするのだと張り切っていた。おれも手伝うと言ったのだけれど、「今日は太陽が出ていますから」とやんわり断られてしまった。そりゃそうだ。季節柄大丈夫だとは思うが、万が一にも倒れて陽毬に迷惑をかけたくない。
先に帰っててくださいと言われたのだが、おれは待つと言い張った。陽毬と一緒に帰りたかったのだ。机の上には、おれのリュックと陽毬のスクールバッグが置いてある。せめて、彼女の鞄が盗まれぬようしっかり見張っておこう。
陽毬の鞄をじっと睨みつけていると、教室の扉が開くとともに、「うわっ」という声がした。見ると、修学旅行で同じ班だった柳川さんが立っている。
「山田? びっくりした。電気消えてるから、誰もいないのかと思った」
びっくりした、と言うわりには、あまり表情に変化がない。彼女はクールなのだ。おれはボソボソと「暗い方が落ち着くから……」と答えた。
「何してんの、こんなとこで」
「ひ……一番ヶ瀬さんのこと、待ってる」
「あ、そう。やっぱり陽毬と付き合ってるんだ」
「う、うん」
反射的に頷いてから、肯定してもよかっただろうか、と不安になった。もしかすると陽毬は、おれみたいなのと付き合っていることをクラスメイトに隠しておきたかったかもしれない。
柳川さんはさしたる反応もなく、平坦な声で「そう」と答えた。まるで人形のような、温度を感じない瞳に見つめられる。
「陽毬いい子だし、よかったね。デートとかしてるの?」
「いや全然……おれ、昼間出歩けないし……」
答えながら、なんだか情けなくなってきた。陽毬と付き合ってから一週間が経つが、おれのしていることといえばバイトの送り迎えぐらいで、彼氏らしいことのひとつもできていない。陽毬は相変わらず、喜んでおれに血を飲ませてくれる。
「……女の子って、どういうところに行きたいものなの?」
「そんなの人によるでしょ。陽毬に聞きなよ」
「……陽毬、そういうの教えてくれなくて……どこに行きたいとか、何がしたいとか」
陽毬は自分の望みを何も伝えてくれないので、おれは未だに彼女の考えていることがよくわからない。柳川さんは腕組みをすると、「そうだね」と頷いた。
「たしかに陽毬って、そういうとこあるよね。そういえば、最近
「ほ、ほんと? し、調べてみる! ありがとう!」
女子の、他でもない陽毬の友達からの助言はありがたいものだ。前のめりでお礼を言ったおれに、柳川さんは薄い笑みを浮かべた。廊下にチラリと視線をやって、目を丸くする。
「あれ、陽毬」
見ると、いつのまにか陽毬が戻ってきていた。まったく音も気配もなかったので、全然気がつかなかった。陽毬はおれたちに声をかけることもなく、じっと廊下に佇んでいる。
「! 陽毬! お、おかえり」
「……はい。ただいま戻りました」
陽毬は頰を強ばらせたまま、ゆっくりと教室に入ってくる。柳川さんは陽毬に向かって、ひらひらと手を振った。
「忘れ物取りに来たら山田がいたから、喋ってただけだよ。お邪魔だから帰るね。じゃーね、陽毬」
「……はい。ちはるちゃん、また明日」
柳川さんがいなくなると、陽毬はそそくさとこちらに近寄ってきた。どこか不安げな表情で、おれの顔を覗き込んでくる。
「……ちはるちゃんと、何話してたんですか?」
「え、いや……た、大したことじゃないよ。ごめん、おれと陽毬が付き合ってること、柳川さんに言っちゃった……」
デートのアドバイスを乞うたことは、カッコ悪いから黙っておこう。陽毬は気を悪くした様子もなく、ニッコリ笑ってくれた。
「全然構いませんよ! ごめんなさい、わたしの方からみんなに言うタイミングがなくて」
「う、ううん……」
陽毬に手を引かれるがまま、おれは立ち上がる。リュックを背負いながら、勇気を出して「あのさ」と口を開いた。
「よ……寄り道して帰らない?」
「え?」
「ちょっとだけ……その……時間があれば……」
「はい、もちろんあります! どこに行きましょうか?」
陽毬は表情を輝かせて、おれの手をぎゅっと握りしめてくれる。彼女はおれの申し出を断らない。それでも、自分の望みは何ひとつ口にしてくれない。
彼女と付き合い始めてからずっと、胸の奥底に得体の知れない不安がこびりついている。最初は小さな染みのようだったそれは、いつのまにかじわじわと広がりを見せていた。
おれと陽毬は、高校の最寄駅にあるコーヒーチェーンに寄ることにした。毎日利用している駅だけれど、いつも素通りするばかりで、店内に入るのは初めてだ。
おれがキョロキョロしていると、陽毬は迷わずレジカウンターへと向かった。どうやら先に注文するスタイルらしい。よかった、陽毬がいなければシステムがわからず戸惑うところだった。
「薙くん、何にしますか?」
「……ホットのカフェラテ」
たくさんメニューはあったけれど、結局無難なものを選んだ。陽毬が「ミルク多めもできますよ」とアドバイスしてくれたので、その通りにする。イケメンの店員さんに「コーヒーの味もわからないようなガキはおうちでママのミルクでも飲んでろ」と思われてやしないかとヒヤヒヤしたが、にこやかな笑みで対応してくれた。
「わたしも同じものにします」
「……陽毬、他のにしなくていいの。このナントカフラペチーノとか」
「今日はちょっと寒いですから、あったかいものが飲みたい気分なんです」
陽毬はそう言ったけれど、もしかしたらおれに合わせてくれたんじゃないかな、と思った。そういえばおれは、陽毬の好きなものを何ひとつ知らない。知っているのは、「誰かに必要とされるのが好き」ということだけだ。
商品を受け取って店内を見回すと、幸運なことに窓際にある二人がけのソファ席が空いていた。移動しようとすると、陽毬はおれの制服の袖を引く。
「薙くん。あそこ、結構日当たり良いですよ。奥の席にしましょう」
「え……多少は大丈夫だよ。陽毬は窓際の方が良くない?」
たしかにおれにとってはちょっと眩しいけれど、初冬の日差しはそれほど厳しくはない。穏やかな陽だまりに包まれたふかふかのソファ席は暖かそうで、きっと陽毬にとっては居心地が良いだろう。
しかし陽毬は、頑なに首を横に振った。
「いえ。あ、向こうの席も空いてますよ」
陽毬はそう言って、店内の奥にあるテーブル席へと向かった。なんとも言えないモヤモヤを抱えつつも、彼女の後ろについていく。
……やっぱり吸血鬼ってのは、ろくでもないな。
吸血鬼が人間と交際するというのは、こういうことなのだ。太陽の下を、好きな人と一緒に歩くことさえできない。
おれはこれから、どれだけの我慢を彼女に強いるのだろうか。もしかすると、母さんやバアちゃんも通ってきた道なのだろうか。父さんやジイちゃんは、うんざりしなかったのだろうか……?
そんな屈託も、正面に座った陽毬の笑顔を見ているうちに、次第に薄れていった。まさかおれが、こんなに可愛い女の子と放課後デートができるなんて。ふーふーとコーヒーに息を吹きかけているところが可愛い。両手でコーヒーカップを持っているところも可愛い。
「どうしたんですか? なんだか嬉しそうですね」
陽毬に指摘されて、おれは慌てて表情を引き締めた。よほどニヤニヤしていたらしい。どうにもおれは、考えていることが顔に出過ぎる傾向がある。
「……おれ、こうやって普通に、彼女と放課後にデ、デート……できるの嬉しくて」
「相手がわたしで良かったんですか?」
「あ、当たり前だろ! 陽毬がいいよ! というか、陽毬じゃないと嫌だ!」
勢いよく答えたおれに、陽毬は「うふふふ」と嬉しそうな笑い声をたてる。なんだか恥ずかしくなったおれは、カップを持ち上げてカフェオレを口に運んだ。思っていたよりも苦味が強い。砂糖を入れたいけれど、陽毬にカッコ悪いと思われるかもしれない……いや、ミルク多めのカフェオレを注文した時点でいまさらか?
眉をしかめているおれに気付いたのか、陽毬はこちらに向かって、飲みかけのカフェオレをすっと差し出してくる。
「ねえ、薙くん。わたし、ちょっとお砂糖入れすぎちゃったんです。よかったら、交換してくれませんか?」
……なんというホスピタリティ。おれは嬉しいを通り越して、感心してしまった。彼氏の要望に最大限に応える、顧客満足度百二十パーセントの彼女である。
「い、いいよ! おれ、甘いの好きだから」
「わあ、ありがとうございます」
そんな茶番を交わしてから、おれと彼女は互いのカップを交換した。陽毬の飲みかけのカフェオレはまだ温かくて甘かった。もしかするとこの甘さは、砂糖のせいだけではないのかもしれない。
それにしても――やはりこれでは一方的におれが「尽くされている」ばかりだ。おれはカップをソーサーに置くと、まっすぐに陽毬の目を見つめる。
「陽毬」
「はい、なんですか?」
「……その、おれにしてほしいこととか、ある?」
「え……」
かつてと同じ質問を投げかけると、陽毬の瞳が戸惑いに揺れた。
誰かと付き合うのは初めてだからよくわからないけど、恋人同士って、こうして一方的におれのしたいことをしてもらうだけの関係じゃダメだと思う。おれだって、陽毬のことを喜ばせてあげたい。
「欲しいものとか、したいこととか、なんでもいいから……教えてほしい」
「……薙くんのしたいことが、したいです」
「えーと、そういうのじゃなくて……」
ちゃんと意向を確認しろ、と零児も言っていた。このままだと、おれは彼女の趣味ではないクソダサいアクセサリーを大量に買いかねない。
陽毬は困った顔で、きゅっと唇を引き結ぶ。しばらく黙って考えていたようだけれど、やがて口を開いて、小さく掠れた声で答える。
「……何も、いりません……してほしいことも、ありません」
陽毬の答えは、あの夏の嵐の日から変わっていなかった。やっぱり求めているのはおればかりで、彼女は少しもおれのことを欲しがってはくれない。
得体の知れなかった不安が、じわりじわりとその輪郭を確かにしていく。
もしかすると彼女は、おれのことが好きなのではなく、「おれが求めたから応えてくれただけ」なのではないか。彼女自身の望みや意志は、そこに存在しないのではないだろうか。
……おれは陽毬じゃないとダメだけど、陽毬は本当は、おれじゃなくてもいいんじゃないか。
「……そっ、か……」
それでも臆病なおれは肯定されるのが怖くて、彼女の真意を確かめることすらできない。誤魔化すように口に運んだカフェオレは、さっきよりも苦く感じられる。胸にこびりついた染みは、どんどん大きくなっていくばかりだった。
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