15:夜の散歩

 一番ヶ瀬陽毬の血を飲むようになってから、およそ一ヶ月半。おれは彼女の本当の意味での危うさに、次第に気付きつつあった。


 夜の散歩が好きだ。夏の始まりを感じさせる空気は湿気を含んでいて、ややじめっとしていた。空を覆う薄い雲から、丸い月の輪郭が出たり隠れたりしている。太陽の光は苦手だけれど、月の光が明るい夜は元気がみなぎってくる。アスファルトを踏みしめる足取りも軽い。

 月城町の夜は賑やかだ。駅前の店も夜通し開いているし、メインストリートである商店街の人通りも昼間よりもうんと多い。

 人間と共生している都合上、昼間に学校や仕事に行っている吸血鬼も多いが、そもそも吸血鬼は夜行性なのだ。おれも太陽が昇る前には寝ようと思ってはいるのだが、目が冴えてしまってなかなか難しい。

 白い月を背にして、十六夜城の影がくっきりと浮かび上がる。朝より昼より夕暮れどきより、夜の十六夜城がもっとも美しいとおれは思う。

 賑やかなのもいいが、少し静かに散歩をしたいと思ったおれは、隣接している朧町まで足を伸ばすことにした。一番ヶ瀬さんが住むアパートもそこにあるらしい。別に、彼女に会えるかな、だなんて下心があるわけではない。

 一番ヶ瀬さんは不思議な女の子だ。いつも明るくてニコニコしているのにどこか影を孕んでいて、目を離した隙にふっと消えてしまいそうな儚さがある。

 自分の手からとめどなく流れる血を見つめる一番ヶ瀬さんの瞳は、ゾッとするほど空虚だった。おそらく彼女は、自分が傷つくことに対して何の感情も抱いていないのだ。痛みに対して鈍感とか無頓着とか、そういうレベルじゃない。


 ――薙くんは、わたしが怪我するの嫌なんですか?


 おれにそう問いかけた一番ヶ瀬さんは、心底不思議そうにしていた。キョトンとしている彼女を見た瞬間、おれは無性に腹が立ってきた。「わたしの傷はあなたには関係ない」と言われたような気がして。

 全部あげます、と優しく微笑む彼女は、肝心なところでおれに対して一線を引いている。彼女が纏う笑顔が、彼女の本質を隠す仮面だということはわかっているのに、おれは未だにその素顔には辿り着けない。なんだかそれがやけにもどかしかった。



 朧町駅には歩いて二十分ほどで到着した。

 月城町ほどではないけれど、二十四時間営業のファミレスやカラオケ店などもあり、ほどほどに賑わっている。大学生らしいグループが、「二軒目行くぞー!」と盛り上がっているのを素通りする。腕に巻いたデジタル時計を確認すると、十時を回ったところだった。

 駅の周りをぐるりと一周して、そろそろ家に戻ろうかと考える。比較的賑やかだった正面側とは違い、駅の裏手はかなり閑散としていた。仮にもおれは吸血鬼だし、こんな時間にこんなところでウロウロしていては、不必要に怯えられかねない。何もしていないのに通報されるのはごめんだ。

 引き返そうとしたところで、前方を歩く女性の姿に気付いた。シンプルなポロシャツにデニムを履き、ポニーテールを揺らして歩いている。

 美味しそうなうなじがチラリと見えて、おれはギクリとした。吸血鬼は夜目が効くので、見間違えるはずもない。


「一番ヶ瀬さん」


 そう呼びかけると、彼女は少しの躊躇いもなく、足を止めてくるりと振り向いた。あまりにも無防備で腹が立つ。

 過剰に怯えられるのは嫌だが、こういうシチュエーションでは少しぐらい警戒してほしいものだ。突然夜道で襲われる可能性を少しも考慮していない。もしかすると会えないかな、という僅かな期待があったことは否定できないが、それにしたってこんな時間に一人歩きをしているとは思わないじゃないか。


「あれっ、薙くん! どうしたんですか、こんなところで」


 おれの姿を認めた一番ヶ瀬さんは、驚いたように目を丸くする。おれは憮然としながら「どうしたもこうしたもないよ」と答える。


「おれは夜の散歩。一番ヶ瀬さんこそ、こんな時間に何してんの」

「わたしはバイトの帰りです」

「こんな時間まで?」

「高校生は十時までしか働けないんですよ。深夜の方が時給いいのに……」

「そういう問題じゃないだろ」


 あっけらかんと答えた一番ヶ瀬さんに、おれは溜息をつく。「送ってくよ」と言うと、彼女はぶんぶんと両手を胸の前で振った。


「そ、そんな! 大丈夫です……すぐそこですし」

「いいから。おれ、どうせ暇だし」

「……ごめんなさい。ありがとうございます」


 遠慮がちに目を伏せた彼女が言う。こういうとき、「ありがとう」より先に「ごめん」が来ることがちょっと悲しい。


 彼女の住むアパートは、駅からそれほど遠くなかった。二階建ての木造アパートの前で、「ここです」と彼女が足を止める。

 率直な言い方をするなら、思っていたよりもオンボロだった。女の子の一人暮らしなのに、セキュリティとか大丈夫なんだろうか。いろいろと心配になったがともかく、ここまで来ればおれの役目は終了だ。


「じゃあ気をつけてね。おやすみ」


 そう言って踵を返そうとしたところで、「待って」とTシャツの袖を引かれる。ぎゅっと袖を掴んだ一番ヶ瀬さんが、無邪気に笑って言った。


「送ってくれてありがとうございます。よかったら上がっていきませんか?」


 ……いやいや、それはさすがにまずいのでは?

 普通に考えて、こんな時間に一人暮らしの女子の部屋に上がり込むなんてあり得ない。おれの頭の常識的な部分がやめておけと叫んでいたが、「ね?」と小首を傾げる彼女の誘惑に、おれはあっさり折れてしまった。我ながら意思薄弱すぎる。

 古ぼけた木の階段は踏みしめるたびにギシギシと嫌な音が鳴って、今にも底が抜けそうだった。鞄から鍵を取り出した一番ヶ瀬さんが、扉を開けて微笑む。


「散らかっててごめんなさい。どうぞ入って」


 彼女に言われるがまま、ふらふらと足を踏み入れる。目に飛び込んできた光景に、おれは少なからず驚いた。

 散らかっているわけではない。どちらかといえばすっきりと片付いている方だと思う。しかし、彼女の部屋にはまったく生活感がなかった。物が極端に少ないし、娯楽の類が一切ない。それほど多趣味でないおれの部屋の方が、無駄なものがたくさんある。

 おれが戸惑っていると、靴を脱いだ彼女が慌てたように言った。


「お布団出しっぱなしでごめんなさい! 薙くん、適当に座ってください」

「あ、うん……」


 おれはローテーブルの脇に腰を下ろした。吸血鬼であるおれに気を遣ったのか、彼女は電気を点けなかった。もう六月の末だというのに彼女の部屋はなんとなくうすら寒く、どこか冷え冷えとしている。視界の隅に敷きっぱなしの布団が入って、おれはドギマギしてしまった。

 ……馬鹿野郎。妙なことを考えるな。


「コーヒーでもいかがですか? それとも紅茶?」

「いや、お構いなく……」

「じゃあ、わたしの血飲みますか?」


 一番ヶ瀬さんは左手をひらりと振ると、おれの隣にぺたんと座る。ごはんにする? お風呂にする? それともわたし? みたいなノリだ。

 ……そんなの、選択肢はひとつしかないじゃないか。

 部屋に誘われた時点で、なんとなくそういうことになるんじゃないかと思っていた。わかったうえで、おれはここに来るのを断れなかったのだ。

 夜は不思議だ。窓から注ぐ月明かりに照らされた一番ヶ瀬さんが、いつもよりも数倍魅力的に感じられる。いや、彼女はいつでも可愛いけれど。


「……えーと。じゃあ、いただきます……」


 差し出された左手を取って、華奢な手首を掴んだ。とくとくという僅かな脈拍を感じると、薄い皮膚の下に流れる血液を想像して興奮が高まる。このまま牙を立てて、思うまま貪ってしまえばどんなに――。


「んっ……」


 中指に牙を立てた瞬間、彼女がやけに甘ったるい声を出した。皮膚をぶちっと食いちぎると、口の中に彼女の味がどろりと流れ込む。

 暴走しそうになる吸血鬼の本能を必死で制御して、数秒ほどで口を離した。これ以上は本当にまずい。彼女を布団に押し倒して、いろんな場所に噛みつきかねない。


「ふふふ……」


 おれの髪を撫でた一番ヶ瀬さんが、怪しい笑い声をたてる。吸血の余韻に酔いしれながら、おれは尋ねた。


「……どうしたの」

「うん……薙くんに血を飲んでもらえて、嬉しいです」


 両の頬にエクボを浮かべて、とろけるように笑う彼女の危うさに、おれはとっくに気付いているはずなのに。

 本当は、おれは彼女に「こんなこともうやめよう」と言うべきなのかもしれない。不健全で歪な関係だと、わかってはいるのだけれど。おれはもうズブズブに沼に嵌まっていて、ぬるま湯のように心地良い泥から抜け出せなくなっている。

 おれはうっすらと血の滲んだ中指を見つめながら、ごめんの代わりに「ごちそうさま」と囁いた。

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