16:優しくしないで
ピンポン、という呼び出しボタンの音がキッチンに響く。反射的に番号のパネルを見ると、十二番のランプが点滅していた。
バイトの先輩である
「十二卓のお客さん、なんか気持ち悪いんだよねー……あたし、行きたくない……」
「じゃあ、わたしオーダー行ってきます」
「えっ、ほんと? 陽毬ちゃん、ありがとー!」
些細なことなのに、両手を合わせて大袈裟に感謝してくれる栗原さんに、心がゆるゆると満たされるのを感じる。わたしはオーダーを取るべく、張り切って客席へと向かった。
わたしがアルバイトをしているのは、朧駅前にあるファミレスだ。家から近いところで、一番最初に「アルバイト募集」の貼り紙を見つけたところを選んだ。仕事内容は主にホールスタッフで、注文を取ったり配膳をしたりレジ打ちをしている。
「お待たせいたしました! ご注文をどうぞ」
呼び出しのあった十二番テーブルのお客さんにむかって、わたしは笑顔で問いかける。
栗原さんが「なんか気持ち悪い」と評したのは、二十代から三十代ぐらいの男性の一人客だった。前髪が長くて俯きがちにメニュー表を見ているため、顔がわかりづらい。彼は下を向いたまま、ボソボソと呟く。
「……サーモンとほうれん草のクリームパスタ、ドリンクバーのセットで」
「かしこまりました。少々お待ちください」
手早くオーダーを打ち込んで、キッチンへと戻る。じっとこちらを見守っていた栗原さんが、そそくさと駆け寄ってきた。なんだかちょっと青い顔をしている。
「ご、ごめんね、任せちゃって」
「えっ、全然平気でしたよ」
たしかに少し陰気な雰囲気はあったけれど、特別不潔なわけでもないし、そんなに嫌な感じはしなかった。
それでも栗原さんは、不快そうに客席に視線をやる。
「あの人よく一人で来てるんだけど、いっつもすごく長居して、じろじろ女の子のこと見ててさあ……さっきも陽毬ちゃんの後ろ姿、凝視してたよ。なんか、ちょっと怖くなっちゃった。次はあたしが行くね」
「いえ、気にしないでください。わたしは大丈夫ですから」
「でも……」
「おーい、栗原。八卓にこれ持って行ってくれ」
キッチンの社員さんから声をかけられて、栗原さんは熱々の鉄板に乗せられたハンバーグを持ってフロアへ向かう。彼女が戻ってくる前に十二番テーブルのパスタが完成したので、結局わたしが配膳することになる。
「お待たせいたしました!」
テーブルの上にお皿を置くと、アイスカフェオレのストローを咥えていたお客さんが顔を上げる。前髪の隙間から見える瞳が赤くて、わたしははっとした。
――この人、吸血鬼だ。
ちょっと驚いたけれど、吸血鬼のお客さんが来ることはそんなに珍しいことじゃない。ここは月城町からも近いし、吸血鬼の団体が訪れることだってたまにある。わたしは気を取り直して、「ごゆっくりどうぞ」と彼に微笑みかける。
「……ありがとう」
彼がそう言った瞬間、唇の端から牙が覗いた。薙くんのものよりも大きくて鋭い牙だ。お礼を言ってもらえたことが嬉しくて、わたしはにっこり笑顔を返した。
他人から感謝してもらえて、しかもお金も貰えるなんて、労働は素晴らしいと心から思う。帰り際に「ごちそうさま」とか「美味しかったよ」と言ってくれるお客さんもたくさんいる。もちろん、クレームを言われることだってたまにはあるけれど。
――陽毬ちゃんの後ろ姿、凝視してたよ。
栗原さんの言葉を思い出して、キッチンに戻る途中、一度だけ彼のことを振り返ってみる。
彼はクリームパスタに手をつけることもなく、ストローを咥えたままこちらを見つめていた。赤い瞳にじっと見据えられて、なんだかちょっと居心地が悪くなる。薙くんの瞳はあんなにきれいなのに、どうしてだろう。
わたしはまとわりつくような視線から逃れるように、足早にバックヤードへ駆け込んだ。栗原さんが「ごめんねえ!」とわたしに勢いよく抱きついてくる。
「もう、また陽毬ちゃんに行かせちゃった……会計はあたしが行くからねー!」
「ぜ、全然平気でしたよ」
「陽毬ちゃんカワイイんだからさあ! あんなに無防備に笑顔振り撒いちゃダメだよ! 最近店の裏口で、変な男が誰か待ち伏せしてるって話もあるし……」
栗原さんの言葉に、わたしはギクリとした。裏口の待ち伏せ男に、心当たりがあったからだ。
「……あの、少なくとも裏口にいるのは、変な人とかじゃないです!」
わたしの言葉に、栗原さんは目を丸くして「え。もしかして、陽毬ちゃんの知り合いなの?」と言った。
平日は、だいたい学校が終わった夕方から夜十時までバイトに入ることにしている。途中の休憩でまかないも食べられるし、店長も社員さんもバイト仲間もみんな優しいし、結構いいバイトだと思う。時給もそんなに悪くないし、毎日のようにシフトに入っているおかげで、伯父からの仕送りにはそれほど頼らずに済んでいる。
「おつかれさまでした!」
大きな声で挨拶をして、裏口から店を出る。途端に、夏の夜独特の生ぬるい風が頰を撫でた。ざわざわと風が木々を揺らす音が響く。夜の闇に溶け込んでしまいそうな男の子が、縁石に腰を下ろしていた。
「……おつかれ、一番ヶ瀬さん」
「薙くん。毎日来てくれなくても大丈夫ですよ……」
立ち上がった薙くんは「散歩のついでだよ」といういつものセリフを吐いて、わたしの隣に並んで歩き出す。彼の身長はわたしと同じぐらいだから、そんなに目線は変わらない。
一週間前、バイト帰りに偶然出会ってからというもの、彼は毎日バイト終わりのわたしを迎えに来るようになった。申し訳ないし別にいいよと言っているのだけれど、彼は懲りずにやって来る。
「……薙くん、わたしのバイト先で変な人扱いされてますよ。裏口で誰かのこと待ち伏せしてる男がいるって」
「げっ。そうなんだ……もうちょっとわかりにくいところで待とうかな。でも、逆に怪しまれるかな……」
ぶつぶつと考え込んでいる彼は、どうやらわたしを迎えに来るのをやめるつもりはないらしい。
いくら散歩が趣味とはいえ、彼の住む月城町からここまでは決して近くはないのに。どうしてわたしなんかのために、そこまでしてくれるんだろう。
「そういえば今日、吸血鬼のお客さんが来ましたよ。クリームパスタ頼んでました。薙くんもそうですけど、吸血鬼って乳製品が好きなんですか?」
「あー、たしかに牛乳好きな奴は多いかも。あれ、牛の血液からできてるらしいし」
「へえ。じゃあ母乳でもいいんでしょうか」
「……い、一番ヶ瀬さんって、たまに反応しづらいこと言うよね。おれが〝母乳も好き〟って言ったらどうすんの?」
「母乳は……頑張ってもちょっと出せませんね……ごめんなさい」
「だ、だから、反応しづらいって……」
バイト先からアパートに着くまでのあいだ、わたしたちはポツポツと他愛ない会話を交わす。夜の薙くんは昼間よりも元気で、ちょっとだけよく笑った。微かな笑い声とともに小さな牙が覗くたび、暗くて顔がよく見えないのが残念だなあと思う。
十分もしないうちに、わたしのアパートの前に到着してしまった。わたしはいつものように、彼のシャツの裾を掴んで引き留めようとする。
「ねえ、薙くん。上がっていきませんか?」
「いや。帰るよ」
「母乳は出せませんけど、血ならいくらでも出せますよ」
「い、いらないってば……昼にも飲んだし」
薙くんの返事はいつも同じで、わたしは不満に頰を膨らませる。
彼がわたしの部屋にやって来たのは最初の一回きりで、それ以降は何度誘っても断ってくる。こうして送ってもらっているのだから、血ぐらい飲ませてあげたいのに。
他の誰かから無条件に注がれる優しさは、なんだかむずむずとくすぐったくて落ち着かない。こちらからもそれ以上にお返しをしなければ、気が済まないのだ。
「……わたしが送ってもらってばっかりで、申し訳ないです」
「いや、おれの方こそ毎日昼休みに血もらってるから」
「でも、わたしがやりたくてやってることですし……」
「じゃあおれも同じだよ。やりたくてやってる。おれ、一番ヶ瀬さんが怖い思いするの嫌だから」
……こんな風に誰かに大事にされたことがないから、どんな顔をしたらいいのかわからない。小さな声で「ありがとうございます」と返したけれど、あんまり上手に笑えなかった。
優しくされて嬉しいのに、なんだかやけに胸が苦しい。「ここまでしたんだから血を飲ませろ」と強引に迫られた方が、ずっと気持ちが楽になる気がする。
「……一番ヶ瀬さん?」
俯いてしまったわたしを、薙くんは心配そうに覗き込んでくる。優しくされて苦しくなるなんて、やっぱりわたしはどこか歪んでいるのかもしれない。
「……薙くん……そ、そんなにわたしに優しくしないでください」
「別にただ優しくしてるだけじゃないよ。ふつーに下心もあるし」
「下心?」
「……おれが、一番ヶ瀬さんと一緒にいたいってこと」
そう言って彼は、ふいっとそっぽを向いてしまった。尖った耳が赤くなっているような気がするけど、暗くてよくわからない。
不器用だけどまっすぐな彼の言葉は、胸にしまいこんだ感情の扉をトントンとノックする。もういい加減に諦めて出て来れば、と囁く声に、わたしは気付かないふりをしているのだ。
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