14:大事にされるということ
窓の外を眺めていたわたしは、隙間なく空を覆う灰色の雲を見て、いいお天気だな、とぼんやりと思った。
ついこのあいだまでのわたしだったら、きっとそんなこと思わなかった。「いいお天気」というのは、一般的には雲ひとつない晴天のことをいう。今日みたいにどんよりとした曇天の日は、雨が降りそうで嫌だなあと思っていた。
しかし、吸血鬼である薙くんは、曇り空を見るたびに「今日いい天気だな」と呟く。晴れの日よりも曇り日の方がうんと調子が良さそうで、心なしか口数も多くなるので、なんだかわたしも嬉しくなる。朝起きて太陽がさんさんと輝いていると、なんだかがっかりするくらいだ。吸血鬼の感覚に、わたしも影響されつつあるのだろうか。
空から視線を動かして、わたしは窓際一番後ろに座っている薙くんを見つめた。
左手に彫刻刀を持った彼は、背中を丸めて木版を削っている。今日から始まった美術の課題は木版画で、わたしも埃をかぶっていた彫刻刀を久しぶりに引っ張り出してきた。
自分の課題を進めるべく、彫刻刀を手に取った。蛍光灯の光を反射して、刃がギラリと鈍く輝く。
下絵は先週のうちに完成させている。わたしが描いたのは、夕闇に浮かぶ十六夜城だった。このあいだ月城町に行ったときの景色がとてもきれいだったから。
つい先日、薙くんのおうちに遊びに行ったことを思い出す。
わたしは友達の家にお邪魔するのがあまり好きじゃない。たとえよそいきに取り繕ったものだとしても、仲睦まじい家族の姿を見せつけられるのが嫌だった。自分に持っていないものを、まざまざと見せつけられるようで。
薙くんのおうちにはご両親がいなかったけれど、おばあさまはとても素敵な方だった。厳しい風を装っていたけれど、会話の端々に薙くんのことを心配しているのが伝わってきた。ご両親もたくさんお土産を買ってきてくれるらしいし、きっと薙くんは家族から愛されているのだろう。
――羨ましいなあ、だなんて。そんなことを考える自分が、一番嫌いだ。
「……っ……」
そのとき手元が狂って、左手の親指と人差し指のあいだをざっくり切ってしまった。思いのほか彫刻刀が深く突き刺さったらしく、勢いよく血が溢れてくる。
……あーあ、やっちゃった。
先生に言って保健室に行こうかとも思ったけれど、みんな集中しているみたいだし、声を出して周りに迷惑をかけるのは嫌だ。あと十分もすれば授業も終わるし、少しだけ我慢しよう。
ぽたり、と木版の上に血が落ちて、わたしは慌ててティッシュでそれを拭き取る。みるみるうちにティッシュが真っ赤になってしまった。
どくどくと流れる真っ赤な血を見つめながら、もったいないなあ、と思う。こんなに無駄な血を流すぐらいなら、薙くんに飲んでもらえばよかった。
そう思いながらチラリと薙くんに視線をやると、下を向いていた彼がふと顔を上げた。わたしの手元を見た彼が、ギョッとしたように目を見開く。
次の瞬間、彼は勢いよく立ち上がり、ずんずんとこちらに歩み寄ってきた。
「……一番ヶ瀬さん、なにやってんの!?」
薙くんはそう言って、わたしの手首をがしりと掴む。痛くはなかったけれど思いのほか力が強くて、反射的にびくっと肩が揺れた。
薙くんの大声に、周囲の生徒たちがなんだなんだとわたしたちに注目する。彼はそんなことにも構わず、だらだらと血が流れるわたしの左手を睨みつけていた。
「一番ヶ瀬さん、保健室行くよ」
「え……だ、大丈夫ですよ……」
「どう考えても大丈夫じゃないだろ!」
いつもおとなしい彼らしくない、乱暴な口調だった。なんだかちょっと、怒っているようにも思える。わたし、なにか彼を怒らせるようなことをしただろうか。理由がまったくわからなくて困惑する。
「大変。一番ヶ瀬さん、早く保健室行ってきなさい」
美術担当の
薙くんと連れ立って外に出ようとしたところで、「待って」と背後から声をかけられた。松永さんだ。長い髪を揺らして、ツカツカと歩み寄ってくる。
「私が連れて行くわ。こんな状況で山田くんがついていくのは、一番ヶ瀬さんが危険すぎるでしょう」
ギロリと鋭い目で睨みつけられて、薙くんはやや不愉快そうに眉を顰めた。しかし言い返すことはなく、「じゃあお願いするよ」とあっさりわたしの手首を解放する。
「行きましょう、一番ヶ瀬さん」
松永さんはそう行ってわたしの手を引いた。わたしは後ろ髪を引かれて、何度も薙くんの方を振り返ってしまう。相変わらず怖い顔をした彼は、口パクで「早く行って」と言った。
「一番ヶ瀬さん、大丈夫? すごく血が出てるわよ」
「いえ……大した怪我じゃありませんから」
「山田くん、すごい剣幕だったわね。物欲しそうな目であなたの血を見てたわよ。あのまま二人で保健室に行ってたら、襲われてたかも……」
「薙くんはそんなことしません」
松永さんの言葉に、わたしは語気を強めた。
物欲しそうな目なんて、全然していなかった。松永さんは本当に欲しがっているときの薙くんの顔を知らないから、そんなことが言えるんだ。ごちそうである血が目の前でダラダラと流れているのに、さっきの彼はわたしのことをちっとも欲しがってくれなかった。
……さっき薙くんは、どうしてあんなに怒っていたんだろう。
男の子にあんな剣幕で怒鳴られたのは、初めての経験だった。知らないうちに何か気に障ることをしちゃったのかな、としょんぼり肩を落とす。
未だに傷口から溢れる血を眺めながら、昼休みに血をあげて許してもらおう、とわたしは考えていた。
「一番ヶ瀬さん、怪我大丈夫だった?」
暗室で二人きりになるなり、薙くんが言った。
その口調は穏やかで、さっきのような荒々しさは微塵も感じられない。もう怒ってはいなさそうで、ホッとする。わたしは包帯の巻かれた左手をぶんぶん振って答えた。
「全然へっちゃらです。血がすごい勢いで出てたから、大袈裟に包帯巻かれちゃっただけですよ」
「そっか」
薙くんの表情が安心したように緩む。それから紙パックの牛乳を一口飲んだ後、気まずそうに頰をかいた。
「……あー。さっき、ごめん。いきなり怒鳴ったりして……」
「いえ……でも、びっくりしました……どうして薙くんが怒ってるのか全然わからなくて……」
「……ほんとにわかんないの?」
わたしの返答に、薙くんが呆れたように瞬きをする。わたしは身を縮こまらせて「もしわたしが怒らせちゃったなら、ごめんなさい」と頭を下げる。
彼はしばらく黙っていたけれど、やがて深い溜息をついた。
「……一番ヶ瀬さん。もっと自分のこと大事にした方がいいよ」
「え?」
「おれに血くれるのもそうだけどさ、一番ヶ瀬さんは自分が傷つくことに無頓着すぎると思う。いつか死ぬよ」
「そう、でしょうか……」
薙くんはそう言ったけれど、多少血を流したところで死にはしない。死のうと思っても、人はそう簡単には死ねないのだから。
薙くんはわたしの手を取ると、そっと包帯の上から傷を撫でる。なんだか悲痛そうな面持ちで、ぽつりと呟いた。
「……痛かったよな」
全然ちっとも、痛くなんてなかった。こんな怪我よりももっと、痛いことを知っている。
それでも薙くんが辛そうだから、なんだかわたしまで悲しくなってきた。左手の傷よりもずっと別の場所、胸の奥がずきずきと痛む。
「……薙くんは、わたしが怪我するの嫌なんですか?」
わたしの問いに、薙くんは「はあ?」と目尻をつり上げた。なんだか今日は、彼の逆鱗に触れてばかりだ。ごめんなさいと口にする前に、彼が大声で叫んだ。
「嫌だよ! そんなの当たり前だろ!」
きっぱりと、さも当然のことのように言われて――胸の奥が、先程までとは種類の違う痛みで疼く。
彼の手つきが優しくて温かくて、なんだか鼻の奥がツンとした。じわじわとこみ上げてくる感情の波に、わたしはじっと下唇を噛んで耐えている。
――ああ、そうか。この人は怒ってるんじゃなくて、わたしのことを心配してくれているんだ。
わたしは、こんなに優しい人に心配してもらえるような人間じゃない。わたしにそんな価値なんてない。そんなことぐらいわかってるのに――どうしようもなく、嬉しい。
ぎゅっと強く彼の手を握りしめると、薙くんは慌てたように「傷口開くよ」と言った。
それでも、このぬくもりを手放したくない。……いつかは離れていってしまうとしても、今だけは。
「……ありがとう、ございます」
「いや、礼言われるようなことしてないけど……」
わたしの言葉に、薙くんは心底困惑したように目を泳がせる。よかったら飲んで、とばかりに口元に手を差し出したけれど、彼は頑なに口を開けなかった。閉じた唇にぐいぐいと指を押しつける。
「……飲まないんですか?」
「……今日は飲まない。さっきあんなに血流してたんだから」
「えっ、そんなのやです……大丈夫だから飲んでください」
「さすがに飲めないよ……」
駄々っ子をなだめるような彼の言葉に、わたしは打ちひしがれた。薙くんに血を飲んでもらえないなんて、生きる希望がなくなってしまう。
しょんぼりしている私に、彼は溜息混じりに「……飲んで欲しいなら、早く治して」と言った。
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