ウエスト・パーム・ビーチの自転車

かほん

第1話

 フロリダ州、ボカラトンのホテルから、南北に伸びるルート95に乗る。ルート95には緩衝帯にパームツリーが植えてある。このパームツリーの実――つまり椰子の実だ――これが落ちてくると車でも危ない。だから、時々何処のなんだかわからない男達が、兎に角木に登り、木の実を刈り取る仕事をしている。


(今日は出会わなかったな)

男たちがマチェットを振り回して椰子の実を刈る姿は、決して悪いものではなかった。


 このまま北へ25マイル走ればウェスト・パーム・ビーチに着く。ここから2マイルほど東の方に向かうのだが、ビーチにはなかなか、素直には出られない。ビーチの大半が、優に300万ドルは下らないであろう邸宅群の、プライベートビーチになっていて、パブリック・ビーチが細切れになっているためだ。


 今日は休日にはいつも遊んでいる仲間で、ウェスト・パーム・ビーチへ遊びに来た。ナカーノ、本当は中野さんというのだが、亡命キューバ人がナカーノと呼ぶので、自然と定着してしまった名前の彼。それからパンチョ、彼は番長と呼ばれていることを、アメリカ人に必死に伝えようとしていたのだが、全く伝わらず、パンチョ――つまり雨具の、ポンチョ――という渾名になってしまった。まぁそれについては何も言うまい。パンチョと呼ばれる彼、武田さん。もう一人はナカムーラとかムーラとか呼ばれている中村さんだ。ムーラと呼ぶのは、中野さんと呼び名が若干かぶるかららしい。それから俺。俺の名前はいいだろう、ただ、俺もファミリーネームで呼ばれていることは付け加えておく。


 季節はまだ、3月なのだが、もう、南フロリダは滅法暑く、海で遊んでもいいくらいだった。


 ウェスト・パーム・ビーチへの道を、ナカーノが車をゆっくりと走らせる。と、俺の視線の先に、トップチューブが650mmはあろうかという、大きな自転車を走らせている男がいた。その漕いでいる足に古ぼけたランニングシューズを履いて、ゆったりと自転車を走らせていた。


 俺はそのような様子に少なからず、不思議な思いを抱いた。何しろ俺の常識では、ロードレーサーと呼ばれるような自転車は、プラスチックやカーボンがソールの、ビィンディングシューズと呼ばれる自転車専用のシューズを、履くのが普通だと思っていたからだ。よく見ればそこかしこに、サイクリストがいる。


 今車が抜いた白いフレームの、カーボンモノコックの自転車は知っている。最新のフレームの自転車で、フレームだけで5,000ドルはする自転車だ。もう、引退をして、余生をウェスト・パーム・ビーチで過ごすのであろう、白髪の老人は、ビィンディングシューズを履いて、ペダルをゆっくりと踏みながら走っていった。


 大体において、サイクリストは、自由な速度で、自由に走っていた。俺はカツカツ走ることに慣れすぎてしまったせいか、この好きなように走る自由に戸惑いを覚えてしまった。


 やがて、車をコインパーキングに止めた。この先のビーチが、ウエスト・パーム・ビーチの数少ないパブリック・ビーチとなっている。


 ビーチの階段を降りる。タオルを敷くと3月の日差しで肌を焼く。しかし、冗談抜きで太陽光が熱い。そして眩しい。東京なら梅雨明けの気候だ、と思った。


 フロリダの大学はこの季節、3週間の春休みだという。そのせいか、学生と思しき姿が何人か見える。パンチョは、すぐ目の前で肌を焼いている、女の尻をうつ伏せになりながら眺めていた。パンチョはこういう時に躊躇いがない。俺には真似出来ない。恥ずかしさが先に立ってしまう。


 ムーラは仰向けになって昼寝をしていた。太陽が眩しくないのだろうか。あの様子では、しばらく目覚めないな、多分体が酷いことになることだろう。まぁ良いさ、3月の太陽で日焼けなんて、日本じゃなかなか無いことだしな。と思っていると、ナカーノがムーラを起こした。俺は少し残念な気持ちになった。


 体を焼くことに飽きた俺は、海に入って火照った体を冷やすことにした。海の色は、明るいグリーンだった。なるほど、これが大西洋側の海の色か、などと思いながら、少し泳いだ。


 海から上がると、肌がベトつかない。いや、少しはするのだが、きめ細かい砂が肌に付いているからなのか、あの、海水で濡れた肌の不快感を感じないのだ。俺はそのまま通りを跨いで建っている一軒のバーに立ち寄った。壁も扉も何もかも取っ払ったバーで、ビールを頼んだ。アイスハウス。マスプロダクトでは一番好きなビールだ。バーに拠ってはバドワイザーより若干高めにしている店もある。


 瓶の口から半分ほども煽るように飲む。


 バーのカウンターに一台の自転車が立て掛けられているのに気がついた。古い自転車で、フレームにも変速機にも草臥れた感のある自転車だった。オーナーが手をかけているのだろう、よく磨いた泥除けにパンパンにエアを入れたタイア、一片のサビのない変速機とスプロケット。


 一本飲みきってしまった。もう一本、アイスハウスを頼んだ。一本目よりも、二本めはゆっくり飲んだ。


 こんな自転車に乗れるなら、この街に住んでみるのも悪くないかもしれない、と、そう思った。

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