花糸撫子と君。

紫月 真夜

雨の降る日に

 彼女を初めて見たのは梅雨の頃のバス停。傘からはみ出た髪の先が濡れて、ツンツンした女の子。この辺では珍しい制服を着た子。水色のイヤホンをつけて、スマホを見ている。そういえば、警報級まではいかないものの、普段よりはたくさん降っている雨のせいでバスが遅延しているんだっけ。

 そろそろバスも来るかなと思いながらスマホと定期を手に取る。ヘッドライトが薄暗い街中を照らした。彼女が傘を閉じようとするのが横目に見えた途端、風が一瞬強くなり水滴が飛び散る。幸い水を被ったのは俺だけで済んだようだ。水が飛んだことに気付いた彼女は少し慌てた素振りで顔を上げ、小さな声で「すみません」と言いながらパステルカラーのハンカチーフを差し出した。隅にカスミソウが刺繍された、可愛らしいもの。俺は「大丈夫です」と返し、自分のハンドタオルを取り出す。彼女はハンカチーフをポケットに仕舞い、ぺこっと軽く頭を下げた。ちょうどドアが彼女の目前で開いた。彼女、俺の順でバスに乗り込む。残念ながら座席は空いておらず、二人並んで立つことになる。妙な緊張感。彼女はイヤホンをつけたまま、俺はスマホを触る。

 十数分後、彼女はバスを降りた。俺の降りるところの三つ前のバス停。ふと彼女の表情を思い出す。眉尻を少し下げて、懺悔するような顔。少し鋭い髪型と優しげな瞳。思い出すだけで頬が少し熱くなるのを感じる。……どうやら一目惚れしてしまったようだ。


 それから毎日帰りのバスで顔を合わせるようになった。目が合うと少しだけ頭を下げて挨拶をする。毎日彼女と会えるのだ、嬉しくないわけがない。ただ、話すことはないという、近いようで遠い距離感にもどかしさを感じる。

 今日も授業が多くて疲れたな、なんて思いながらバス停に辿り着く。いつもより若干遅かったようで、既にバスが来てしまっていた。急いで乗り込む。運動部ではないが、一般的な男子高校生並みの体力はある。思っていた通り席は空いておらず、図らずも最初に彼女に出逢った日と同じ位置に俺も彼女も立っていた。家に帰ったらあの課題をやらないととかあのグループにメッセージを返さないととか考えながらぼうっと外の景色を眺めていると、隣から視線を感じた。それに気付いていないフリをして彼女の方を見る。すると、ぱっちりと目があって、俺も彼女も目を見開く。彼女なら目が合う前に目を逸らすと思ったのに。目を合わせるのは恥ずかしいし視線を外したいけど、勢いよく外すと印象が悪いからさりげなく。彼女も同じように思ったのか、二つの顔の距離が空いていく。ふと思い立って彼女の方を横目で見る。彼女の頬は朱く染まっていた。恥ずかしそうな顔がとても可愛らしい。暑さのせいか気恥ずかしさのせいか、窓ガラスに反射する自分の顔が火照って見えた。

 それからもバスで会う日常は続く。いつの間にか雨が降る日も少なくなり、夏休みも段々と近づいてきた。明日からテストが始まることに憂鬱感を覚える。それでも、疲れていても、帰りのバスで彼女に会えるだけであらゆる負の感情が霧散する。期待しながらバス停へと歩みを進める。いつもなら彼女の方が先に着いているのに今日は彼女の影が見えない。バスが到着し出発しても彼女の姿はなかった。いつも同じ時間にいるのにと不安になる心を、部活か委員会か用事があったのだろうとこじつけて納得させる。

 けれど、一週間経っても彼女はバス停に来なかった。何かあったのかなと心配するも、彼女のことはほぼ何もわからない。彼女の名前も、クラスも、住所も、好きなものも、嫌いなものもわからない。知っているのはせいぜい学校——特徴的な制服だったから俺でもわかった——と、最寄りのバス停——とはいっても彼女がいつも降りていることを知っているだけでそこから乗り換えている可能性もあるが——くらいだ。それで彼女を見つけ出すこともできない。どうしようもないのに、毎日彼女を探すことをやめられない。


 いつの間にか梅雨は明け、毎日強い日の光が差し込み、蝉はそこら中で鳴き声をあげている。毎日よく飽きないものだ。季節は移り変わる中、また巡ってくる月曜日。二日も家でだらだら過ごした上に、彼女に今日も会えないかもしれない。そう思うと憂鬱で、学校にも行きたくなくなる。けれど、学校に向かわないと会える可能性は0。仕方なく重い腰をあげる。制服を着て家を出る。登校時に会えなくても落ち込むことはない。朝に会ったことが一度もないから。少しぼんやりとしたまま授業を受ける。あと二年後くらいには受験もあるのだし、集中して聞かないとと思うも、帰りに会えるだろうかと気になってしまって授業に集中できない。友達にも「今日上の空だぞ、大丈夫か?」と心配されてしまった。なんとか誤魔化して七限まで乗り切る。途中まで一緒だった友達と別れてバス停へと向かった。

 一歩、また一歩と高まる緊張感。バス停が視界に入る。誰もいないことに気付きため息をつく。落胆と疲れがどっと体を重くする。重い身体を引き摺るようにしてバス停へと近付く。スマホで暇潰ししようと鞄からスマホを取り出した時だった。背後からコツリ、コツリと足音が聞こえた。スニーカーを履いている人の足音じゃないなとぼんやり思う。そういえば彼女はいつもローファーを履いていたっけ。思い出した彼女の姿、今日も彼女は現れないのだろうかと不安を覚える。ちょうどそのとき、「あの……」と声をかけられた。忘れもしない、あの声。鈴のような、一度諦めかけた、その音色。勢いよく振り返るつもりが、緊張か恐怖か不安か、恐る恐るになってしまう。ゆっくりと振り向いた先には、一週間ぶりに見る彼女がいた。少し頬を朱く染めて、俺の返事を待っている。彼女からの接触に驚き、目を見開いて彼女をまじまじと見つめると、彼女は視線を外し忙しなく動かす。妙な空気に耐えきれなくなって口を開いた。

「ど、どうも。最近見かけなかったけど」

「えっと、体を壊してしまって」

 それきり途切れる会話。人が来ないまま、バスが到着する時刻が近付いてくる。彼女は少し俯き、俺の言葉を待っているように見える。この想いを伝えるべきだろうか。伝えなければ、最近見かけなくて心配しただけのただの知り合いで終わるだろう。けど、俺はそれでいいのか。自分に改めて問いかける。蝉だけが見守る中、俺は決意する。

「あの……」

 俺の発言が彼女の声とちょうど被る。驚いた後、どちらからともなく視線を合わせ譲り合う。強く彼女に促され、覚悟を決めて深呼吸をした。

「好きです……一目惚れなんです。付き合ってください」

 恥ずかしさでどうしても声が小さくなってしまう。五メートルでも離れていたら聞こえないかもしれないような音量。それでも途中から彼女の顔が林檎のように赤く染まっていったのは、俺の発言が聞こえていたからだと自惚れても良いだろうか。少しの時間が永遠に感じる。心臓はうるさく鳴り響く。数秒の後、彼女が口を開くのが見えた。一瞬、世界が無音に感じる。

「私も好きです。一目惚れではないんですけど、毎日お見かけして……」

 その声を聞いた瞬間、心の中で何かが弾けた。恋が叶った嬉しさ、好きでいてくれたことへの喜びと感謝、そして今更ながら蘇る少しばかりの緊張。どうやら俺の顔も朱く染まっていたようで。「ふふっ」と笑い声を漏らして彼女が微笑む。

「良かったら、この後どこかカフェに行きませんか? 自己紹介もまだですし」

 その日、俺は初めて彼女と同じバス停に降り立つこととなる。


 カスミソウの花だけが、恥ずかしげに手を繋いだ俺たちを見守っていた。

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