家庭教師

アキ

家庭教師



 二〇一一年、夏。





 蒸し暑さがいくぶんましな夏の夜だった。

 僕たちは部屋の明かりを消して、窓からベランダへ出た。静かに風の流れる草木の音と虫の声、仄かに残る太陽の熱が薄いスリッパを通して足の裏に感じられる。

 郊外に建つこの家は都市の喧騒とは無縁で、21時現在、まばらな街灯の他は、遥か遠くをヘッドライトが過ぎてゆくだけだ。

 月の光はどうして青いんだろう…いや、深夜の満月は銀色だ。紺とも藍ともつかない色は、空の色かな。

 そんなことを考えながら今日の玩具をポケットから取り出し、青一色のラベルが巻かれた怪しげな中国製の充電池をふたつ詰めた。



 イズミは緊張したふうに口を横一文字に結び、横から僕の手元を覗き込んでいる。伸ばした黒い前髪がさらりと僕の肘にかかったがお構いなしだ。

 手のひらに収まるくらいの黒い棒状のそれを、イズミに渡しながら言った。



「ここがスイッチ。空へ向けて押して」


「えっ、うん。これなんなの」



 手にとってしげしげと眺め回す彼女に、少し心配になって脅しをかけておく。



「絶対に直視したら駄目だよ。〇.二五秒で失明するらしい」



 それを聞いたイズミは口をまん丸にしたあと、髪を振り身を捩り、身体全体で僕に玩具を押し戻そうとする。



「うわ!やだ!」


「ほら。こっちを空に向けてな」


「怖いって!無理無理無理」


「とりあえずやってみれ、早く」



 少しの押し問答のあと、腕を伸ばしきって震えた彼女の両手の間から緑色の光の軌跡が線が夜空へ伸びた。




「わー…なにこれ、すご」



 恐る恐る開けたイズミの眼は、やがて興奮した様子で空に見開かれ、彼女はスイッチを押したり離したりして、その度に夜空を割く緑の線が現れては消える。自分の手元から空の彼方へレーザーが伸びる、その速度を見極めようとしているのだ。



「秒速約三〇万キロメートル。一秒で地球を七周半する」


「あー何か聞いたことあるかも。めちゃ速くないですか?見えないんだけど」


「うん、速い。もし光の速さでロケットを飛ばせたらその中では時間が停まるんだって。つまりロケットを降りたらそこが未来の世界だ」


「なんでそうなるの?イミフ」


「分からん。次までに調べといて」 


「先生って本当かどうか分かんない事ばっか言うよね」



 イズミははしゃぐように笑った。



「イズミ。星、好きなんだろ。これ使って教えてもらおうと思って」


「自分が先生のくせにー」


「星のことは分かんないよ」


「私もそんなに詳しくはないんだけど、」



 僕らは一緒に冷たい真鍮の手すりに背中をもたれて天を見上げ、彼女はレーザーを右へ左へ指し示す。



「えーとね、あれが大三角形で。…これホント便利かも。アルタイル、ベガ、」


「これがデネブ。白鳥座のしっぽだよ」


「くちばしがアルビレオ。このオレンジのやつと青いやつ。めちゃ綺麗じゃない?」


「天の川の上を飛んでるんだ。ほら、翼をこう広げて…」



 次第に夢中になってゆくイズミは広がる夜空を正確に伝え、光を通じて遥か遠く手の届かない星たちと繋がる。





 それからイズミの授業は三〇分ほど続き、ずっと上を向いていたため首が痛くなった僕らは彼女の部屋へ戻った。

 明かりを点けると六畳ほどの部屋にベッド、向かいの壁際に勉強机があり、棚には書籍のほかCDやアニメキャラのフィギュアやカオスなぬいぐるみが所狭しと並ぶ。

 その横に、キャスター付きの簡素なオフィスチェア。この椅子が、いつもの僕の位置だ。



「ありがとう。勉強になったわ」


「先生、最後の方あんまり聞いてなかったし。首いったー」



 ひとしきり二人でぐるぐる肩や首を回したあと席につき、今度は僕の授業に入る。



「今日はひかりについて」


「はい」



 イズミはわざとらしく背筋をピンと伸ばした。


 新緑のころから週に一度、僕はイズミの家に来ている。

 一応、僕は中学校の全教科を教えられることになっているが、イズミに数学だの英語だのの授業をした事はない。今のところ、イズミにはそれらは必要無い。

 前回は自動車について、その前はチョコレートについて授業をした。





「光は、粒子でもあり波でもある。どちらの性質も併せ持っているものらしい。それらがエネルギーによって打ち出されたり、他のものに当たって反射したのを僕たちが見ている」


「レーザーを見たとき、この部屋の明かりや太陽とか電球とか、普通の光とは全然違うのが分かっただろ」


「真っ直ぐだし、普通の緑とちょっと違うヘンな色だったよ」


「うん。まず色については、光の波…光波というんだけど、こういう風に波が連続して、」



 僕は絵や簡単な図だらけで半ば落書き帳と化した大学ノートに、連続した波を描いてみせる。



「あ、音の波だよね。同じ?」


「そうそう。光もこういう波なんだって。で、このゼロから上に行って下に行って…ここまで。一周期したときのここの長さを波長という。光の色は波長で決まるんだよ」


「そなんだ?なんか成分とかが違うのかと思った…」


「色々な波長の光が混ざっているのが普通の光なんだけど、レーザーは一種類の波長の光だけを出力したものと思えばいい。純粋な色だからある意味、ヘンな緑だ」


「へー。なんかむずかしいんだけど」


「レーザーの色にもたくさん種類があるけど、今日の緑色は波長が五三二ナノメートル。一ナノメートルは、十億分の一メートルだよ」


「ちっさ!もうほぼゼロじゃん」



 イズミが心の赴くままに茶々を入れて、一人でケラケラ笑って体を揺らす。



「うん。あまりに短い、誤差みたいなものだと、やっぱり思うだろ」



 僕は落書きページの左上に、780(赤)、と書いた。



「波長が七八〇ナノメートルを超えた光は、人間には見えない」



 右上に、380(紫)、と書く。



「三八〇ナノメートルより短い光も、見えない」



 イズミの眼がわずかに見開かれた。ふっ、と息を飲む音が聞こえる。



「つまりこの間、」



 僕は二つの数字の下に無造作に線を引き、780と380のところで小さい区切りをつけた。



「四〇〇ナノメートル。僕らの眼が感覚することのできる光、色。赤も青も黄も緑も…美しいもの、醜いもの、四角も丸も立体も平面も」


「イズミの眼が見ている世界は、その全てがここだ」




 圧し黙って線と数字を見つめるイズミの横で、僕は話を続ける。



「次に、レーザーが真っ直ぐ遠くまで届くのはなぜか。これは結構難しくて、とりあえず一種類の波長の光だけを出力するとそういう性質ができる、と憶えておけばいいと思う」



 僕は落書き帳にレーザーポインターから光線が出ている絵を描く。絵の中では光線が壁に当たり、丸いスポットが映っている。



「何それ。マグロじゃん」


「うっさい」



 僕が真面目に線を引くたびに、イズミはコロコロ笑って一人で悶える。



「光はエネルギーでもある。虫眼鏡で紙を燃やす実験、やっただろ」


「やったよ小学校で!煙が出た」


「そう。普段は拡散している光も、一点に集中させるとそれだけの熱を生じさせる力があるんだ」


「ところがレーザーの場合、指向性という性質なんだけど、光がほとんど拡散しない。直視するなって言ったのはそれだ」


「ねえ、学校にもレーザーあったけど、赤いやつ。フツーにスクリーンに当てても燃えないし、当たったとこの点しか見えないよ」


「なんか先生のそれ、すごい強力なヤツじゃないですか?」


「…持ってること自体は別に問題ない。そこはまあ、学校のと同じくらい、ってことにしといて」


「うわ最悪、なんでそんなん持ってんだよー」



 大げさに頭を抱えてみせるイズミに、僕は涼しい顔をして魔法の言葉を使う。



「拾った」





「で、本題だ。これがどんなことに使われているのか」


「指示棒がわりに使うのは身近だろ。スクリーンを指したり、さっきイズミも星のことを教えてくれた」



 イズミはもぞもぞと照れたように黙っている。

 僕は落書き帳に新しい絵を描く。壁の前に三脚を置き、壁には十字が映っている。



「床に置いたやつからこう、壁に向けて…こういう線を映すのもある。これは床に対して水平、垂直だ。壁に何かを取り付けるとき、例えば額やポスターとか、」


「頑張れば真っ直ぐ貼れないですか?」


「そうか?例えばめちゃ大きい…高さ五メートル幅二〇メートルの壁のど真ん中に、一辺が一メートルの正方形を床と平行に描け、とか言われたらどうよ」


「そんな怪しい仕事やだあ」



 僕は、彼女がマグロと言った絵を指して話を続ける。



「そのほか、例えばここのスポットの大きさを測れば、光の拡散率から逆算して照射元から照射先の距離が分かる。レーザー測量器という」


「天才か!それ考えた人ヤバ」


「強力で指向性が高い光って使い方いろいろらしいよ。知らんけど」


「出た。知ってるくせに”知らんけど”!」



 僕は落書き帳のページを一枚戻り、780(赤)の部分をペンで軽く叩いた。



「ここを超えた波長の光は、赤外線と呼ばれてる」


「あー!赤の外ってそういう意味なんだ」


「うん。で、こっち分かる?」



 次に380(紫)を軽く叩く。



「紫、の外、あ、紫外線!」


「当たり。赤外線や紫外線は不可視光と言って、人間には見えない光だよ」


「私には見えます」



 イズミは相変わらず一人でテンションを上げてゆき、こちらへ手のひらを突き出してウネウネと動かしている。



「発射ー、赤外線ビーーム」


「うわああ」



 僕は微動だにせず、一言だけ付き合った。



「そう、赤外線レーザーっていうのもあってね。ついこの前、それを使った事件が起きた。模倣犯…真似して面白がる奴らを出さないために報道規制が少しかかってて、テレビなんかではほとんど見かけない」



 イズミの背がピンと伸びて、両手が膝の上に揃えて置かれた。今までの話は、どうにか頭でイメージすることができるテクノロジーの一つでしかなかった。

 ここから先は、現実だ。



「競馬場で撃ったんだよ。レース中の競走馬の眼に」


「え…」



 僕は努めて淡々と話した。



「実は犯人はまだ見つかってない。どこから撃たれたのか見当もつかない。突然暴れ出して手がつけられなくなったからそのレースは泣く泣く諦めて、後に診察を受けてやっと原因が推測できたくらいだ。その馬の右目は、一部の視野を失った」


「イズミ。知ってるかも知れないけど、競馬ってどの馬がどう勝つかに賭けて、当たったらお金がもらえる。そいつがそんなことをしたのは金のためだ。犯人は、予想される勝ちやすさ…オッズというけど、それが低い、遅い馬に賭けただろう。そっちが勝った時の方が儲けが大きいからね」




「そいつ最っ低」


「そんなことまでしてお金欲しいの!?働けば良いじゃん!」



 彼女が顔を歪めて喚く。



「働いても追いつかないくらいの借金があったかも知れない、単に楽して稼ぎたいってことかも知れない。助けたい何かがあったかも知れない。何とも言えないけどさ」


「借金があっても!そんなの許されるわけない!」


「…うん、本当にね。そのとおり」



 ひと一倍正義感が強いイズミは、身勝手に、無為に傷つけられた一頭の馬のために怒れる少女だった。





 一年生の半ばから彼女が学校へ行かなくなった理由も、その性格が災いした些細なトラブルだと聞いている。彼女は自分の信じるところに従い、結果的に同級生に怪我をさせた。

 それ以来、彼女にとって中学校とは、カウンセリング室へ月に一度連れて行かれ、仮面のように笑顔を貼り付けたスクールソーシャルワーカーに愛想笑いしつづける小一時間のことだった。




 二十三時現在、イズミの母は不在だ。いつも僕と入れ違いくらいで工場の夜勤に出る。

 色を抜いた髪に少しの疲れを見せて、母はしきりに言っていた。


 普通に学校を卒業して、結婚して、家庭を持ってくれれば。

 とにかく普通に。普通になってくれれば、私はそれ以上は何も望みません。



 そんな普通はどこにあるんだろう。中学校はたとえ一日も登校しなくても卒業できる。

 母が出勤すれば、他に家族のないこの家にはイズミひとりになり、そこへ家庭教師が週に一度やってくる。


 通常では考えられないが、イズミの母は『男子大学生』を希望したのだった。

 暗くわずかにギラついた眼の奥底を思い出す。 






「僕が伝えたいのは、」



 僕がいま、イズミの隣でこうしている理由。

 清く正しい事だけを見ていたいわけじゃない。



「皆の役に立つはずのものをそういう使い方をしてしまう大人がいて、悪い事も正しい事も多分同じくらいあって…やりたいことすべてができるわけじゃない。自分の能力、弱さに迷って苦しんで…辛うじて自分の足で、もしくは他人の肩を借りて、どうにか立っている」



 もちろん僕もその内の一人だ。

 借りた奨学金で大学の授業料を払い、ここには金を稼ぎに来ているんだから。



「そんな事情、確かにそこにある真実を、子どもには見えないように覆い隠そうとしたり、お世話焼きな大人もたくさんいて、イズミには…なんて言ったらいいんだろう…そう、僕は僕が知る限り本当のことを伝えたい」



 SSWなんて所詮は人をミドルクラスに圧し込めるのが仕事なんだ。

 イズミ。もう一四歳にもなったんだから、自分の道は自分で決めろ。


 烈しい言葉を間一髪のところで飲み込む。

 それ以上は、彼女自身に気づいて欲しいと思っていることまで口走りそうで、僕は黙った。



「……」



 イズミは机に頬杖をつき、唇を尖らせてしばらく考え込んだ。

 その向こうの本棚には、漫画と、アニメやゲームのパッケージがそれなりに並ぶ。彼女は彼女なりに暇を潰さないといけない。今やこの国が世界に誇るコンテンツは莫大な市場規模を形作っている、らしい。

 マリオカートやポケモンで時代が止まっている僕の眼には、昨今めざましい発展を続ける美しいグラフィック技術で想像上の光溢れる世界観を見事に表現して映り…




「絵、描いてみようかな」



 唐突に聞こえた言葉に、僕は次回の授業の内容を決める。



「…同じこと考えてたわ。真似すんな」


「うざ!先生には無理じゃない?」


 イズミは少し笑って、また頬杖をついた。






 日付を跨いだころ自分のアパートへ帰った僕は、普段レポートの作成くらいにしか使わないノートパソコンを開き、そのままペイントソフトの物色にかかった。

 パソコンが立ち上がるまで携帯の方で授業報告をしておく。もっともらしく、今日は科学の授業とでもしておけば良い。

 夕方に淹れたコーヒーの余りを飲み干し、帰りがけにコンビニで買ったパンを片手に情報収集する。

 最初はフリーソフトでいいだろ。そういえばイズミの家にはパソコンあったかな。あるんじゃないの、知らんけど。



 着信音が鳴った。さっき別れたばかりのイズミからだ。モグモグと咀嚼しながら出る。


  『うん?』


  『あ、お疲れ。ノート忘れてるよ』


  『置いといて。ありがとう』


  『聞こえなーい、何食ってんのほんと』


  『うん』


  『…なー、なんで家庭教師なんですか』


  『知り合いの婆やにさ。やってみれ、って言われてなんとなく』



 ふとしたことからクレジットカードの仕組みを教えた相手は、四〇年あまり勤めあげたプロの家庭教師だった。

 僕らの世代には常識の事だが、遠隔即時決済の技術とインターネットインフラの下地、代理店のフィービジネスのモデルを七〇代に伝える難しさは並ではない。

 あれこれ質問してくる厄介な婆やに、醤油の卸やラジオ、果ては紙飛行機や伝書鳩に例えてどうにか応えた。

 いたく感動する古株の推薦を受け、某社の教師登録に当たって僕の登録試験は免除されたのだった。



  『…ふーーん……』


  『なによ。はよ寝れ』


  『うん。おやすみね』





「…高え。クソ」


 通話を切った僕は悪態をつきながら対応ソフトとOSのバージョンを確認したあと、Amazonで二番目に安くて分厚い台湾製のペンタブを二つ注文した。






【了】




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