第58話:新たな誓い

 癒しを終えた夜。自室で寝ついたロタは、朝になっても目覚めなかった。息を乱してもなく、深く眠っているとは分かる。彼女が起きるまで、俺は待ち続けた。


 寝顔が安らかで、何度も「まさか」と顔を近付けた。が、細い吐息はたしかにあって、また寝床との距離を取る。

 そうして結局、彼女が目覚めたのはまた次の朝。どしゃ降りにも陽が昇ったようだと、明るくなったころ。


「……どうして? ここ、私の部屋よね」


 新しく受け取った外覆いを顎まで持ち上げ、部屋と自分の姿をロタは眺めた。古い物はもう、墓の中だ。


 八畳ほどの部屋には他に誰もなく、しかし誇りにかけて衣服を乱してもいない。彼女自身、寝返りを二、三度しかしなかった。

 幸いと言って良いのか、一瞬の緊張感は警戒でないと思う。恥じらわせたなら、それも問題だが。


「眠るまで見ていろと言ったのは、きみだ。それなら一緒にと言った彼らを追い出したのも」


 護衛の二人に目立つ怪我はなかった。今も一人ずつ交代で、扉の外へ。

 ロタへの報告は彼らを経由し、なぜか俺に伝えられた。どうも彼女専用の帳面にされている。


「そんなこと、言ったのねきっと。でも私、寝ていたのよね?」


 起き抜けのあくびを隠した手が、色の戻った頬を撫でる。よく眠った感覚を、気のせいと疑ったのだろう。


「ふた晩続けてな」

「そんなに?」


 窓、と言っても風取り用の細い隙間へ、大きな眼が向けられた。

 一眼人は光の加減を見て暦を知る。のなら凄いが、そんな事実はない。


「――きみを一人にしてはおけん」


 女の部屋へ居続けるなど。まして主は眠っているのに。

 帝国男子として、あるまじき行為。言いわけにしかならないが、伝えねば彼女も気がかりのはず。


 勝手ながら、かなりの覚悟を背負って言った。だのにロタは、つまらなそうに鼻息を漏らす。


「またワンゴね」

「いや違う。ワンゴはあれから、コルピオの手伝いをしている。時々きみの顔を見には来るが、俺にはなにも」

「ええ?」


 怪訝に首がひねられた。少年の助言なしに居るのが、それほど奇異か。

 そう思うと、落ち着かぬ尻をますます浮かしたくなる。


「じゃあ、どうして」

「芙蓉子に言われた」


 苦笑めいてもいたロタが、唇をきゅっと引き締めた。言葉を選ぶように、口を開けては閉じ。ようやく声になったのは、およそ五番目の候補だった。


「会ったの?」

「きみがサンドラと対面した時、俺には芙蓉子の姿に見えた」


 二つ上の眺望室を、彼女は天井越しに見上げる。

 しばらく。たっぷり数分も動かないのは、サンドラに語りかけてでもいたのか。僅かに唇が揺れ続けた。


「みんな、どうしているの?」


 俺や芙蓉子のことは、もういいらしい。

 問われずともきちんと話さねばならないのだが、思わずほっと息を吐く。


「さほど変わってもない。たとえば蜥蜴人は、まだ戦闘態勢で町に散らばっている。あらゆる敵に備えるのだそうだ」

「敵なんて」

「ないとも言えんな」


 皇帝を絶対と考える者は、いまだ残るだろう。この国の異変を聞きつけ、外征する輩もあるはずだ。もちろん盗っ人の類も。

 争いは終わったと考えたかったろうが、ロタも「そうね」と頷いた。


「蠍人はコルピオの主導で、あちこちの商人を呼び込んだ。今なら食料でも資材でも、売り放題と触れ込んで」

「不足はそうだけど、みんなお金を持っていないわ」

「札管理所の蓄えを放出するそうだ。実際にはコルピオの私財と思うが」

「うん……」


 訪れた商人や職人は、ほとんどがハンブルと聞いた。選り好みをしていられんとはその通りで、住人たちも受け入れざるを得ない。


「他の者は砂掻きやら建物の修理やら、忙しくしている」

「魚人も?」

「奴らだけは地下牢だ。蜥蜴人の司祭に絞られながらな」


 とことん信用ならないが、一族全員を縛り首にも出来ない。誰がなにをしたのか、事実を洗い出していると聞いた。


「じゃあ三眼人は」

「砂を退けるのと畑を作り直すのと、住む者の手伝いだ。自分たちの元の家を住めるようにとは考えんらしい」


 皇帝の側近だった男が、新たな三眼人の長と仮に決められた。いつまででも、どんなことも、求められるまま行うと宣言したようだ。


 皇帝の行いを誤りと認めるのか、とは誰も聞かなかった。それは今の帝国で、ロタにだけ許される問い。

 ただ、半分以上は不満が顔に表れている。と、心の機微を読む俺の恩人は言った。


「そう。やっぱり元の水の都ワタンには戻れないのね」

「元に戻る必要はない。きみの言葉だ、良いものは取り入れ、誰もが納得しながら変わっていかねばと」

「ええ、そうね。みんな納得させるなんて、とんでもないこと言っちゃったわ」


 潤んだ瞳が、まぶたに隠された。唇だけを笑む形にされても、いかに俺が阿呆でも、見てしまった。


「大丈夫だ。きみを慕う者は、それほど無茶を言わん。大きな声から、順に従っていけばいい」


 不安を持って当然だ。けれど国作りの話なら、俺にも言えることはある。


「そうかもしれないわ。でもそれじゃあ、弱い立場の人を無視することに」

「政治とは、そう四角四面でない。大筋を定めれば、必ず不都合が出てくる。溢れた不満を聞き、例外の仕組みを付け加えるのだ。それには無記名の意見書がいいのか、それとも面会せずに対話できるような――」


 君主制ばかりで、議会制など概念もない土地だ。どんな方向に進もうと、話が尽きるのはまだまだ先だった。

 しかし、なんだろう。ロタの瞳に、じっと見つめられている。困ったような笑みも、作り物っぽくはない。


「どうした?」

「あなたって政治と軍事のお話だと、口数が多くなるのよね」

「いや、すまない。不器用な人間でな、話題が少ないのだ。機会と見れば、調子に乗ってしまう」


 悪癖というやつだ。意識はなかったが、喋り過ぎたらしい。恥じ入って咳払いでごまかしつつも、謝った。

 するとなぜか、ロタは笑う。「ふふっ」と小さく声を上げて。


「おかしいか?」

「いいえ、謝ることないのにって思っただけ。夢中になって話すあなたは、楽しそうでいいと思う」

「ああ、そうか――」

「んん?」


 俺も笑った。なぜ笑ったか訝しむ彼女にも、「なんでもない」と。それ以外に、どうしろと言うのだ。


「ねえ、エッジ」

「なんだ」


 柔らかな口調のまま、ロタは寝床の筵を立った。外覆いを置いたのを見ると、出掛けるのではなさそうだ。

 どこへ行くか、追いかけるのに首を動かす必要はなかった。なぜならまっすぐ、俺の目の前へ来たから。


「これから私、どうしたらいい?」


 手を出せば、互いの顔に触れられる。そんな距離で、彼女はしゃがんだ。正視した瞳に呑み込まれそうで、汗を拭うふりをした。


「どうと言っても、民を導くのだろう。なんだかんだ、砂の民もきみを立ててくれるはずだ。甘えては良くないが、遠慮する必要もない」


 そこに居るのは、いつものロタだ。答えたものの、違ったか? と考える。

 彼女は司祭長に、どうしてもなりたかったわけではない。むしろ早まったことに翻弄され、苦労ばかりだったろう。


 これはあえて平静を装い、退く選択肢を問われているのか。ならばと思考をやり直せば、それも良いという答えになった。

 ロタは若い。一からやり直しのような国を背負うのは、当然に過ぎた重荷だ。


「思うのだが」

「なにかしら」

「きみはこの国に必要だ。きみでなければ、暗黒の時代が続く気がしてならん」


 民のためではある。けれど彼女自身、立場をなくして心晴れるものだろうか。

 気の毒なまでに人を想う女だ、それはそれできっと苦しむ。


「ええ、私もそう思うわ。でもね、それは怖いの」

「怖いか。するとどうするのが良いか……」

「ううん、違う。違うの、私が怖いのはあなたよ」


 ひゅっと息を吸って、ロタは倒れ込んだ。いっそ頭突きのような勢いで、俺の胸に飛びつく。


「俺が?」


 撥ね退けるわけにもいかず、どうして良いやら両手を宙に泳がせた。

 すると彼女はなおもぎゅっと、俺の胴を締め付ける。


「あなたはいつか、どこかへ行ってしまうでしょう? 奥さんを捜さないといけないもの、私も止めるつもりはないの」

「ロタ――」


 答えようとすれば幼子のごとく、いやいやと首を振った。極まった声が泣いているようでもあって、そっと背を撫でて慰める。


「役に立たない、臆病者なら良かった。死んでしまうから行くなって言えたもの。でもあなたは、誰より強い。あなたが居ないと、私が寂しくて死んでしまうわ」


 締め付けた腕の力が少しずつ緩み、膝枕の格好になる。呼吸を震わせながら「ごめんなさい」と繰り返すロタに、楽に横たわるよう俺は言った。


「ロタ、すまない。きみに、まず言わねばならんことがあった」

「覚悟しているわ」


 横向きに寝そべり、彼女は少し拗ねた声をする。顔を俺の太ももで隠しながら。


「どこを捜しても、芙蓉子は居ない。だから出掛ける理由もない」

「本当に?」

「当人が言ったんだ、間違いない。出て行けと言われん限り、俺はここに居る」


 ロタは歓喜に、大きく息を吸い込んだ。しかしそれだけで、良かったとも言わない。


「それから芙蓉子は、きみを助けてほしいと言った」

「私を? とても嬉しいけど、あなたが望まないことはさせられない。我がままを言ったけど、黙っていられなかっただけ。どうか忘れて」


 ふっと軽くなって、彼女が起き上がろうとするのが分かった。俺は咄嗟に肩を押さえ、「聞いてくれ」と勇気を振り絞る。


「たしかに芙蓉子に言われた。だが、きっかけに過ぎない。俺は己の意思で、きみの助けになりたいと思っている」

「でも私は」

「ああ、間抜けの俺でも気付いている。すぐに受け入れられるほど器用でもない。しかし時間をくれれば、少しずつきみに向き合える」


 あの時芙蓉子が口を動かしたのは、正確に言うとひと言だけ。声は聞こえず唇を読んだのだが、間違いない。


「じゃあ――」


 泣きべそのロタが顔を上げた。色男の中佐どのなら接吻キスの一つもするのだろうが、俺には無理だ。


「約束しよう。生涯かけて、きみの傍に居ることを」


 芙蓉子は言った、「約束ですよ」と。妻との誓いは、ロタへと引き継がれたのだ。

 新たな誓いのしるしに、せめて。華奢な身体を抱き締めた。

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