第57話:今できることを

 名もなき草葉が靡くように、ロタは揺れた。

 俺や皇帝の姿をその視界に置くはずだが、きっと気付いていない。彼女の眼に感情を読み取ることが出来なかった。

 魂の抜けたよう、と言うのがまさに。しばらく棒立ちで、やがて深く息を吐いた。


 一歩。踏み出した足が、大きくよろける。多くの者が、届かぬ手を差し出しかけた。

 しかし次の一歩は、たしかな足取りに変わる。ロタはゆっくりと、十歩余りをまっすぐに歩いた。


 足が止まり、今度は右手が持ち上がった。大きく、肩の後ろまで。

 これときっかけもなく、その手は風を唸らせる。通り途にあった頬と、乾いた音で衝突もした。


「あれを見なさい。あなたの正しさとは、あれのことよ」


 振り抜いた平手が、たった今歩いた後ろへ向く。指さしたのは、祈りを捧げた位置。彼女を慕う、敬虔な侍祭の横たわる場所。

 チキの姿は、司祭長の外覆いで隠されていた。


「人は死ぬ。寝床で朽ちるも、玉座を戴くも、当人の望むまま生きた後にな」

「あなたはそうやって、叶えることしか考えない。大輪を咲かすために、どれだけでも水を注ぐ。水は貴重なのよ」


 皇帝の目に、鋭さが薄れていた。面倒げにチキを眺め、数拍すると大きく首を動かした。

 忠告通り、白い暗殺者の尻尾が振り下ろされる。首と、額の眼に。


「お前が貴重と言うのは、その男だけだろう。あれや表に転がっているのは、勘定に入って――」


 身体は痙攣させながら、皇帝は話し続けた。しかし途中で、崩れるように倒れた。

 あれ。と言ったのはおそらく、倒れた角鹿人だ。近しい者には一喜一憂しても、そうでなければ数の勘定に過ぎまいと。


 泡を吹いた皇帝を見下ろして、ロタは拳を震わせる。

 この光景を、残る三眼人たちも黙って見過ごした。いや、いたたまれぬ顔で目を瞑った。


「ロタさま。この男の口車に乗り、しでかした不始末に謝罪を申し上げます。まずは私たちも水の都ワタンの復旧に力を」


 しばしの沈黙を、蜥蜴人の司祭が破る。ロタの不義はともかく、砂の民が水攻めを行ったのも誤りだったと。

 けれどロタは、目を合わせなかった。横に首を振り、歩き始める。


「ごめんなさい、今はそんな難しい話は無理。助けられる人を助けたいの、それが誰であっても」


 正門に向かうロタを、二人の司祭が見送る。蜥蜴人は皇帝にも、侮蔑の目を向けたが。


「いかにロタさまと言え、この男を救う気にはならんか」

「いやこの蠍どもは、麻痺毒使えてな。命に別状ないはずよ」

「なに? すると睨んでおられたのは――」

「癒しが必要か、分かるのだろう。あの方の眼には」


 ケフッ。と一つ笑い、老司祭も正門に向かう。それを蜥蜴人の司祭は、慌てて呼び止めた。


「どうするつもりか」

「どうもこうも、ロタさまは全力で癒しを行われる。すると儂らも、なにかしら己の全力を見せねば格好になるまい」

「なるほど、いかにも」


 蜥蜴人は頷き、短槍と盾を構え直す。向けられるのは、呆然と立ち尽くした魚人たち。


「エッジ、なにしてるんです。ロタさまを追わないと」

「あ、ああ。しかし今は、一人にしておくのが良いようにも思うが」


 いくらかの抵抗を見せても、魚人と蜥蜴人では勝負にならない。そんな争いを気に留めず、ワンゴは俺の尻を蹴飛ばした。


「この期に及んで、馬鹿ですか。阿呆ですか、間抜けですか!」

「……悪い」

「他の人なら知りませんが、あなたには一緒に居てほしいに決まってます」

「そういうものか」


 背中の傷は痛む。だが、歩けないほどでない。他ならぬ恩人の言葉だ、信じることにした。


「そういうものです。ボクには分かります」

「ああ、お前を疑いはしない。行ってみよう」


 走ろうとしたが、さすがに難しい。サーベルを杖に、早足で追いかける。

 見失っていたら、という心配は必要なかった。正門を出てすぐ、彼女はさっそくに癒しを与えていたからだ。


「俺に出来ることがあるだろうか」


 並んで祈ったところで、意味はあるまい。情けないが要望を尋ねることにした。

 癒しを受ける者が皮肉にも、三眼人なのには触れなかった。


「あなたも怪我人よ、休んでいて」

「そうもいかん。今のきみを、一人で居させるわけには」


 負傷の程度によって、癒しに要する時間も違うようだ。その三眼人は数分だったが、次の角鹿人は三十分近くかかった。

 そうか彼女が移動するのもいいが、負傷者を集めたほうが楽だ。

 怪我のない一眼人を見つけ、城外を見回ってくれるように頼んだ。もちろん俺も、息のある者を探した。近くに居る者から、段々と遠くへ。


「ちょっとエッジ、あなたの傷を先に癒すわ。そんなので歩き回られたら、気になって仕方ないもの」

「いや俺は」


 二十人も癒したころ、俺自身が捕まった。抵抗したが、押し切られてしまう。まあ怪我人を担げるのは助かるが。

 集めた怪我人たちも、文句を言わなかった。少なくとも声に出しては。


「ねえ、さっき言ってくれたこと。本当なの?」


 ロタは怪我を治すだけでなく、一人ずつに優しい言葉をかけ続けた。「おいしい夕食を食べましょう」とか、「今夜は家族といい夢を見ましょう」とか。

 おかげで彼女自身、気が紛れたのだろう。厳しい顔つきではあったが、少し暗雲が晴れたように見える。


「さっきとは、どれのことだ」

「わ、私を一人で居させないって」

「迷ったんだが、ワンゴに言われてな。追い返されなくて良かった」

「そう――」


 それきり、この日は口を聞いてもらえなかった。生死の境に居るような者を優先して百人以上も癒し続けたのだ、無理もない。


 次の日。朝を待たずに、凄まじい雨が降り始めた。昨日の分を取り戻すように、跳ねる雨で町じゅうが白く見えた。

 ロタの癒しは城内に移って、夜を徹した。一時間に満たない休息は取ったが、二日目の昼には三百人を超えた。


 自力で動けない者は居なくなり、俺のやることもなくなった。

 ではどうしようと考え、思いつく。副官になれば良いと。と言っても、飲み物や食い物を口へ運んでやるのが精々。

 癒しを求める列が途切れるには、さらに二日を必要とした。その間ずっと、俺はロタの傍を離れなかった。

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