第55話:理想への猶予

 皇帝の手が高く上がり、周囲にぐるりと示される。城内は静まり返って、唯一ロタだけが癒しの祈りを紡ぎ続けた。

 組み伏せられたワンゴも、鎧の魚人も。皇帝の意図が分からない様子で、不満げなギョドも。


 水の都ワタンの民は三眼人に見張られ、一様にうなだれる。上目遣いに覗く視線が落胆のようにも、やっと終わったと安堵のようにも見えた。


 それらほとんどの視線が、ニクに注ぐ。当人は一つずつを見返し、ゆっくりと首を巡らす。

 半開きの口は動かなかったが、探るような視線が心情を物語る。首の回る限りを往復させ、ようやく彼は声を発した。


「これは……なんだ?」

「争いだ。森の民と砂の民とが、正しさを賭けて戦ったのだ」 

「正しさ――」


 漠然とした問いに、俺は答えを持たなかった。

 応じたのは皇帝。自信の形に口角を上げ、悠然と見下ろしながら。


「戦えば、新たな富が得られるのではなかったのですか」

「得られたとも。分断されていた二つの民が、我れの名の下に一つとなる。真に協力の成った帝国が、これから始まるのだ」


 なるほどこれは布教活動だ。

 森の民から砂の民へ、立場を変えたニクの迷いに答えることで、皇帝に付くことが正しいと主張――いや、宣伝を打っている。


「新しい土地、新しい人、新しい作物。選択肢が増えれば、分け前も増える。戦いとはその手段に過ぎない。陛下はそう仰いました」


 問いながらも、ニクの視線は皇帝に向かない。

 入り口に倒れた角鹿人、通路の暗がりへ身を寄せ合う水の都ワタンの民へ。ワンゴと俺とを舐め、最後にロタとチキを収める。


「その通りだ。森の民、いやロタの隠し持った富を我々は得た。先に裏切りがあったのだ、これは致し方ない。だがひと度、我れの統率下となれば、次に得る物は必ず行き渡る」

「俺の仲間が傷付くのは、これが最後でしょうか」

「無論。自ら望まぬ限りはな」


 果実の樹木を種から育てるより、既に生った隣の庭からもぎ取るほうがたやすい。奪われた隣の住人も、そのまた隣の果実を与えれば損はない。

 ただし隣の土地に果てがなく、全ての争いに勝てるのであればだ。


「ロタさまは、どうなるんでしょう」


 血の繋がらぬ姉が、一心にただ一人の命と向き合っている。沈痛の色をしたニクの眼に、それはどう映るのだろう。


「まずは捕らえ、裏切りを反省してもらう。だが彼女の祈りは、他に替えがない。出来るならまた、帝国のために生きてもらいたい」

「それは許すと?」

「言っておるだろう、優秀なロタを無為にさすつもりはない。当人がまた歯向かうなら、我れの寛容にも限度はあるが」


 皇帝のひと言ごとに、ニクは頷く。砂を飲み下すようなそれが恭順を示すのか、無理やりに己を納得させる行為なのかは分からない。


「約束しよう。いや……森の民も聞け! 我れに従う限り、身体を休め、腹を満たすことに不満をさせぬ! 物売りと酒場、歩む人の数えきれぬ町をいくらでも拵えよう。凍えるような雪景色が欲しいと物好きが居れば、それさえも!」


 空気を震わす大声に、不安の種は微塵もない。水の都ワタンの民からは、「おお」と吐息が漏れた。

 ニクは視線を落とし、自分が床へ尻を付けたままであるのに驚いた。慌てて姿勢を正し、跪いてこうべを垂れる。


「ならば俺は、変わらず陛下のお役に立ちたく――」


 ぎゅっと目を瞑り、平たい声が並べられる。この男の意図がどこにあろうと、俺は黙って聞いていられない。


「待て」


 三年振りかというくらい、声がかすれた。咳を払い、ついでに起こした胸の埃も払う。引き攣る背の痛みは、奥歯の下に噛み殺した。


「本当にそれでいいなら、止めはしない。だがよく考えろ。この偽帝の言うまま、永遠に争いが続く。弱い者から順番に、必ず誰かが死んでいく」


 立ち上がっても、取り巻く三眼人はなにもしなかった。聞いてやろうという皇帝の素振りに従ったのだろうが。


「俺のような無能は不安で仕方がない。ましてハンブルだ、恐ろしくてこの国には居られない。まず間違いなく、死に一番近いだろうからな」

「――ロタさまは違う」


 ニクは皇帝に向いたまま、まぶたを開けようともしない。声に少し、苛立ちが交じった気はする。


「人が集い、多くを得る者とそうでない者があるのは避けられん。しかし弱い者が食い物にされるだけの国は、早晩滅びる。ここに集まる民の誰も、明日の死に怯えて生きねばならない。そんな国を豊かと思うのか」

「ロタさまは、そうならない」


 もしも大病などして癒しの力を失えば、ロタとて明日にも無能の烙印を押される。

 理解しているはずだが、頑なな声に撥ねるだけ。やはり敗者の言葉は、勝者を前に無力らしい。


「そうか……俺はまっぴらごめんだがな。どんなに途方のない理想でも、血へど吐くことになろうと、生涯かけて必ず達する。それが俺に許された、ただ一つの生き方だ」


 これ以上、かける言葉が見つからなかった。だから正直、もう知らんと突き放した。

 だのにニクは、今さら顔を歪めて見せる。


「分からん。どうすれば正しいのか、俺には分からん。エッジお前は、どうしてそうも言いきれる」

「誓ったからだ。結んだ約束を守ると、世間さまの誰でもやることが俺には出来ん。それが恥ずかしいから、悪あがきする」


 血の気の引いて、おそらく真っ青の顔では説得力がなかろう。ニクが心変わりしたくとも、頼りがいのなさが申しわけない。


「さて聞いたか、我が帝国の民たちよ。このハンブルはこともあろうに、お前たちを自分の同類と呼んだ。使い捨ての無能者と」


 馬鹿馬鹿しさが過ぎて、堪えられない。皇帝はそんな風に、笑いを堪えつつ貶めた。

 すると住人たちも少しずつ、不満を口にし始めた。「一緒にするな」「ハンブルごときが」と、言葉と声の強さが苛烈になる。


「ハンブルを殺せ!」


 味方のはずの人々が、憎しみの視線を向けた。今ばかりは皇帝が武器を奪ってくれて良かったと思う。

 じりじりと近寄ろうとする民を、三眼人たちが押し留めた。


「これが現実よ。理想など掲げても、腹は膨れん。まあまあ、お前一人くらいは好きにさせてやってもいい。先ほど褒めた続きでな」

「後悔しなければいいがな」


 薄ら笑う皇帝と、真似ようとして痛みに歪んだ俺の無様さ。

 その時。睨み合いにもならぬ互いの間に、ぽとり。なにか落ちてきた。

 子どもの手くらいの、瞬間の印象は形も似ていた。この土地の白い砂と同じ色の物体は、素早く床を這って隠れる。


「蠍が?」


 あちこちで「ひっ」と、おののく声がした。見回せばいつの間にか、そこらじゅうの壁が蠍だらけだ。

 けれど動かない。数に恐れをなした三眼人が蹴りつけようとして返り討ちに遭ったが、それ以外はぴくりともしなかった。


「陛下、増援が!」


 図ったように、門の外から三眼人が駆け込んでくる。この時期にと訝しむのは俺だけでなく、当の皇帝もだ。


「増援とはどこからだ」

「ま、山砦の村マトレでございます。すぐにでも陛下の下へ参じたいと」


 伝令に来た男も、不審の声を向けられるとは予想していまい。まずかったかと縮こまり、ひたすら次の言葉を待った。


山砦の村マトレか、ならば通せ。もうやることはないが」

「は、そのように」


 伝令が去った後、増援とやらはすぐにやって来た。最初に見えたのは蜥蜴人。ただ、どうもおかしい。白い盾を携えた者が居る。

 いや村に予備があったのかもしれないが、その数は五枚。ギョドが隠していたはずのを含め、この町にあるだけと同じだった。

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