第54話:奇跡を求めて
「クッ。クッ。誰もの理想を叶えるのでございましょう? 見せていただきたくございますな」
「ギョド、そこまでになさい。でないと私は」
「でないと?」
震えるロタの腕。血走ったギョドが立つのは、瀕死のチキの前。彼女が手出しすれば、あの敬虔な侍祭も危うい。
「ロタ、堪えろ。俺がどうにかする、きみに怒りは似合わない」
「だって……」
潜めた声さえ、細くさざ波だつ。こんな彼女に、なにをさせられるか。
なにも、だ。たとえどんな片手間でも、弱った婦人に鞭打つなど。少なくとも俺の辞書に、それを男の恥と刻まれている。
「もう一度言う、俺に任せろ」
突き出された腕をつかみ、強引に収めさせた。波紋に揺れる黒い泉が、俺を見上げる。
しかしどうするか。ギョドも皇帝も、こちらがどうするか、様子見という顔。次の一手を誤れば、ロタは二度と司祭長を名乗れない。
「は……ハッ。醜いハンブルに、やはりロタさまを預けるのでなかった」
篝火の爆ぜ音にも負けそうな声。ひゅうひゅうと喘息のように、チキは言葉を絞り出す。
「耳が痛い」
俺がそう答えたのは本心だ。この土壇場で、執るべき策が見当たらない。唯一の得意が聞いて呆れる。
「やかましい、私は貴様と違う。ロタさまの枷になど……決して」
チキの声がハンブルへの誹謗だったからか、ギョドは口を塞がなかった。
俺も遅れた。決して、とはなにを決する言葉か。はっと気付き、叫ぶ。
「――チキやめろ!」
と、静止の声は間に合わない。彼は抱えられた腕を振りほどき、己に刺さる槍をつかむ。
頭を振り上げ、ロタに向け微笑んだ。それはほんの一瞬で、丸めた上体が槍を飲み込んでいく。
「なんてことを!」
突き抜けた槍先が、紅く光を返す。慕ってくれる侍祭がどうなったか、ロタはようやく叫ぶ。
それと同時に駆けた。きっと彼女の眼に、もうチキ以外は映っていない。前のめりに倒れた男を抱き上げようと、両手を伸ばし。
俺も走った。ロタよりも、ひと呼吸早く。駆けつつ、炎の弓を持ち上げる。狙いもそこそこに、取っ手を引いた。
概ねはギョドの背後。護衛らしき、全身真っ黒の男。上半身を裸で、三角に尖った鼻をずっと俺に向けていた。
「帝国を傾く悪党、ロタを捕らえよ!」
皇帝の冷酷な声が響く。振り返る猶予はなかったが、大勢の足が動く気配はたしかだ。
だが俺に最優先の問題は、護衛の魚人。男は仰け反ったものの、また戻って俺を睨む。
いや、笑ったのか。鯰のごとき大口を開き、己の胸を叩く。傷などないと、鉄鎧のような皮膚を見せつける。
「お先にです」
近付いて、もう一射。という意図は崩れた。真っ白な人影が俺を追い抜き、魚人の司祭をめがけ飛びかかる。
と思えば少年はギョドの頭を踏み台に、もう一度跳んだ。尖った爪を向けたのは、鎧の魚人。
どいつもこいつも策なしに、よくも無謀な真似を。万策尽きた今、それ以外にないのも実際だが。
炎の弓を放り投げ、サーベルを両手に構える。目標を変更し、ギョドに体当たりを喰らわせた。
「チキ。い、いま癒やしを願うから」
ロタは倒れた侍祭の脇へ両膝を突き、祈りを捧げ始めた。そんな彼女につかみかかろうとする魚人を切りつけ、蹴り飛ばし、投げ捨てるのが俺の役目だ。
それもワンゴが、鎧の魚人の頭を抱え込んでくれるからだが。眼を潰そうとする小さな狗人と、させまいとする屈強な魚人の対決が続く。
何人目の時か、サーベルは折れた。鎧の魚人はまた特別としても、魚人たちのほとんどが硬い鱗を持つ。
その次に襲った者の手首を取り、短剣を奪った。そのまた次の者に突き立て、失ったけれど。
いったい何人居るのだろう。数えられたのは十人を超えるまで。
視界に入った腕をつかみ、手っ取り早く肘の関節を壊す。間に合わなければ体勢を崩し、床へ顔面を打つように投げつける。
考える余地はない。そういう機械のごとく、ロタに近寄る者を引き剥がした。
「そこまでだ」
後ろから声がかかり、次には背中が燃えるように熱くなる。
激痛に、手足を止めてしまった。声をかけた何者かは、そんな俺の背中を蹴倒す。
取り囲んだのは三眼人。中の一人が、血の滴る野太刀を俺に向けた。
痛みの理由などどうでもいい。構わず正門のほうへ目を向ければ、皇帝も階段を上ってくるところだ。
「色々と驚かされたが、お前の忠誠にもだ。ハンブルと言え、それだけは褒めてもいい」
視線の合った俺に話しかけるのは、街角の世間話を思わせた。やれやれとため息を吐きつつ、左右をゆっくりと見回す。
「きゃんっ」
犬の悲鳴が聞こえて、首を向けた。五、六歩先にワンゴが突っ伏している。
息荒く、苦しそうに舌を出し、鎧の魚人に背を踏みつけられた。あの小柄で、俺よりも長く持ち堪えたのだ。
三眼人はロタをも囲む。チキを見つめ傷口に手を向ける彼女を立たせようとするが、振り払われた。
今度は野太刀を突き付けようとするものの、皇帝に「やらせてやれ」と止められた。
当然に、もはや逃げようがない。
「ロタ、癒しの最中でも聞こえていよう。私利私欲に塗れた、お前の目論見は失われたのだ。これからは砂の民も森の民もない、我れが唯一の代表者として導く」
敗者に発言の場を与えるかは、勝者の気分次第。となるとロタを監禁し、二度と日の目を見せまい。
返事のないことで最後の機会は与えたと言わんばかり、皇帝は満足そうに笑った。
「ニク――」
逆転の悪知恵は、もうない。それでもなにか、蟻の穴でも空けられまいか。材料を探せば、一つだけあった。
いつからそうしているのか、床にへたり込んだロタの弟分。皇帝の裏事情も知ったあの口を動かせば、まだ奇跡の起こる余地はある。
「ニク、お前はいいのか。ロタは皇帝に歯向かった、唯一の一人ではない。皇帝に排除される最初の一人だ」
「貴様、陛下を付けんか!」
誰かが踏みつけた。だが聞く耳を持たない。帝とはあらゆる者の頂点で、
しかしそこに居るのは弱い者を見下し、「まあいい」とせせら笑う男。俺にはそうと認められなかった。
「次はお前だ。皇帝を僭称するこの男は、自分に都合の悪い者を始末していくぞ。それがニク、お前の求める豊かな未来なのか!」
じっと一点を見つめるようで、ぼんやりと呆けていたニクの眼に光が戻る。
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