第52話:反撃の機会は何処
「便利な裏口でもあるのか?」
「ないわ。あの扉から先は許された人しか入れない、皇帝の区画なのよ」
「記憶違いでなくて良かった。不思議な話ではあるが」
不可視の覆いで通り抜けたか? と最初に考えた。剛力の盾や高跳びの沓のように、複数が存在する宝物もあったのだから。
しかしそれなら、この国にはもっと幽霊の話があっていい。知らぬ間に大切な物がなくなるとか、家が荒らされるとか。皇帝に逆らう者が、なぜか勝手に死んでいくとか。
「陛下。忠臣ギョドは、いかが致しましょう。高慢な司祭長を捕らえましょうか。それとも小賢しいハンブルを血祭りに?」
「いいと言うまで黙っていろ」
悦に入った魚人を、皇帝はひと睨みで黙らせた。ただそのよそ見も一瞬に満たず、鉄の鋭さを備えた三つの眼は常に俺へ向く。
「
静かに。だが腹の底へ押し付けられるような、重い声。誰も手を出さぬのをいいことに、皇帝はなにやら主張し始めた。
二階に在る民たちは、ようやく目を覗かすかどうか。身を低く、手にした弓をべたりと床に着ける。砂の民がやって来れば、とにかく射よと言われたはずだが。
「我れはたった今、ここまでを自分の足で歩んだ。諸君らを襲った不幸には、向ける言葉さえ思い浮かばない。だが同時に確信もした、この町は蘇る」
二つに割れている八人種を、全て自分の味方に付ける。その基本姿勢は健在のようだ。
ならば撃てない。
「街を覆ったのは川底の砂だ、以前より肥えた畑が作れよう。住み処を修繕し、泉を掘り起こせば元通り。疲れた諸君に酷と分かっているが、我れも助力を惜しまない。豊かな
少し具体的だが、ロタと変わらぬ言い分。違うのは、この場所を制圧しつつある者の声ということ。
お前たちには危害を加えない。と、穏便な風呂敷に包んだ脅迫。
段々と近付いた争いの音に、住人たちは怯えている。皇帝の両脇、背中に増え続ける、兵士の姿にも。
もちろんそれは仕方がなく、責めても詮ない。
「ワンゴ、ワンゴ」
手すりから皇帝を見返すロタでなく、小さな身体を余計に縮めた少年を呼んだ。
屈んだまま寄ってくるのが、毛糸玉の転がるようで可愛らしい。
「なんです?」
「一つ頼みがある」
「一つ一つって、随分と貸しが貯まってますよ」
「すまんな、後でまとめて返す」
畳んだ褐色の布を手探りで取り出し、渡した。受け取ったワンゴは、ちょっと開いて怪訝に首を傾げる。
「包帯ですか? 誰に巻くんでしょう」
「気になるんだよ」
魚人は皇帝の指示通りに沈黙した。彼らの居る謁見室は直前に上りの階段があり、つまり俺たちと視線の高さを同じくする。足下の床も、こちらの床と直に繋がっていた。
そんな位置から、ちらちらと上目遣いの向くのが厭らしい。
「気休めのまじないとでも思ってくれ」
「はいはい、分かりました」
使い方を教えると、少年は面倒を装って頷く。この状況にもおののく様子はなく、肝の太さが頼もしい。
「そうだ、もう一つ」
「まだ借金を?」
「いじめるな。皇帝陛下のことだ、なぜ炎の弓を避けられた? 八人種の宝物以外に、まだなにかあるのか」
ワンゴの指が、自身の顔を指さした。正確には、おそらく目を。
「一眼人が遠くを見るのと同じです。三眼人は速い動きや細かい物を見るのが得意なんです。中でもあの人は特別らしいですけど」
「それでか――分かった、頼む」
思った通り。炎の弓の向きを正確に見極め、俺の手が取っ手を引くのに合わせて避けたらしい。
十二分に人間離れした業ではあるが、良かった。俺には理屈も分からない、魔法のような現象ではなさそうだ。
教えてくれた毛糸玉は、謁見室の方向に転がっていく。砂岩に白い身体は目立たず、いかに篝火が照らしても手すりの合間から見つかりもすまい。それこそ皇帝の三眼でもなければ。
期待に違わず、ギョドは気付いた様子を見せなかった。ワンゴは見事に頼みを成し遂げ、俺の傍らへ戻る。
「さて。首都を移したばかりで、我れの手元にも物資の限りがある。それでもすぐにやって来たのは、諸君がかけがえのない帝国民だからだ。ただちに必要な分くらいは、食料を持参していた」
皇帝の演説は続く。この先を含め、雲行きは予想のまま。
見下ろすロタは、遮ろうとも反論しようともしない。話し合うことが彼女の主旨だ、聞かぬわけにいかなかった。
「だが悲しむべき事態が起こった。食料のほとんどが、腐ってしまったのだ。原因は濡れた砂だ、ちょうどここにも残るような」
足下を薄く化粧した砂を寄せ集め、皇帝は手に取る。そっと鼻を近付けると、眉をひそめてまた床へ落とした。
「我れがよほどの間抜けでなければ、周囲にどこの手勢も近付けていない。するとこれは誰の仕業か。諸君の腹を満たすための食料を奪ったのは誰か」
外壁の向こうで、戦いの音が遠退いていく。皇帝の声を邪魔するのは、時に爆ぜる篝火くらいだ。
問う相手を明言せずとも、分かりきっている。ロタが沈黙を続ければ続けるほど、信憑性が増していく。
「ロタさまがそんな卑劣な真似を?」
「まさか、あいつの仕業だろう」
「ハンブルだ。あのハンブルのせいだ」
皇帝は腕組みで、いつまででも待つ格好を示した。
どう答えるかロタの考える間に、住人たちのひそひそ声が膨れていく。
それは俺にとって好都合だ。俺を中心に混乱が起きれば、いかな皇帝の眼も追いきれなくなる。
俺の身がどうなろうと、あの男を討つ。もはや俺の脳裏に、それ以外の目的はない。
「私は……」
しばしの沈黙を破ったロタに、誰もが耳を澄ました。どう答えるか、この場での結論をもちろん俺も知らない。
けれど少なくとも俺だけは、誰もの内でなかった。
不自然な。音と呼ぶにも微かな気配を感じていた。
ゆっくりとした足さばきが、ひたひたと迫る。近くに、遠くに、砂岩で囲まれた中。どの方向かが分からない。
「ワンゴ、堪えろ」
気付いた者が、もう一人。
あちらがその気なら、周囲に知れ渡ったほうがありがたい。
重さに耐えかねた風を装い、炎の弓から右手を離す。手を開いて、閉じて、いつでもサーベルを抜けるように。
「皇帝ディランドの食料を、使えなくするように。それは私の頼んだことに間違いありません」
きっぱりと、ロタは認めた。聞いた住人たちはどよめき、皇帝は薄ら笑う。
それと同時、忍び寄る気配が音を大きくした。何者かの駆ける明らかな足運びに、ロタも振り向く。
それはギョドの立つのと同じ方向。ワンゴの敷いた、細い帯のある位置。
七、八歩先に、布を被った誰かの姿が現れた。俺と変わらぬ体格を屈めて走り、おそらく手には短剣が握られている。
「ぅわんっ!」
ひと声吠えたワンゴ。遅れて抜いた俺のサーベル。二種類の牙が、刺客を襲う。
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