第48話:進む策略
ふっ。と一瞬、影が落ちた。それは極めて素早く、戦う者たちの頭上を舐める。
大きな鳥が翔けたようにも思うが、違う。いかなる鳥も、眼下に矢を射かけることはない。
「弓が。森の民の弓隊です!」
この戦いは近接した位置から始まったがゆえに、弓隊の出番はなかった。それが今さら出てくるとは、皇帝の兵士は驚きの声を上げる。
「こちらも弓を。蠍人はなにをしている!」
蜥蜴人らしき怒声に応じ、数本の矢が放たれた。ただしそれは間延びした隊列の最後方から。前列の中天を闊歩する者に当たるはずもなかった。
街のこの辺りは二階のない、いわゆる平屋の家ばかり。その屋上を足場に、弓を持つ彼らは自在に跳ねる。
その足が踏みきる時、例の破裂音が聞こえた。姿を追おうにも右へ左へ、と思えば後へ。数人ずつがひと塊で、息を合わせて跳ぶ。
高さと距離と、尋常でない跳躍力を抜きにしても、恐ろしいまでの敏捷性と言えた。
「皇帝の使者は、みんな捕まえさせてもらったよ!」
縦横無尽に飛び回るうちの一団が、そこだけ二階の建物に足を止めた。褐色の毛に全身を覆った姿は、俺の恩人ワンゴと同じ。
白い盾を持った蜥蜴人が、建物の入り口へ駆けつける。しかし中へ入るのでなく、盾を壁に打ちつけた。
一度で、屋根まで届く亀裂が。二度で、高い位置の砂岩が崩れ落ちた。三度目には目の前の壁が倒れ、建物の全体が傾く。
当然に、もはや狗人は移動した後。けれど足場を失ったと考えれば、意味があるのかもしれない。
狗人の村に保管されていた高跳びの沓は、二十足。数を知っていても、もっと多いのではと思えるほど休みなく跳ね回る。
彼らを止めるには、町じゅうの建物を破壊することになるが。
「狼狽えるな! たかが二十やそこらだ、仕留めよ!」
ほんの数分で、皇帝はほぼ正確な数を把握したらしい。増援を断たれたのには触れなかった。効果のほどを自ら示す必要は、もちろんない。
従ったのは蠍人。ごつごつとしていかにも鈍重に見えたが、まばたき一つの間に壁を登った。自身の突起を砂岩の隙間に引っ掛け、足場要らずのようだ。
五十。いや百人ほどが、見上げて弓を構える。
「後方を纏めよ。路地を迂回し、側面を衝くのだ!」
皇帝は狗人だけに囚われず、遊兵となった後続にも指示を与えた。承知で押し切れると踏んでいたのだろうが、そろそろ焦りが見えてきた。
こちらの作戦はうまく行っている。空飛ぶ弓隊の役目は、三眼人と蜥蜴人に密集隊形を作らせないこと。
遊撃に散った一眼人と鼠人は、側面狙いに動く者への対応。
元兵士と角鹿人で正面を支え、じりじりと城まで下がる。
さらに高跳びの沓が足りなかった、狗人の残りも待機している。三度目の笛を吹けとロタが指示すれば、適宜の場所へ姿を現す手筈。どんなに遠くとも互いに共鳴する、呼び寄せの角笛あっての作戦だ。
「ロタ、俺も屋根に登る。無理をするなよ」
「え、ええ。気を付けて」
彼女には護衛の一眼人と、角鹿人も二人付いている。戦場に万が一は付きものだけれど、大丈夫と信じるしかない。
ここまではいい。だが懸念もあった。寝返りを約束した魚人の姿が見えないことだ。
食料のほとんどを失った皇帝と、当分の目途の立ったこちら。昨夜告げた通り、明らかな優劣がついた。それでも決断のないのは、まあ予想の範疇だ。
先祖伝来、筋金入りの気まま我がままな性分は、そう簡単なものでもなかろう。
ゆえに。寝返ろうかどうしようかと、迷い続けてくれれば良かった。一見には押され続けの戦況を見て、また皇帝の側へ天秤が動くまいか。
だからと急いては意味がないけれども、進展を早める努力はすべきだ。
「皇帝は怯んでいるわ、一気に引きましょう。城壁で戦えばこちらが有利です!」
俺の考えを読んだわけでなく。弓隊が掻き混ぜた後、と予定の指示をロタは叫んだ。
どうしたことか、ついさっきまでの朗々とした美声が影を潜めている。ぶるぶると、俺にまで移りそうなほど震えた。
「案ずるなロタ! この空の曇らぬ限り、天空神がきみを認めている!」
「は、はいっ!」
随分と太陽が傾いた。それでもまだ、天は青々と高い。豪雨のやむさまを見た以上、これは気休めでないただの事実。
その上に少しでも皇帝を弱らせれば、彼女の励ましになるだろうか。
「死ぬなよ……」
呟いたのは、狙う相手に向けた言葉。しかし躊躇なく、炎の弓の取っ手を引く。
――良かった、蠍人も胸当てを着けている。屋根から落ちても、加えてあの頑丈そうな身体なら大過あるまい。
防具のない箇所へ命中すれば、ほぼ確実に絶命させる。ロタの気持ちを思うと、なかなかに厄介な代物だ。
「やるなハンブル!」
狗人の一人がすぐ傍へ着地し、また跳ねた。彼らも城壁へ、撤退に移行した。
足元でも、元兵士の隊が一斉に駆ける。最前列と並んで、俺も逃げた。それまでに二射を加え、同じだけの蠍人が弓を落とした。
行く先にはまた角鹿人が壁となり、背後には城壁が控えた。
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