第45話:戦う意味

 この雨季いちばんの豪雨に洗われた街は、しばらく濃霧に包まれた。

 眺望室にも、喉へ押し込まれるような熱気が襲った。たまらず階下へ逃走し、ようやく晴れたのは昼を過ぎてさらに二、三時間も経ったころ。


「これで勝てますね」


 城壁の上に立ち、晴れ晴れとワンゴは言った。その目は川の向こう、慌てふためく皇帝の陣地に向く。


「勝てる?」


 同じく向こうを眺めたロタが、少年を見つめた。疑問を口にした顔には、不安と迷いが宿る。直にサンドラと対話した、と興奮していたのが幻だったかと思えるほど。


「そうでしょう。角鹿人が食べ物を運んでくれたし、こっちにはもう心配ごとがないです。あとはエッジの作戦で、皇帝を倒すだけですよね」


 八人種で最も頑強な角鹿人を、およそ千人。昨日送り出した彼らが、つい先ほど戻った。保存の利く野菜や家畜を、誇張なしに山ほど抱えて。

 そのさまを見れば、後顧の憂いなしと言いたくもなろう。だがロタは頷かない。しばらく少年の顔を眺め、はっと気付いたように目を見張る。


「いいえ、勝ってはいけないわ」

「え、ええ? ここまで来て、皇帝に譲るんですか」

「ううん、そうじゃない。私もディランドを討ち倒すと思っていたわ。でも違うって、ワンゴのおかげで気付けたの」


 彼女は腰を屈め、少年の手を取った。答えになってなく、ワンゴにはさっぱりだろう。


「森の民と砂の民、どちらも勝ちはしない。どんな戦いになっても、皇帝と私だけは死んじゃいけないの。目的は、いがみ合いを止めるだけだから。でないと、戦ったことに意味がなかったって言えないもの」

「ああ、なるほど。ボクなんかが死ぬのとロタさまとじゃ、意味が違いますね」


 少年の答えは、あっけらかんとしたものだ。きっと純粋に、ロタの言い分を正しいと言っている。

 けれども彼女には、かなり堪える言葉だ。自分よりももっと小柄な狗人を、ぎゅっと抱き締める。


「ごめんなさい。私はあなたが好きよ、だから傷付いてほしくない」

「ロタさま、分かってます。ボクはね、恩返しがしたいんです。ボクのために何百人も訪ね回ってくれた、大好きな人に。その機会が出来て、嬉しいんです」


 二人が抱き合ううちにも、皇帝側の動きは慌ただしい。天幕が引き払われ、整然と隊列が組まれていくのが俺の目にも見える。


「なにもせずに帰る、って選択肢もあると思うんですが。しないんですね」

「そう考えるワンゴが皇帝陛下なら、そもそもロタと揉めていない。食料を失ったと言え、一日や二日は持つ。なにより二千の正規兵は無傷だ」


 黙ってしまったロタの背を、ワンゴは撫でる。そうしながらも問う表情は、なにやら楽しげだ。これからみんなで花見に行くと、勘違いしているのでなかろうか。


「やれやれ、見栄っ張りですねえ」

「お前は楽しそうだな」

「そうですか? ロタさまは絶対に傷付けない。コルピオはそもそも居ない。すると悲しむ要素がない、からですかね」


 己の勘定はどうなのかと心配になる。しかし戦いに臨む者が、自身をどう納得させるかは様々。下手に口出ししても益のないことは身に沁みている。


「ワンゴ、一つ聞きたいんだが。神像に光が降りたとき、ロタはサンドラと話したと言っただろう? お前にはどう見えた」

「えっ、ボクもそうですよ。像が動き出したかと思うくらい、そのままでした。エッジは違うんですか」


 芙蓉子の姿が見えたのは俺だけのようだ。会いたいという願望が見せた夢かと疑いたくなる。

 だがそれにしては、あれは妻そのものだった。手を合わせるのに袖先をつまんで整えるとか、「ああ芙蓉子だ」と思う。

 俺という朴念仁は、そんな細かなことを目に映すまで忘れていた。


「あれは芙蓉子だった。サンドラは俺に、妻と会わせてくれた」

「フユコ……」

「ああ、粋なことをしてくれる。俺の祖国の神さまと、親戚かもしれん」


 ピンと立っていた尻尾が垂れ下がる。力なく、僅かな風にも揺れた。


「じゃ、じゃあ。実際に会えるのも、もうすぐってことですね。それにはエッジも無事でいないと」


 なにも気付かぬふりで、狗の顔を持つ少年が励ましてくれる。

 城壁の下を覗けば一つ目の人間、大きな角を持つ鹿の顔、鋭い前歯を光らせる者。俺の辞書にあった、人間という括りに当てはまらない姿ばかり。

 すっかりと馴染んだものだ。


「そうかもしれん。が、その前に勝たねばならん。いや分かっている、皇帝陛下を死なせず、双方の損害も可能な限り少なく」

「そんなこと出来るんですか?」


 ひねった首と反対に、尻尾が丸まる。言う通り、難儀を行き過ぎて不可能に近い。そんな内容の作戦立案指示が来れば、ふざけるなと突き返すところだ。

 けれど、そうしなければロタを嘘吐きにしてしまう。


「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つるが人の儚さ、と言うからな」

「なせばな……ええと、なんです?」

「また教えてやる」


 上ってくるチキの姿が見えた。俺に用事のはずはなく、やはり「ロタさま!」とその口が動いた。


「ここに居ます」


 すっ。とワンゴを解放し、彼女は立ち上がった。

 引き結んだ唇が、覚悟を物語る。今だけは優しい司祭長さまでなく、森の民を束ねる首長としての。


「打ち合わせの通り、人数分けが終わりました。しかし、本当にロタさまも前へ?」

「当然です。獲物の前へ出ない鷹になど、誰が着いてきてくれると言うのですか」

「それは……」


 沈黙したチキに頷いて見せ、ロタは城壁の端に立つ。眼下に集まった民たちへ、戦いの目的を伝えるために。


「おい貴様」

「なんだ」

「私には城を守れと仰せだ、ゆえにお傍でお守りすることが叶わん。もしもロタさまに毛ほどの傷一つでも付けてみよ、私は貴様を八つ裂きにしてくれる」


 最初は分からなかった一眼人の感情も、随分と読み取れるようになった。それでもこの男からは、怒りに類するものしか感じない。

 というか、怒りの中に喜怒哀楽が練り込まれている。俺よりも不器用な希少な人種を、どうも嫌いになれなかった。


「大丈夫だ、餌だけを喰われるようなヘマはせんよ。釣りには多少の自信がある」

「ロタさまを餌扱いするとは――」


 今にも話そうとするロタを近くにして、チキは声を抑えた。忌々しげに奥歯を鳴らすと、俺の襟首を鷲づかみにした。


「くれぐれも、くれぐれもだ。頼む」

「任せろ」


 睨みつけ、歯ぎしりしながらの言葉とは思えない。が、それだけで手は離れた。彼はロタの背中を眺める位置へ行き、顔を引き締めた。


「みんな!」


 ロタの声が、熱砂に跳ねる。遠く町の向こうでは、皇帝の兵が川を渡り始めた。


「今日という日まで、私はディランドの暴走を諫めてきました。でもごめんなさい、彼は剣を抜きここへ来ようとしています」


 民の間に、どよめきが走る。敵対が明確となっても、直接に攻める想像が追いついていないのだろう。


「皇帝の目的は私です。司祭長の私を捕らえ、嘘吐きに仕立て上げること。そうなっては私たちの、穏やかな暮らしが終わります。だからお願い、私を守って。身勝手と分かっているけど、もうそれしかないの」


 風は微かに。誰も、なにも、ロタの言葉を遮る者はない。


「私たちは暴君とは違います。のぼせ上がった彼を捕らえ、話し合いの場に座らせるの。だからディランドも傷付けないで。難しいと思います。でも、お願い!」


 腰に提げた戦棍が抜かれ、高く掲げられた。応じて集まった民たちの気勢も上がる。ひと塊の声がロタの名を呼び、戦う目的を合言葉に繰り返した。


「ロタさまを守れ!」

「皇帝を生け捕りに!」


 城壁の外には直接の戦いを望む元兵士や、各々の村から集まった者たち。城壁の中には、老いた者や女、子どもたち。

 怯えた顔は一つとしてなく、強く拳を突き上げる。

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