第44話:今生の別れ
眺望室の景色は、滝裏へ立つがごとし。城を囲む城壁まではどうにか見えるが、そこから先はまったく。
試しに階下を通りかかった一眼人に声をかけてみたが、「遠見の筒のようには」と無駄だった。
「計画の修正が必要か――」
皇帝側の食料は、おそらく二十日ほども持つ量だ。それでも足らねば、
こちらに援軍がなく、食料を増やす手立てもないと考えれば正しい戦略と言える。
しかし現実には、食うことへの懸念を失くした。あちらの補給を断つことが出来れば、形勢逆転が叶う。そこまでせずとも良いよう、ワンゴに働いてもらったのだが。
ともかくロタに伝えなければ。探すために階段を下りかけると、当の彼女が上がってくる。
「ちょうど良かった、相談しなければならんことが」
「なにかしら」
引き締めていた口もとが可憐に動き、呼びかけに応じてくれる。けれども後に続く者のために、足を止めなかった。
角鹿人と鼠人の司祭。それぞれの侍祭が数人ずつ。
「貴様、目覚めたなら手伝わんか!」
列にはもちろんチキも居た。そう言われても、彼らの行動を逐一知るわけでない。
だが、そう言いたくなる気持ちも分かる。侍祭たちは、大きな木像を運んでいた。慎重に、ほんの少しも床や壁へ擦りつけることのないように。
「これは――」
鷹の頭、鷹の翼。胸から下は人間の姿をした、彼らの崇める神の像。綺麗に磨かれているが、砂に汚れた跡が生々しい。
「見ての通り、サンドラよ。それで相談ってなに?」
「あ、ああ。この寒さでは、あちらの食料の腐敗が遅れる。補給部隊を叩かねばならんだろう。すると当然、戦闘が発生することに」
この補助策は想定に入っていた。そのための部隊も、既に前進配置させてある。
ゆえにだろう、ロタは首をひねった。それのどこが相談かと。
「もしかして、誰かが傷付くかもと言っているの? 犠牲を少なくすると言ったのにって」
「そうだ」
「仕方ないわ」
たったひと言。それだけを聞けば、いとも簡単に彼女は答えた。
けれど声を発する前に、まばたきにしては五倍も長くまぶたを閉じた。僅か一秒かそこらが、途轍もなく重い。
「……ああ」
「でもね、私にも考えがあるの。優しいあなたが、気を病まなくて良くなるかも」
「それがこの作業か」
神像は中央のテーブルに置かれようとしていた。ゆっくり、ゆっくり。あと一寸という高さを残し、さらにゆっくり。
なるほど大窓から降り込む雨も、その足下までしか届かない。高さのあるテーブル上なら濡れる心配がない。
しかしどうやら、ロタは神に祈ろうというつもりらしい。彼女には司祭長という役目があって、当たり前ではあった。
ただ。言い分を聞けば、祈ることでなんらかの解決を図ろうとしている。
「そんなことが」
と。後に続く、あり得ないという言葉を飲み込むので精一杯だった。
雨乞いは知っている。その逆を祈るのも、さほど突飛ではあるまい。しかしもう、戦いは始まっている。まだ直接の刃が交わっていないというだけで。
「ええ聞き届けてもらうわ、私は司祭長だもの。それにあなたを呼んだのはサンドラよ。味方をしてくれる義務があると思わない?」
刻一刻と状況は変わり、目前の雨の下に皇帝の兵が居るかもしれない。そんな時に、神に祈ると。
彼女は神像の先に皇帝を見据え、床へ両膝を突いた。集まった司祭や侍祭たちもロタと神像を囲い、同じく膝を突く。
「天空翔くサンドラよ。八人種の大地に、風をもたらす砂漠の鷹よ。あなたに従う者同士、相争う愚かさをお赦しください。そして争いを治めるため、この雨を止めてください」
救いの手を求め、ロタの両腕が掲げられる。囲む者たちは祈りの形に両手を組み、やはり神像を見つめ続けた。まばたきさえも忘れたように。
「どうか、雨を。あなたの大地を穢した罪は、私たち全員で償いましょう。そのために、争いを治める手助けが必要です。どうか、どうか!」
あっという間に、全員がずぶ濡れになった。しかし一人として、気を散らす者がない。
ロタの行為を疑った俺でさえ、鬼気迫る空気に唾を飲む。
そこへまた階段を上ってくる者があった。見下ろして最初に見えたのはワンゴ。次にロタの護衛の二人。
最後に縄で繋がれたのが、ニク。
「ロタさまが連れてこいって」
俺の顔に疑問を読み取ったようで、ワンゴが答えてくれた。連れてこさせた理由までは不明だが。
ニク自身も不満を隠さず、祈りを捧げるロタを睨む。
「こんなところでなにをしろって言うんだ」
「さあな。見ている以外、俺には思いつかん」
格好をつけて適当なことを言っても詮ない。ぼんやり見ているだけの無能仲間が増えて良かった。
「雨をやませてください。あなたに願うのはそれだけです。過ちは私たちの手で改めます。剣を向けるのは、外の敵だけでいい。私たちは必ず、手に手を取って語り合いましょう」
護衛の二人も祈る輪に入った。縄を渡された俺は、なおさら傍観するしかない。それを尻目に、ワンゴまでも。
「――おい。いつからやってる」
「ニクの来る少し前だ」
一時間ほどが過ぎ、ニクが白い息を吐いた。
ロタは絶えず神に語りかけ、他の者も一心に祈り続ける。なぜ時間を問うたかと言えば、寒さを気にしたからに違いない。
雨に濡れず、マントを着た俺でさえ顎が震えた。滝行の様相で居る者たちが、まだ意識を保っているのが凄まじい。
ただし顔面蒼白になりながらも、微動だにせぬのはロタとチキだけ。他の者は故意に揺らしているかというほど、ガクガクと身体を震わせる。
「こんなこと、いつまで続けさせる気だ。死んでしまうぞ」
「そう言われても、俺に止める術はない。これがロタの生きてきた全てだろう」
意味がないからやめろ、と止めるのか?
言われずとも、喉元まで出かかっている。何度も何度も、呑み込んだ回数はもはや知れなかった。
だがそれは、ロタの人生を否定すること。即ち彼女を慕う者たち全員を否定することだ。そんな大それた非道を行う度胸は俺にない。
むしろやるべきは他にある。
「ニク、頼みがあるんだが」
「頼み?」
「この縄を手放す。しかしお前は、ロタの有り様を見届けねばならんはずだ。だから逃げないでいてくれ」
「ハッ。そんな馬鹿な頼みがあるか」
冗談と思ったようで、ニクは小馬鹿に笑った。だが俺はそれに返答もせず、宣言通りに縄を放る。
「お、おいエッジ。お前までか」
輪の一つ外に膝を突く、ワンゴの隣。俺も格好を倣い、祈った。最初は戸惑うニクの声が気になったものの、すぐに頭の奥がぼうっと痺れたようになる。
いや五感は健在だ。「逃げちまうぞ」と脅すニクの声ははっきり聞こえたし、氷の矢のような無数の雨粒も数えられる気がするほど。
なんというか、どうしようと考える余裕がない。どこで、どれだけ、なにをしているのだったかも曖昧になっていく。
大きな波にさらわれそうな気がして、そのたびに意識を繋ぎ止める。
なにが正しいかは俺に分からない。とにかくロタの思う通りにしてやりたいと願い続けた。
「あ……」
どれくらいが経ったろう。強く求め続けたロタの声がやみ、ふっと漏れる吐息が聞こえた。
見開いていたはずの目を彼女に向け直すと、その両手を誰かが握っている。
「光が」
呟いたのは、たぶん俺だ。隣で祈るワンゴも反対のニクも、呆然と大口を開けたままでいる。
神像の真上から、黄金の光が降りていた。砂岩の屋根を突き抜け、まっすぐに。
ロタの手を取る何者かが、光の柱から歩み出る。神像に彫られたのと違い、細い脚だ。
真白な肌の持ち主は、その顔も晒した。ロタと視線を合わせ、優しく頷くのは女。長い黒髪で、白い着物を。俺の祖国の衣服を纏う。
「芙蓉子……」
妻はロタに話しかけた。けれど唇が動くだけで、声は聞こえない。
頼む、俺にも。俺の手も取ってくれ。なんでもいい、きみの声を聞かせてくれ。
力の入らない腕を必死に伸ばした。
「芙蓉子。どうしてきみが?」
答えはない。ロタの声も俺に届かず、二人はしばらく話し続けた。
妻がそこに居る。動いている。羨むのを半分置いても、残りは嬉しいと感じた。
もちろんだ、当然だ。俺は芙蓉子と再び
やがて、二人の会話が終わる。ロタが大きく頷き、芙蓉子も同じく答えた。
すると妻が次に向いたのは、俺のほう。
「芙蓉子。きみとの約束を果たすため、俺はここへ来た」
そっと上がった手が、口もとを隠す。小さな笑声、は聞こえない。しかし照れる素振りは、間違いなく俺の妻。
「きみは、どこに居る? ロタは天空神を呼んだはずなのに。まさか、まさかきみはここに居ないのか。神の住む場所に、極楽に居るのか」
芙蓉子は若々しく、健康そうに頬を艶々とさせた。大学で出逢ったころ、いや結婚して少し経ったころ。
祝言の後、たった二日の休暇を喜んでくれた。ずっと一緒に居る時間が怖いと、俺を笑わせた。
あの時の微笑みで、妻は頷く。
「そうか……」
その瞬間、俺がこの土地に生きる意味は失われた。ならば極楽へ行けばいいのか、それには死ねば良いのか。
急く想いが、次の言葉を迷わせた。
「芙蓉子、俺は」
きみのところへ行きたい。まずはそれだとようやく気付いた。しかし、伸びてきた手が俺の口を塞ぐ。
それを言うなと、違うと? 声の伝わらぬのが、ひたすらにもどかしい。
空いた手を、妻はロタに差し向けた。従って目を向け、また芙蓉子を見る。すると満面の笑みが頷いた。
「ロタを助けてやれと言うのか?」
芙蓉子は両の手を重ね、頭を下げる。肯定なのか、別の意味か。測りかねた。
けれど、顔を上げた妻がなにか語りかけてくれた。やはり声は聞こえなかったが、唇を読み取ったのに間違いはないと思う。
「ああ、分かった」
具体的にどうしろと、芙蓉子は言わなかった。つまり俺自身が考えろということだろう。
直ちに整理はつかない。一つ確実なのは、妻とはこれきりというのみ。
「極楽で待っていてくれ。可愛い蛙を楽しみにしている」
間違いなく、これが今生の別れ。意識して告げた言葉に、芙蓉子は小さく頷く。
そして、弾けた。
降りていた光もろとも、水飛沫に似て。細かく散り散りに飛んで消える。
一陣の風が、眺望室を吹き抜けた。それは妻の痕跡だけでなく、降りしきる雨をも撥ね飛ばす。
あまりの勢いに、まばたきを強制された。その次そっと開けた目に、強烈な陽射しで覆われた
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