第43話:隠れた想い

 一つの甕が空になるまで、誰もがその様子に見惚れた。しかし今度は豆だ、と別の甕に取り掛かった途端。突如として動き始めた者が居る。


 チキだ。彼はものも言わず、持ち運べる分量の麦を小袋に移し替えていった。

 それを二つ、固く固く口を縛って両脇に抱える。するとそのまま食料庫を出て行った。ロタに向けてひょこっと、会釈めいて首を下げただけで。


「どこへ行った?」

「もちろん調理係のところよ。たぶんだけど」

「ああ、それは正解だな」


 麦も調理なしには食えない。分かっていたが、思った以上の成果があったことに思考が止まっていた。


「しかしチキだけでは大変だな。俺も手伝おう」

「いいえ、大丈夫だと思う」

「一人でやらせるのか?」


 水の都ワタンの民全員に、空腹の心配をさせずに済みそうだ。その安堵が彼女を笑わせるのだろう、微笑みが横に振られる。


「お世辞にもチキは人付き合いがうまくない。上の人間には自分の意見を言えないし、同格の相手には欠点を遠慮なく言い過ぎる。でも、自分より弱い相手にはなにも言わない」

「ほう?」


 欠点を遠慮なく言うのは同格。と聞いて、苦笑と失笑とどちらが正解か迷う。

 と、その間にチキが戻ってきた。空いた袋を持ち、また視線は山となった麦にだけ向く。

 出て行った時と違うのは、彼は一人でなかった。ワンゴと同じかそれより年下の男女が四人、おっかなびっくりで着いてくる。


 麦を詰めると、子どもたちが運ぶ。誰も居なくなると、チキ自身が運ぶ。彼の居ない間に戻った子どもは、見たままそっくりを真似る。

 やり方の説明などひと言もなく、麦はみるみる嵩を減らした。


「私がチキに期待するのは、ああいうところよ」

「なるほど、得がたい人材だ」

「だからあなたは、まず眠って。ワンゴももう休んでいるわ」

「そう来たか」


 今度こそ苦笑し、しかし従うことにした。その前にもう一つだけ、用を済ませてからだが。

 厨房へ行くと、既にかまどへ火が入っていた。すぐに作れるというとやはり粥らしく、何十人分がどろどろになっていくさまを見学する。


 それから足を向けたのは、ちょうど厨房の真下に当たる地下牢。階段を一歩下りるたび、どこかに氷塊でもあるような冷気が増す。


「昨日より冷えるな。雨が強いのか?」

「この国の雨は気紛れで困る。少し前から、桶をひっくり返したようだ」


 格子の前に立つと、ニクから声をかけてきた。一つ離れた牢の三眼人は物音ひとつ立てない。

 通常の部屋へ軟禁でも良いのでは、とチキなどは言ったが、ロタが頑なに断った。地下牢に入っているのは、今はこの二人だけだ。


「朝飯だ。作りたてだからな、熱いぞ」

「へえ? 俺はまた、飢餓刑に決まったのかと思ってたが」


 仮に死刑に処すとして、餓死するまで放置という残虐な行いをロタが許すはずもない。

 彼らにも食事はあったはずだが、具のない白湯のようなスープだっただけだ。それはもちろん、司祭長とて同じ。


「ん、随分と贅沢じゃないか。なんだ、ありったけを食い尽くし、やぶれかぶれか?」


 憎まれ口の合間に湯気を吹き飛ばし、がつがつと粥を喰らう。ニクとしては敵の貴重な食料を、少しでも減らす算段かもしれない。


「いや、食い物の心配はなくなった。少なくとも雨季の過ぎる間くらいは」

「なんだと?」

「そこへ行くと、皇帝陛下の兵たちには申しわけない。今日じゅうにほとんどの食料を失うだろうが、敵となった今は譲る義理がなくなった」


 こちらの食料事情が危機に陥ったこと。既に皇帝が間近に来ていることは、想定内だったらしい。

 ぎゅっと奥歯が鳴ったのは、皇帝の軍が飢えると言った時だ。


「……お前だな。どんなイカサマをしたか知らんが、ロタさまや他の連中にそんな悪知恵はない」

「ははっ、チキにも言われたよ。しかしその通りだ。水の都ワタンの民のいくらかは、ロタと共に戦うと決めた。続く者は、まだ増えるだろう。彼女はその全員を死なせたくないと言った。俺はそれを叶えたいと思った」


 こんな話を聞かせて、どうなるとも考えていなかった。

 ロタと皇帝と、ニクの評価が変われば彼女が喜ぶとは思う。だがそのために事実を曲げるつもりはない。

 もしもロタが人を人とも思わぬことをすれば、それも教えてやっただろう。


「じゃあ、また来る」


 三眼人にも粥を渡し、二人ともが食い終わるまで見届けた。しかし皿と匙を回収する時にも、もうニクは口を開かない。

 もちろん無理になにを言わせたとて、そんな言葉に価値はない。凍えて響く自分の足音に無力を感じ、どうにも疲れたと思う。


 言われた通り、少し眠ろう。どこでと考える必要もない。俺には与えられた部屋がある。

 思えばここで眠ったのは、最初の日だけだった。性分とは、意図せずとも出てしまうものらしい。


「ただいま戻った」


 扉を開き、誰も居ない真っ暗な部屋に告げてみる。

 戯れのつもりだった。けれどもどこからか、温かい味噌汁の香った気がした。胸いっぱいに吸い込み、筵へ倒れ込む。マントを外すのももどかしく、俺の意識は速やかに眠りの淵へ沈んでいった。


 その後目覚めたのは、体感で二時間足らず。眠気はすっかりと飛び、身体の疲労も問題ない。

 しかし俺は、舌打ちをする。嫌な音が耳に届いた。ゴロゴロと独特の、他に聞き違えようのない音が。


「これでは気温が――」


 部屋から出てみると、やはり。外に面した窓から、強い雨が吹き込んでいる。夜と見紛うような暗い空の下、マントなしでは震えるほどに寒い。

 天候ばかりは、誰にもどうしようもない。己の運の悪さを呪い、マントを羽織り直す。


 小降りになれば気温が上がり、ワンゴの行いに結果がもたらされる。

 どうにかならんものか。神頼みを情けないと思いつつ、皇帝側の様子を伺いに階段を上った。

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