第42話:穢れを除く
「なるほど、その結果がこれと」
無事に城へ戻れたのは、夜が明けてすぐだった。仮眠をとっていたロタがすぐに起き出し、チキも続く。例によって聖殿の塔の最上階に。
持ち帰った宝物を手にしたチキは、不満を隠さない。投げつけんばかりだが、それは勘弁してもらいたい。
「意図は話したはずだが?」
顔がすっぽり入るくらいの、木製の桶。そう聞けば十人が十人、想像する通りの形。ただし底が抜け、枠だけだが。
俺がギョドに求めたのは、真水の桶。鼠人の司祭によると、泥水だろうと酸だろうと飲み水に変えると聞いた。
「言ったな。しかし不可視の覆いを返すだけでなく、遠見の筒までくれてやるとは聞いていない。底抜けの桶一つでは釣り合わんと、貴様には分からんのか」
「すまない、数の勘定は苦手だ」
きいっ、と癇癪を起こすチキはさておき。ロタは窓の外を眺めて、まだ口を聞かない。遠く投げられた視線は、おそらく食料の幕辺り。「ワンゴがまだ戻っていない」と護衛が呟く。
「俺には見えんが、まだ騒ぎになっていないだろう? それならワンゴは大丈夫だ。俺が無事なくらいだからな」
「ええ……」
ギョドはこれ以上ないくらいに親切だった。交渉を行ったことが露見すれば、自身の立場が危ういからだろうが。
宝物の幕へはすぐに案内されたし、運搬役の休む辺りにはほとんど巡回を行っていないことも聞いた。実際にその付近を抜けて脱出したのだから、間違いない。おかげで帰りの時間は行きの半分ほどで済んだ。
「ロタ、ワンゴは戻ってくる。今回は間違いなく」
「今回は?」
「そうだ。この騒動が治まるまで誰も欠けない、とは不可能だからな。それが誰かの予測もつかん」
眺める目を閉じ、彼女は感情を押し殺す。もちろんそれがどんなものか、俺には分からない。悲しみか、無力感か、人ごとのように言う俺への憤りか。
「ただ、約束しよう。他の誰がやるより、俺が犠牲を少なくしてみせる。一粒の麦で何人を働かせるか、一人の命で何人倒せるか。戦いとはそういう悪趣味な駆け引きで、俺の得意だからな」
瑞々しいロタの唇がきつく噛まれ、青白く変わった。俺の話す区切りごと、彼女は大きく頷く。水面の鳥が大きな魚を丸呑みにするかのごとく。
「きみは生還した者を、よく帰ったと労ってくれればいい。帰らなかった者には、あのハンブルが無能と事実を伝えてくれればいい。きみの座ってきた椅子を、俺は温めてやれない。だが直接汚さないでやることは、きっと出来る」
誰か一人の安否に、いちいち足を止めている猶予は彼女にない。今まではそれで過ごせたかもしれないが、牙を剥いた皇帝の前では。
せめて汚れ役を俺が引き受けよう。争いに勝利さえすれば、その後に必要なのはロタの優しさだ。それまでは堪えてくれ、と言ったはいいが酷だったろうか。
柔らかく噛み砕いたつもりだが、ご婦人にはまだ言葉選びが不足かもしれない。
「ロタさま……」
口を噤んだ司祭長に、チキさえも俺への苦情を忘れた。差し延べようとした彼の手が、宙を掻いて止まる。
彼女は分かっているはず。現実が次から次と押し寄せるせいで、揺らいでいるだけだ。
ここは女心の分からぬ下手くそなりに、励ますのも良いかもしれない。ロタの隣へ立ち、背を撫でようと手を伸ばした。
「ワンゴ――」
「ん」
ぼそり。案じる声が溢れた、と思いきや。彼女の目が見開かれている。
倣って辿れば、たしかに。町の中央を目掛けて疾駆する、小柄な影が見えた。たった今街外れに居たものが、もうすぐ先へ。泥を蹴立て、怪我の一つもしていないのがありありと分かる。
「エッジ」
良かったなと声をかけるよりも、ロタに呼ばれるのが先だった。元気いっぱいの少年を見やりつつ、横目に彼女を見る。
「私は今、きっとあなたを疑いました。信じているつもりでも、何度覚悟を決めたつもりでも」
「構わんよ。もぎ取った結果を、きみは受け取ってくれればいい。もう二度と嘘を吐かん、とは俺が勝手に誓っているだけだ」
「嘘?」
肩を窄ませながらも、ロタはまっすぐに俺を見る。さすがに昔のことを持ち出しては、首をひねったが。
「なんでもない。作戦はうまくいっている」
「そうね。それならすぐに、次の手筈にかかりましょう」
ごまかされてくれた彼女は、さっと勢い良く振り返った。控えたチキの名を呼び、「準備を」と。護衛の一人に、ワンゴを迎えに行くよう告げる。
さほどの間もなく向かったのは、城の食料庫だ。入り組んだ奥にあって、砂はさほど入り込んでいない。だが穀物を蓄える甕には、なみなみとした水がそのまま放置された。
「これが食べられれば、当分は困らないわ」
近寄ると、やはり発酵した臭いがする。このまま置けば酒になりそうにも思うが、元が汚水では飲めたものでなかろう。
ゆえに真水の桶に通せば、少なくとも粥のようには出来るに違いない。
そう期待を篭めて見守る中、チキの選んだ口の堅い一眼人が、麦の浸かる汚水をひしゃくで掬う。
もう一人の支える真水の桶に落とせば、底がないのだから当然にすり抜ける。
さらにもう一人が容器に受ける準備をしていた。が、鼠人の宝物は予想に違う仕事を始めた。
「これはロタさま、呆れたものです」
「ええ、本当に!」
桶を抜ける瞬間、水と麦とが分かれた。磁石の同極同士撥ね付け合うように、二股の滝となって落ちていく。
慌ててロタがもう一つ、受け役に容器を渡す。掬えば掬うだけ、清い水と乾いた麦は溜まっていった。
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