第40話:きみを守る為
「なんだと言うのだ。兵を運び、橋を作った。ならば攻めてくるものだろうに」
聖殿の塔の最上階。夜を目の前にした眺望室の窓へ齧りつき、チキは何度も同じような発言を繰り返す。
言う通り、皇帝は川へ岩を落として並べ、徒歩ならば問題なく渡れる橋を拵えた。
だがそれきりこちらへ来る気配はなく、川の向こう岸へ沿うように行列を休ませた。
しっかりとした布の屋根も備え、緊張感なく寝転がる姿さえ見える。日の翳り始める頃合いには、うまそうな煮炊きの匂いもさせていた。
「闇雲に戦うつもりでいるの? 私は砂の民にも森の民にも、死人を出したくないの。甘い考えと分かっているけど、むしろ望むようなことは控えてほしい」
直接の話し合いで、皇帝は挑発に乗らなかった。あちらから「戦争だ」と言わせるか、卑怯なのは皇帝の側とはっきり示したかった。
どちらも達せなかったロタは、テーブルで浮かぬ顔をする。このままでは、こちらから積極的な動きが執れない。
「い、いやロタさま当然です! しかし……いくらなんでも戦わずして解決とは。皇帝の兵は二千。
武装した兵が約二千人。荷物を運ぶ人員も、およそ同数。
驚くことにこれを数えたのは、遠見の筒を預かる俺でない。護衛の一眼人が二人、それぞれに自分の眼で行った。
目の前のテーブルに並べた豆を数えるくらいの気安さで。ほぼ同時に数え終えた結果も、誤差は三人だった。
「チキの言う通りだ。犠牲をゼロにしようなどと、無理な理想を掲げるのは危険でさえある」
「貴様。ロタさまのお気持ちを考えんか!」
同調したはずなのに、間髪入れずに怒鳴ったのはチキ。
まあなんにでも反対という相手が居るのは、自分の発言に穴がないか確かめられて便利だ。
「チキ。お前の言う通り、ろくでもない人間はろくでもないことを考える。これはもはや籠城戦だ、皇帝陛下は
「今日あれほどロタさまを支持した民たちが、裏切りだと?」
「ああ、簡単だ。苦しい境遇の彼らに、こっちへ来れば快適だと見せつけてやればいい」
おそらくこの後、皇帝は篝火を煌々と焚く。乾いた薪による暖かな灯りの中、やって来た者たちは酒盛りでも始めるはず。
今夜と、明日も使うだろうか。あさっての夜辺り、密かに街へ入り込んだ者が住人に声をかける。「お前たちが飢えても、ロタは知らぬふりだ。それを皇帝陛下は嘆いている」と。
「そんなもの、事実ではない。ロタさまほど民を想われる方は居ない」
「ああ、俺もそう思う。しかし食い物もない中、果てしなく砂を掘るのと。もういいから酒でも飲めと言われるのと。チキほど敬虔でない奴は、どっちに従う?」
推測を聞いても、チキの鼻息は収まらなかった。けれども価値観は絶対のものさしでない。人それぞれ、その時々に置かれた状況ですぐに変わってしまう。
「それはまあ、目先の欲に転がることはあるかもしれんな」
「だろう? そういう中に『悪者のロタを捕まえたほうが早い』と考えるのもきっと居る」
「卑怯な真似を!」
明確なイメージが湧いたらしく、せっかく手放しかけた窓にチキは再び齧りついた。
倣ったわけでなかろうが、ロタも椅子を立つ。彼女が向かったのは、チキが眺めるのとは反対の窓。
「だから狗人と角鹿人を送り出したのよね」
「そうだ。住人たちを兵士と同じには考えたくない、とロタが言ったからな」
幸いに、彼らは聞き入れてくれた。もちろん企んだ俺でなく、ロタの頼みを。
「悪知恵の勝負というわけだ」
「ああ、まったく」
ここ数年で皇帝に解雇された元兵士は、三百人ほど居た。これに各々の村から集まった人数を加えると五百人。
実戦に躊躇はないと、彼ら自身が息巻いている。頼れそうだが、この籠城戦に援軍は来ない。必要十分な数には到底足りなかった。
「私にはそういう卑怯な思考はない。貴様に任せて勝てるのだろうな」
勝てるのかと聞く者は、十割の勝利を期待している。仮に皇帝の側を全滅させたところで、こちらに残るのがロタ一人だけだったら。そこに勝者など居ない。
けれども望まれた成果を出すのが俺の役目だった。そこに妙な言いわけを付けても、士気を下げるだけと知っている。
「俺にもしも、人より秀でたものがあるとすれば。唯一これだけだ」
己のこめかみを指さし、苦笑する。
チキに悪知恵と評される、戦略と戦術の世界。それ以外に、なんの価値もない人間だ。
祖国とここでは勝手が違い、制約も多い。それでもどうにかしたいと思う。
もしもロタが芙蓉子の生まれ変わりなら、今度は俺の力で守ってやりたい。
「あの……」
階下から、遠慮がちな声が上った。階段を警戒していた護衛が手招きし、発言者が姿を見せる。
「ずっと待ってるんですが、エッジはまだですか」
「悪いな、そろそろ行こうか」
今夜行う作戦に、俺はワンゴを相棒とした。情報や人材の不足を、自ら埋めねばならないのは後が不安だが。
「エッジ、無理をしないで。あなたが居なくなったら――」
俺と同じ懸念を口に、ロタが追いかけた。勢い余る彼女を、階段の脇で受け止める。
「俺が居なければ、悪知恵が出てこなくなるからな」
「いいえ、そんなこと」
ロタの背中には、慕ってくれる民が居る。それは
どれほどの重みを、どんな覚悟で支えているか。今にも泣き出しそうな瞳が、どうやって堪えられているか。
俺には想像も及ばない。だからせめて、気休めくらいは言うことにした。自分自身にも言い聞かせる意味で。
「大丈夫だ。無理はするが、不可能を通そうと言うのでない。これはきみを守るために必要で、俺がやらねばならんのだ」
抱きついた格好のロタを、両肩を押して引き離す。信じてくれと頷けば、彼女も釣られたように頷いた。
「きみの言うまま、俺たちは必ず無事で戻る。そのために宝物も犠牲にするかもしれんが、勘弁してくれ」
深刻なロタを和ませようと、冗談めかした。彼女は「もちろん」と、力強く首肯する。
「あなたたちの命より大切な物なんてないわ」
「そう言ってもらえると助かる」
もう一度手を握り、さっと階段を駆け下りた。急かすワンゴの後を追って。
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