閑話
第38話:閑話 芙蓉子の願い
そういえば、あれはどこへやっただろう。
いや覚えている、食卓の脇の茶箪笥だ。どこへしまうか乳母に問われ、俺がそこと答えたのだ。いちばん上の、真ん中の引き出しと。
ただしそれきり、取り出して読み返すことがなかった。整理上手の生真面目な乳母が勝手に動かすはずもなく、そのままあるに違いない。
「英治さん。あなたはどうして、私に声をかけてくだすったのですか。初めて口を聞くまで、私はあなたの顔を存じなかった。それはあなたが物珍しく、学長の娘の見物に来なかったということ」
時候の言葉を除けば、おおむねそんな書き出しだった。
「ご学友に絆されたのでしょう。義理堅く、優しい英治さんで良かった。おかげで私などを見初め、連れ出していただけました。父の教えも尊いですが、やはりあなたとの時間が他に代えがたく楽しかった」
私など、と言わねばならんのは俺のほうだ。優しい芙蓉子が仮にも夫へ向け、つまらない男と書くはずもない。
けれど嘘でも、楽しいという言葉に縋ってしまう。本当に、少しでも、そう感じてくれたなら嬉しいと。
「芝の大神宮は真新しく、さほど私と歳の違わないことに嬉しくなりました。レンガ屋の
芙蓉子がどんなことに喜んだか。そもそも俺と一緒に居て、つまらなくはなかったか。という不安にも妻は答えてくれていた。
しかし随一が鉄道車庫とは意外だった。そう思いつつ続きを読み、気恥ずかしさに喉を詰まらせたのを覚えている。
「爛々とした眼で。機関車の開発経緯であるとか、型式番号の意味とか。なにも知らぬ私に必死で教えてくださる英治さんが、なにより私には珍しいものでした」
特段に鉄道車両を愛しているわけではない。船でも車でも飛行機でも、物騒なところでは銃器でも。より良い物を作る気概を尊いと思う。
新しい部品を、新しい仕掛けを、古い物の子や孫と考える。技術者たちの意気が篭められた名付けなど見れば、肝の辺りが熱くなるだけだ。
「私に会いに戻ってくださると、必ず一度は『すまない』と仰いますね。伏せた妻を放っている、病にさせたのは自分の責任だ。きっとあなたは考えてらっしゃるのでしょう。でも、それは違います」
言ったろうか。
言ったのだろう。元気を失っている妻に謝っても、気を重くさせるだけと分かっていたのに。
「病などと。どれだけ気を付けても、なる時にはなるのです。英治さんにご迷惑をかけてはと、私も精一杯に自分を労ったつもりでした。それでも私は、労咳に勝てませんでした。どうか私たち夫婦を、これ以上は責めないでください」
芙蓉子は己をダシに、俺が自身を責める理由を奪った。そんなことを言われてもと感じたものだが、病に関してはどこか「そうかな」と思わされている。
「もしもあなたに責任があるとするなら、お医者さまでも湯治の湯でも、治らぬ病にさせたことです。お分かりですか、英治さんが目の前の困難をなぎ倒すたび、芙蓉子は歓声を上げています。帝国中将、兒島英治が戻るのは私のため。こう思えることが、どれだけ幸福か」
だが、これはない。百歩譲って、妻が健やかならば聞けたが。
子に囲まれるでなく、床へ伏せるばかりの芙蓉子が、勝手気ままな俺の振舞いに喜ぶとは。
あるものか。それが本当なら、俺は仏とでも連れ添ったのか。
決して負の感情を持たぬ、天女でなくて良い。この甲斐性なし、もっと再々に帰って来いと拗ねてくれていい。
「こう言っては、あなたに失礼です。けれど父は偉大すぎました。私に甘い英治さんが私を連れ出してくれて、心から良かったと思います」
失礼とは、俺と比べられた大島閣下にだ。お父上よりも甘いとは間違いないが。
「叶うなら末永く、英治さんの菩提を弔うまでお供したかった。でも難しいようです。あなたを人前で泣かせること、お許しくださいね」
俺が連れ出したのでない。芙蓉子が連れ出されてくれたのだ。たまたま運命の重なり合った俺に、妻は寄り添ってくれた。
俺の魂のすぐ隣で、互いの供連れとなってくれた。
その事実を思えば、訃報に涙したのなど勲章のようなものだ。言葉を借りるなら、俺にしか流せぬ涙。しかし、欲しくはなかった。
「どうか、どうか。まだまだ盛んにお勤めください。あなたを称え応援する者として、どこまで行けるものか楽しみにしております。独りで寂しければ、どうぞ良い方を見つけてください」
妻に遠慮せず、新しい連れ合いを探せ。これはどういう意味だろう。いや俺にそんなつもりはない。芙蓉子がわざわざ書き記した意図はなんだ。
若い自分に拗ねて、はいまい。皮肉として逆さの意味、に表すような性悪でない。
これまた俺への気遣いというのか。やはり芙蓉子は仏の化身、あるいは天の使いなのか。
「寂しがりと知っているから、それだけが心配です。私のことは案ぜずとも、甘露の池でお待ちしております。極楽の蓮は、どれほど綺麗なのでしょう。可愛い蛙に出会えたなら、英治さんがお越しの時にお話しますね」
芙蓉子の死後、一年。それまで渡すなと言われたらしく、乳母から手紙を受け取った。
俺は寝室に篭り、その日何度も読み返した。おかげで二度と読めなくとも、文面を忘れることはない。
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