第37話:ロタの願い
ようやく薄明かりという城前の広場に集まったのは、二千人強。まだ少しずつ増えてはいるが、現在の
何時何分と指定したでなく。俺の祖国とは異なる文化のこの国に、そもそも時計がない。霧雨の中、暗い空を夜明けと考えるほうがおかしいのかも。
「皇帝陛下が見舞いに来られるらしい」
「ハンブルをお傍に置くロタさまではな」
ざわめく声に、皇帝の到着を待ちわびるものがあった。すぐに役立つ物を持ってきてくれる、という期待もだ。
かこつけて、ロタを貶す声も聞こえた。俺を疎ましく思うついでに。城の物資も水に浸かり、どうにか
「この水害もロタさまのせいと聞いた」
「違う、砂の民の嫌がらせだ」
食い物か清潔な衣服をくれるのでなければ、一掻きでも砂を運びたい。そう思う者たちは、苛々と不満を口にする。
城門の真上。城壁の天井に立つ俺の耳に届き、静かに目を閉じて立つロタの耳に届かぬはずはない。
「エッジ、お願いがあるの」
「なんだ?」
しばらくぶりの声が俺を呼んだ。気に入らぬ風のチキを、護衛の一眼人が止める。森の民の村々から集まった者たちの代表と、角鹿人の司祭は知らぬふりをした。
「ここはあなたに関わりのない国。あなたは十分に助けてくれたわ、今すぐ立ち去って」
十歩ほども離れて、しっかりはっきりと聞き取れる声。だが俺に答えられるのは「なんだと?」と問い質すことだけだ。
「目的があるでしょう? 争いの場に留まってはダメよ」
「そういう話は――」
いまだ目を開けぬままの彼女に、つかつかと歩み寄る。わざと沓を鳴らして止まると、華奢な肩がびくっと震えた。
「昨夜のうちにしてもらいたいものだ。じっくりと、きみの納得がいくまで話せたからな」
「居るつもり?」
「当然だ。だいいち、もしも勧めに従ったとして、芙蓉子は俺を責める。助力できる相手を見捨て、なにをしに来たかとなじられるのは御免こうむる」
見下ろす角度は、妻を目の前にしたのと同じ。嘆息めいて細く、薄く開いた唇から長い息が漏れていた。
やがて、しかめた眉が緩む。果てにようやく目が開いた。小さく、俺にだけ届く声が落ちた。
「馬鹿」
「否定は出来んな」
たたたたっと、おそろしく短い間隔で足音が鳴った。
階段から顔を出したのはワンゴ。城壁上の顔ぶれを眺め、切らした息を飲み込む。表情に、ありありと失意が浮かんだ。
「コルピオが居ません」
「そう。そんなこともあると思っていたの、仕方がないわ」
司祭は城壁に、とコルピオへの伝言をワンゴは預かっていた。
住人たちに知らせた後、ずっと探していたのだろう。結果をロタに伝え、少年は座り込んだ。
魚人の司祭、ギョドも居ない。これは俺たちが
「コルピオからの預かり物があったろう。あれになにか入っていないか」
「それが……」
あの性格を思うと、別れの手紙だの所在を知らせる品だのは期待できないけれども。
案の定。いや思った以上に悲しげにヒゲを垂らし、ワンゴは小さな袋を取り出した。
「なにも入ってないんです。受け取った時には、たしかに硬い感触があったのに」
「中を見なかったのか」
袋を裏返し、逆さに振って見せるワンゴは、知らないと首を振る。
「持っていろと言われただけなので」
「そうか。しかし落ち込むな、あのコルピオが滅多なことをするはずがない」
でまかせのつもりはないが、根拠のない感情的な気休めなのも否めなかった。
あの蠍人のそろばんに、可愛がっている狗人の少年とはどういう数値で弾かれるのだろう。
同胞の誇り。同じ砂の民からの、水攻めという裏切り。計上される項目を思い付いても、加算か減算かさえ分からない。
「ワンゴ、あなたにもお願いがあるの」
「は、はい。なんでしょう」
「ここにね、滅多なことを勝手にする人が居るの。だからあなたが見張っていて」
俯いていた顔が、ロタの声に持ち上がる。けれど今のところなにごともない恩人より、姿を消した雇い主のほうが気になるらしい。
当面の役目を与えるという策は、どうやら不発だ。
「はあ……分かりました」
「エッジ、あなたもお願い」
ワンゴと俺とで、ようやく一人前の扱いだ。首肯すると彼女も頷き、視線を住人たちの待つ正面へ向けた。
城壁の端へ、一歩ずつを踏みしめるように進む。その手にチキが、真紅の宝石で装飾された
葡萄酒に浸したような濃い色の柄が振り上げられる。同時に足も止まり、集まった者たちのざわめきが消えた。
「みんな聞いて。この帝国の司祭長として、話さなくてはいけないの」
普段の物静かな口調とは違う。ああそうだ、俺を生かしてくれた癒しの力。天空神に頼むという、その時と同じ高らかな声。
「
僅かに、ロタの視線が俺を振り返った。察してワンゴを立たせ、前に押し出す。そうすればこの少年が、手招きする恩人を無視することはない。
ただ恩人と言うなら、住人たちにとってのワンゴもそうだ。持ち前の脚で知らせていなければ、避難の間に合わない者もあったはず。
誰にとってもの命の恩人に、割れんばかりの歓声が起きた。ふらふらと頼りなかったワンゴも、さすがに耳と尻尾を逆立たせる。
「私たち八人種の宝物が、何者かに盗まれてしまったの。それは私の責任で、本当に申しわけないと思う。ごめんなさい」
戦棍を持つ手が震え始める。ロタは今日、全てを話すと決めた。いいことも悪いことも、誰の責任かを皆に伝えると。
結果がどうなるか、予想もつかない。
それでも、知ってほしいと言った。皇帝や司祭長だけが判断を下し、その結果に全員の運命が委ねられる。こんな現状は、互いに良くない。
昨夜、ロタはそう決断した。
「犯人を捕まえたわ。他にも居るし、宝物も二つしか取り戻してない。なにより謝らなくちゃいけないのは、一眼人だったってこと」
戦棍を持つ右手の側に、階下からニクが連れてこられた。当然に縛られたまま、口に布も噛ませ、どういう扱いか明らかだ。
宝物を盗まれたこと。二つ取り戻したこと。そこまでは住人たちにも、ロタを慰める声が大きかった。
しかしニクの姿を見せた途端、静まり返った。多くの者が、ロタの弟分と知っている。同じ一眼人、同じ森の民。
非難して良いのか、それはなんと。態度に困っているようだった。
「捕まえたのはもう一人」
左手の側に、同じく縛られた三眼人が立たされた。砂の民であり、この町の住人には純粋に敵と見なせる相手。
けれどやはり、はっきりとした声が上がらない。全員が示し合わせたように、唸り声による合唱が聞こえる。
「この二人を捕まえたこと。宝物が盗まれたと気付いたこと。
昨夜の打ち合わせと違う。犯人を披露した後は、皇帝の陰謀を話すはずだ。
「お、おい」
「エッジ、隣に来て」
くるりと振り返り、手を出すロタ。急にそう言われても、「ではお言葉に甘えて」とはなるまいに。
小さく首を振って拒否すると、先に前へ出されたワンゴが恨めしそうに睨む。
「いや俺はハンブルなんだろう」
そうだ、こういう時はチキを頼れば間違いない。忌避される人種の名を自ら口にし、彼がロタを諫めてくれるのを待つ。
けれど苦々しく開かれた口から出たのは、期待と違う言葉だった。
「やかましい。ロタさまの指示に従え、後の予定もつかえているのだ」
その間にわざわざ、ロタは俺の手を取りに戻った。また端へ出て、繋いだ手を高く掲げる。
「見ての通り、私たちを救ってくれた最大の功労者はハンブルよ。時代は変わっているの。少しずつ、いいものはいいと認めていかなくちゃいけない」
なるほど、そういう話のダシにされたか。構わないが、聴衆の反応はいまいちだ。もはや気まずそうな咳払いしかない。
「そしてこれから話すのが、とても大切なこと」
やっと手が離された、やはり目立つのは柄でない。と言っても、まだ後ろへ下がってはならんのだろうが。
「この国のたった一人が、自身の決めたことを押し通そうとしている。八人種の宝物を独り占めにして、隣国との大きな戦いを起こそうとしている。私たちの
ロタの叫びが、辺りに静寂をもたらした。住人たちは息を呑み、立ち籠める霧さえも動きを止めたように思う。
けれど、その一瞬の後。怒号が天を衝く。
「誰だ!」
「誰だ!」
「誰がそんなことを!」
「誰ですかロタさま!」
「聖戦を!」
「聖戦を!」
ひとしきり声のやむまで、彼女は待とうとしたようだ。しかし一向に収まる気配はない。
仕方なくもう一度、ロタは「聞いて」と皆を黙らせた。
「お願い、早まらないで。やり方が気に入らないから叩きのめす。それではダメだと思うの。きちんと共存の方法を探して、なるべくみんなが納得できる道を進みたいの」
空いた左手を胸に、ロタは声を震わせた。
ニクの選んだ道と違い、とてもゆっくりとした変化しか期待できない。まして住人たちには、命と生活を奪おうとした相手が敵なのだ。
寝ぼけたことを言うなと、反発される可能性もある。半々か、四六で分が悪い。それでもロタは、大きく美しい瞳を潤ませながらも、決してまぶたを閉じなかった。
「着いていきます!」
「我らが司祭長を誇りに思います!」
その声は理想と少しずれていたろう。けれども国という大所帯では、致し方ない。
彼女は大きく息を吐き、頷いて見せる。
「私は抗います、暴君ディランドに。偉そうなことを言ったけど、最後には戦いになるかもしれない。そうなったら改めてお願いします、みんな一緒にと」
意志を定める者があって、従う大勢が居る。それだけを言えば、皇帝とロタはなにも変わらない。
だが聴衆の声は、一つにまとめられていった。
「ロタさま!」
「ロタさま!」
何度繰り返されたか、数えるのも困難なほど。
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