第35話:あと少し

 壁の向こうのざわめきが、彼方の出来事のごとく。けれどやがて、それも静まっていった。

 沈黙に耐えきれなくなったのはロタ。視線を引き千切るように顔を背け、目を閉じた。


 数拍。それでも見つめ続けるニクを、ワンゴは黙って立ち上がらせた。

 部屋の出口へ向くと、彼はもう振り返らない。二人の背で、少しの音を立てて扉が閉まる。

 と、すぐに。ロタは膝を折った。床へ手を突き、上がった息を整えるように深い呼吸を繰り返す。


「もっと、もっと。そう言っていたら、誰もが貴族の暮らしよ。そんなこと、出来るはずがないのに」


 歩み寄って、背中を撫でてでもやるべきだろうか。

 考えたが、胸の内で「いや」と否定した。そこに居るのは、この国の司祭長。皇帝と並ぶ最高権者。

 そんな人物が、政治を考えている。慰めなど、害にしかならない。


「まあな。上に在る者の豊かさとは、下の者の我慢の量だ。それを平衡に出来た例を俺も知らん」

「そうよ。それなら手に届く物を守って、みんなで楽しく生きるほうがいいじゃない。新しい作物を植えるのに、他人の畑を奪う必要はないの。なにか一つ、作るのをやめればいい。また食べたくなったら、来年作ればいい」

「ああ、それで十分に幸せと思う。間違っている部分はどこにもない」 


 そうでしょう。と力なく、ロタは床を叩く。これが政府の石頭や海軍の禿頭ならば、俺もテーブルを叩き返していた。

 なんだかんだ、俺も女に甘い。


「間違っていないが、思慮が足らない。いやきっと分かっているはずだが、きみは気付かないでいる」


 なんのことかと問いはなかった。ロタはただ、床石の継ぎ目にしがみつく。


「今までの豆と、新しい菜っ葉と。一緒に食ってみたいと考えるのは、まったくおかしくない。もちろんきみの言う通り、言い出せばどれだけの畑があってもきりがない。しかし――」

「しかし?」


 ロタの言い分が唯一絶対の正解ではない。俺の言わんとするところを察したはずだが、彼女の声に変化はなかった。


「ニクの植わっていたのは、元からきみの畑でなかった。それを裏切りと言ったところで、持ち主も作物自身にもなにをか言わんやだ」


 気付かなかったものは、どうしようもない。だがニクの意志を知ってなお、認めないと言うなら。それは大いなる矛盾で、欲する物は持つ者から奪おうと言う皇帝と変わるまい。

 この一点には彼女も気付いていなかったろう。散らばって聞こえた呼吸が、すっと途絶えた。


「……じゃあ、私は間違っているの」


 しばしの思考の後。大きく吸った息をいっぱいに使い、ロタは問うた。


「間違ってはない」

「でもニクが」

「彼は正解を選んだのではない。どちらが好みかというだけだ。ふかふかの畑を好む花があれば、泥水がいいという花もある」


 政治とは常にそうだ。万人の受け入れる、ただ一つの正義は存在しない。どちらかと言えばこっちと、なんとなくの選択を積み重ねるだけのもの。


「ええ、分かる。どうしてハンブルを憎まなくちゃいけないんだろうって、時々思うもの。だから取り引きを緩くしようって考えられた。でもあの優しいおじさまだって、心の底から嫌ってた」

「それも間違っていない。昨日の自分と正反対を信じることはあり得ん、などと考えるほうが思考の硬直というもの」


 ロタとニクの歳の差は、さほどでない。だからと意見の異なってまずい理由もない。ましてワンゴなど、そんなことに拘るのは無駄と言うはず。


 そういう価値観を、少なくともロタは知っているべきだ。けれど必ずしも採用する必要はない。時代が変わったからといちいち実情を合わせては、混乱を生むだけのこと。


「冷たいのね。エッジ、あなたはそんなに知っていても、答えを教えてくれないの?」

「出せと言われれば、案くらいはな。だが正解は誰にも分からん」

「ではその案を教えて」


 少し落ち着いただろうか。力んでいた手指が柔らかく動き、上向いた視線は俺を捉える。


「ニクを取り戻したいなら、証明することだ。きみ自身が幸せと、見せてやることだ。耕してもない土地を指して『あそこはよく育つ』と言ってもな」

「それは結局、ディランドを肯定することにならない?」

「まあ、そうだ。敵対する以上は、相手の槍を折らねばならん。それもしないのなら、手に届く物を守ると言ったのも嘘になる」


 唇を噛んで、ロタは頷いた。もうなにも言っていないのに、何度も何度も。

 そうやって、覚悟を呑み込んでいたのかもしれない。大きく、小さく、三十回以上も。


「ねえ、エッジ」


 しばらくして、彼女は立ち上がろうと身動ぎした。が、腰を浮かしたくらいで力が抜けてしまう。

 ロタは「お願い」と、両手を差し出した。もちろんそれくらいはお安い御用だ。淑女の手に触れるのは気恥ずかしいが、ここには他に誰も居ない。


「気丈な司祭長どのも腰を抜かすことがある。とは、すぐに忘れるとしよう」


 深刻な悩みの後には、冗談の一つも必要だろう。慣れぬ振る舞いに、我ながら失笑しつつ手を引いた。

 しかしやはり、ロタは立てなかった。


「ごめんなさい、お願い」

「ん……いやそれはだな」


 もう一度、彼女は頼むと言った。出した手の懐を広げ、今度は抱き起こせと。

 さすがにまずかろう。言葉を濁し、断った。けれどもロタは、横に首を振る。


「お願い」

「ああ、分かった。チキに知られれば、刺し殺されるな」


 押し問答をするより、直ちに終わらせたほうが良い。そう自分に言いわけを行ってしゃがみ、彼女の両脇に手を差し入れる。

 どちらの帝国でも、女性の感触は柔らかい。男と比べようにも、そちらは怪我人か死人になるが。


「では起こすぞ、せえの――」


 息を合わせようとした声が、途中で押し潰される。


「ロタ?」

「お願い、このまま。あと少しだけ」


 立つどころか、彼女の腕が俺を引き寄せた。思いもよらぬ方向へ引かれ、危うく押し倒すところだ。

 しかもそのまま、動くなと。首に縋りつくロタの、引き攣った呼吸が耳に吹きつける。

 泣いている、のではないらしい。飛び交う銃弾の下で震える、恐れおののいた兵士と似ていた。


「私、間違っていたらどうしようって。まだ十六だった。教えてくれる人も居なかった。それなのにみんな、助けてって」

「……そうだな」


 司祭長を継いだのはいつかと、言われればたしかに。

 女の歳を云々とはみっともない。などと固定観念は置いて、気付いてやらねばならなかった。


「たくさん間違えた。でもね、誰も私を責めなかった。それでもっと怖くなった。みんなの言う通り、いつも私は正しい答えを知っていなきゃって」


 我が手の所在に困る。幼い子なら、頭を撫でてやれば良かろう。しかし俺には妻が居て、彼女は嫁入り前の娘。

 けれど。怯えて助けを求める者を、見捨てることも出来まい。乗りかかった舟だ、そっと背を叩いてやった。

 経験もないが、子を寝かしつける心持ちで。


「エッジ。エッジ。分かってる、あなたには一番と想う人が居る。でも今だけ、お願いだから許して」

「……俺はハンブルだろうに」

「そんなの、昔のことよ。あなただけなの、私を叱ってくれるのは。私に間違ってるって言ってくれるのは」


 引き寄せる力が、ますます強まった。今だけという言葉の意味も、おそらく思い違いでない。

 分かったとは、口が裂けても言えなかった。だが突き放しては、彼女が孤立してしまう。


 だから、だ。芙蓉子、きみを裏切るつもりはない。これは人助けだ。

 この上なく往生際の悪い文句を並べ、俺はロタを抱き締めた。

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