第32話:お前だけが

「ニクですって?」


 問うワンゴに、遠見の筒を渡してやる。するとすぐ、重いため息が聞こえた。


「ええ、そのようです。まさかニクが、ロタさまを裏切るなんて」

「いや、まだ分からん。牢から脱走してきたのかもしれん」


 その可能性はある。それほどの疲労も感じさせず、油断なく警戒して進む姿を見るに、提示した俺自身があまり信じていなかったが。


「少しの期待にも望みは残すべき、ですね」

「その通りだ、ロタを呼んでくれ。それから他の連中にも。最初に頼んだ通り・・・・・・・・、な」


 肯定してくれたワンゴだったが、「まさか」と心の声も同時に聞こえた。

 どうであれニクの姿を認めて、ロタに知らせぬ選択はない。筒を返した少年は姿勢を低く、あちらの死角になる方向へ姿を消す。

 居残った俺は、身体を地面にべったりと押し付ける。今夜の雨は細く小さく、月明かりがあった。


 茂みの根本に隠れたまま、やがてニクを見送る。呼吸は聞こえない。自分の足音に注意を払った歩み。

 服装はいつも通り、ゆったりとした白い上下に褐色の外覆い。腰にサーベルはなく、ワンゴの言った長い包みが背にあるだけ。三十歩ほどを行っても、後続の気配はなかった。


「――やあ、ニク。無事でなによりだ」


 無造作に、茂みから出た。声をかけた時には、もう彼も振り返っていた。鋭く細められた目が、「あっ」と小さな声と共に見開かれる。


「おかげさんでな。しかしこれでも追われる身だ、無事とも言いがたい」

「今のところ追っ手は見えんし、怪我もないんだろう? それで十分にロタは喜ぶ」


 周囲を見回して見せる。無造作に背を向けもした。止まった位置からニクは動く気配がなく、なにか取り出そうともしない。


「すぐに彼女も来る。ああ、喜ぶと言ったが、先に叱られる可能性も高い」

「そうだろうさ。皇帝を襲うなんて馬鹿なことをと、ロタさまなら言うに決まってる。知ってるか? あの人が怒ると、かなり怖い」


 ちら、と。彼はほとんど首を動かさず、視線を後ろへ、村の方向に向ける。一瞬のことだったが、同時に薄く笑った気もした。


「想像はつく」

「だろ」


 わざと引き摺るように、湿った足音を鳴らして二歩、三歩。彼はゆっくりと近付く。

 大きく首を動かし、俺の腰と目を交互に見比べた。折れたサーベルは水の都ワタンへ置いてきた。


「ここにロタさまを連れてきたのは、お前だな」

「まあそうだ」

水の都ワタンは沈んだと聞いた。そのさなかに?」

「ああ」

「――すると俺がなにをしに来たか、察してるってことだ」

「誤っていれば、と考えている」


 あと十歩の間合いで、ニクは背に手を伸ばす。包んだ布を剥がさぬまま両手で握り直し、先を地面に向けた。


「三眼人の武器は使い慣れんが、武器なしが相手ならどうにかなるだろう」

「ロタが悲しむぞ」

「ハンブルのために?」

「弟分のためだ。他の誰でなく、お前だけはと!」


 得物を大きく上段へ振り上げ、ニクは駆けた。あれが宝物のどれでもなく剣であるなら、避ける以外の策はない。


「死ねえっ!」


 風を含んだ布が唸りを上げる。真後ろへ跳んだ俺の影が、二つに割られた。

 けれども攻め手は止まらない。ぐるりと背を回す速度が尋常でなかった。こちらが次の体重移動を終える前に、もう頭上へ掲げられている。


 右足を大きく踏み込み、回転してまた踏み込む。同じ動作の一閃ごと、縦一文字が徐々に水平方向へ変化する。

 まるで荒れ狂う風に翻弄される風車がごとし。荒々しい軌跡の内へ立ち入ることは、即ち死を連想させた。

 一歩。また一歩と、俺は後退し続けた。


「おとなしく、女を捜すだけしていれば!」


 間違いなく、包まれた中身は剣だ。きっと太日本帝国で言うところの野太刀。切っ先を重く拵え、馬上で使うことを前提とした重量武器。

 それをニクは息切れもせず振り続ける。最初に見た直線的な剣筋とも明らかに違う、別人の戦いぶりで。


「あれはあれ、これはこれと、一つ諦める者はなにもかもを諦める。一家を満足に養えん者が、どうして一郷を背負える。どうやって国を安んじる!」


 ひと際大きく。一段と速度を増した刃が、なびくマントを切り裂いた。いやかすっただけなら、もう何度目か。合わせ目は既にボロ布と化している。

 五歩の間合いを空けると、ニクも剣を止めた。緩んだ布を剥ぎ、予想通りの長い剣身を見せつけた。


「ハンブルは欲張りで困る」

「歳を食うごと、守る対象は増えるものだ。中でも大切なものがどれで、そのためにどうすればいいか。という段階にようやく達したが、答えは出ていない」

「だからなにもかもってことか? そう言わず、大事なら抱えこめよ。手の中にぎゅっと握ってりゃ、誰も手出し出来ない」


 そうしてくれれば、お前を傷付けずにすんだ。と言ってくれているように思う。

 だから迷いもあるのだろう。ニクがその気なら、いまだ無傷などとあり得ない。もちろんその場合、俺も相応の対処に踏み切ることとなるけれど。


「そうだな、お前だけだ。ロタでさえ、最初は俺を悪しざまに言った。お前だけは俺を悪く言わなかった」

「そんなことがあったか? もう忘れた」

「ああ。時流、趨勢とは残酷なものだ。それを俺は、貴様より多く知っている」

「抜かせ」


 村の方向から、足音が聞こえる。それは一つで、きっと体重の軽い女のもの。踏み潰した水音が、乱れに乱れていた。

 到着の前に、ニクは進退を定めねばならない。先には振り上げた大剣を、今度は正面に構える。


「ハンブルなら一対一で負けることはない。たった今、俺はお前を侮ってたよ。だからこれが本気ってことだ」

「能書きはいい、来い」


 俺の誘うまま、ニクは地面を蹴った。今度は回転しない。剣に己の身を隠すがごとき構えのまま、突進する。

 避けなければ、当然に串刺し。左右の一方へ逃げれば、長大な刃が横薙ぎに追う。反対なら、先の回転斬りが行く手に先回り。

 背を向けて全力で逃げる以外に、回避の道は見つからない。だが俺は、逃げることをしなかった。切っ先を摘みとる心持ちで利き腕を伸ばす。

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