第30話:濁流の底で

「それだ」


 俺の半分くらいに思える肩幅を、両手に握る。そうしなければ、己の迂闊さに卒倒しそうな気がした。


「ど、どれ?」


 驚かせたろうか。口ごもるロタに、かぶりを振って見せた。

 徴用したての兵卒でさえ気付くような。当たり前に気付かねばならぬことを、きみが言ってくれた。また礼を言うべきだが、先に伝えなければ。


「きみの言う通りだ。なぜ砂の民は攻めてこない」

「それは私たちが無事と知らないから」

「いいや。俺が砂の民の指揮官なら、避難を待つなど手ぬるい。ようやく逃れたと息を吐く間も与えず、激流に突き落とす」

「ひどい……」


 巨大な黒い泉が、どっと溢れかえる。目を細め、まばたきを繰り返し、雫こそ落ちなかったが。


「違う、俺はそんな作戦を立てない。既に非道を行った、奴らの位置に立てばだ」

「ええ、分かる」


 異物を無理やり飲み込むように。かくかくと、彼女はぎごちなく頷く。分かりやすく言ったつもりが、怯えさせたらしい。


「すまん。しかし前後を思えば、これが現実としか考えられない。昨日の時点で気付けば、猶予を持って話せたんだが」


 ロタは一つ、深呼吸をした。

 途端。眼に憂いを浮かべていた女性が、民を守る司祭長へと表情を変える。


「大丈夫、瀕死だった人間を責めたりしない。だから教えて」

「これは、罠だ」

「罠?」


 口調まで、凜と背すじが伸びた。だが状況からの推測だけを並べるのには抵抗がある。目に見える結果があるなら、すぐにもたしかめたほうがいい。

 罠とはなにか。結論だけを告げ、協力者を集めるよう俺は求めた。




 体感で三時間ほど後。雷が収まり、強い風だけが残った。夜も明けて明るくなり、どうにか作業が出来そうだ。


「ねえ、やはり私も行ったほうが」

「きみに万一があってはまずいだろう」

「あなたたちにあっても困るわ。お願い、足手まといにはならないわ」


 徐々に嵩を減らす水ぎわで、ロタは見送る。浸かっているのは俺の他にワンゴ、チキも含めた一眼人の侍祭が三人。

 同行すると言われたのは、これで何度目か。そのたびに断った回数が一つ増える。


「こうまで仰るのだ、貴様に断る権利などない」

「彼女の言うまま従い続けるのを、敬うとは言わん」


 ロタの発言は絶対と、迎えに戻るのはもちろんチキだ。深く踏み入る姿を振り返ると、水量は股の下くらい。問題ないだろうか、と揺らぐ。


「ボクが行けてロタさまが行けない、ってことはないですよ」

「いや、しかしな」


 意外にもワンゴまで、連れていこうと賛同し始めた。

 俺やチキが下着姿なのに対し、少年は上衣を着たまま。その胸までも浸かって、たしかにワンゴよりはと返答に困る。


 徐々に、ロタの後ろに立つ森の民たちが、俺への視線を険悪に変えていった。彼女を前に滅多なこともすまいが、もうマントをかぶっても一人で歩けないかもしれない。


「駄目だ」


 しかしきっぱりと、否を告げる。

 危険はないかもしれない。が、あくまでも、かも・・だ。待っていれば、その可能性はゼロになる。

 けれどロタは引かなかった。


「お願い。列の後ろで、なにをするのもあなたの許可をもらうから。私の責任を自分の目で見届けないと、きっと永遠に後悔するから」


 気持ちは分かる。分かりすぎる。俺の視界の外で、取り返しのつかないなにかが起こってしまうなど。

 たとえ結果を知るだけでも、自分が当事者でなければ。抱える重石は、想像を絶する。


「……分かった。ただし最後尾は、侍祭の誰かとワンゴだ」

「ありがとう、エッジ」


 良かったのか、もう結果で判断するしかない。「いや」と短く答え、深いほうへ踏み入る。

 これ以上に人数を増やされても、事故の発生率を高めるだけだ。


「なぜ貴様に協力せねばならない」


 荒々しく水を掻き分け、先頭を奪おうとするのはチキ。なぜと言うなら彼に「お願い」と頼んだのはロタだが、それには文句を言わない。


「愚かな俺が失敗しても、お前が目的を果たしてくれるからだろう」

「煽てたつもりか? ハンブルにそんな口を聞かれても、腹が立つだけだ」


 どうやら体調はいいらしい。張り切っているなら、先頭も喜んで譲る。どうせ街中のことは俺には分からない。


「この状況でも、お前なら道に迷うことはないだろう?」

「当然だ。この町で私に知らないことはない」

「頼もしいな。それなら長い金属の棒が欲しい、心当たりがないか」

「なぜ貴様に教えなければいけない」


 台本を読み合わせたのだったか。と思うほど、予想通りの答え。すると次には、こう言えばいい。


「ロタの希望を叶えるのに必要なんだが――仕方ない、チキでも分からんと言えば彼女も納得してくれるだろう」

「誰が分からないと言った!」


 泥をかぶり、生活用具が散乱し、変わり果てた町を進む。先導するチキは一つとして角を誤ることなく、鍛冶屋へと辿り着いた。

 要望通り、炉を掻く棒がちょうどいい。


 それから向かったのが本命となる。水没した水の都ワタンで唯一、足下を濡らした程度の建物へ。


「ここでなにをする気だ」


 ロタ以外は、なにも知らない。入り口を入るなり、チキが問う。さすがにここからは俺も迷わないが、先頭を譲る気配なく。


山砦の村マトレで、良からぬなにかが企てられている。俺はそのことを調べに行った」

「ええ、おかげで避難が間に合ったわ」


 アーチ状の天井に、ロタの声が響く。しかし俺は、否定に首を振った。


「それがおかしい。どうして俺たちは、監視にも会わず貯水地まで行けた? なぜ俺は生きて帰された?」


 ひと言を発するたび、ロタも小さく「ええ」と返す。大きな通路を左に折れる時、彼女の悲しげな瞳が見えた。


「なんのために、皇帝陛下は移動を早めた? 水の都ワタンを沈めるなら、雨季の前に去らねばならんのは分かりきっている」

「水攻めに気付かせたかった……ということ?」


 港の町ポルトが被害を受けぬよう、河口や沿岸の拡張工事まで行った皇帝だ。たかが移動の日程くらいを誤るはずもなかろう。

 あの男は、予定を変更したのでない。変更するまでが予定のうちだ。


「それは理屈に合わない。これほどの野蛮を行って、知らせたかったなどと。そんなことをして、なんの益がある」


 チキの言う通り。あれほど巨大な堰を造るには、莫大な労力がかかっているはず。それをみすみす知らせては、無駄にもほどがある。


「それを答える前に、二つ聞きたい」

「なんだ」

港の町ポルトで居なくなった魚人たち。その後、なにか分かったか」


 チキは答えず、振り返った。多少は知っているのかもしれないが、全て把握しているのはロタだ。


「いいえ。きちんと、ニクが手配してくれたけど。手がかりはないって、報告が届いているわ。この二日を除いてね」


 ニクの名を口にするとき、一瞬の間があった。あの男がなにを思い、皇帝に刃を向けたか。それだけはまだ分からない。


「もう一つ。魚人は水中が得意と聞いたが、嵐の海はどうだ」

「話に聞いただけだけど。水面での作業でなかったら関係ないそうよ――魚人たちが?」


 ちょうど、目的地に着いた。半開きになった扉を開けるのも、水が重い。持参した棒を梃子てこにこじ開ける。


「住人が去り、魚人だけが闊歩できる街。そこにまだ残された物がある」

「八人種の宝物、ね」


 歯を食いしばる高い音が虚しく響いた。宝物の祭壇に囲まれた中、誰もが顔を見合わせる。

 しかしまた、「おかしい」と唱えたのはチキ。


「それならやはり知らせずに、みなごろ――沈めたほうが楽ではないか」

「分からんか。ごまかし通せるなら、人口は減らないほうがいい。水攻めの事実も、実際に見たのは俺とワンゴだけだ」


 すぐになにか言おうとしたが、もうチキの声はなかった。代わりにロタが、最終の事実を口にする。

 

「宝物を独り占めしたいってことね」

「魚人には相応の報酬が必要だろうがな」


 墓を暴くように。ここに居る誰のせいでもないのに、後ろめたい気持ちになった。

 粛々と、八つの扉を開いていく。どの扉も、外れかけていた。入り口が壊れていないのに、おかしなことがあるものだ。


 調べた結果は、予想に違わない。

 俺が預かったままの一つを除いて、宝物は残されていなかった。

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